無作法と批評性

2022-06-15 mercredi

ある地方紙に月一連載しているエッセイ。今月はこんな主題だった。 

 毎日新聞の社説が、ある政党の所属議員たちの相次ぐ不祥事について猛省を求める論説が掲載された。新聞が一政党を名指しして、もっと「常識的に」ふるまうように苦言を呈するというのはかなり例外的なことである。
 ルッキズム的発言や経歴詐称の疑いなど、いくつか同党の議員の不祥事が列挙してあった。しかし、この苦言が功を奏して、以後この政党の所属議員が「礼儀正しく」なると思っている人は読者のうちにもたぶん一人もいないと思う。この政党の所属議員たちはこの社会で「良識的」とみなされているふるまいにあえて違背することによってこれまで高いポピュラリティを獲得し、選挙に勝ち続けてきたからである。「無作法である方が、礼儀正しくふるまうより政治的には成功するチャンスが高い」という事実を成功体験として内面化した人たちに今さらマナーを変更する理由はない。
「無作法であること」がそうでないよりも多くの利益をもたらすという経験則はこの政党に限らず、今や日本社会全体に瀰漫しているように私には見える。今の日本では「無作法であること」はどうやら鋭い批評性の表現と見なされているらしい。
 SNSで見ず知らずの人間に向かって、いきなり「お前」と切り出して、罵倒の言葉を浴びせてくる人がいる。この人たちはまず人を怒鳴りつけるところから話を始める。おそらく彼らは次のような推論を行っているのだと思う。
「私は今すごく怒っている。ふつう人間は『よほどのこと』がない限りこれほどは怒らない。それゆえ、私が怒っているということは、私の怒りには十分な合理的根拠があるということを意味している。」平たく言えば、「私が怒っているのは私が正しいからである」ということである。
 私が大学の教務部長をしていた時に、学生の親からいきなり「謝れ」という電話がかかってきたことがあった。「何について謝るのでしょうか?」と訊ねたのだが、教えてくれない。「保護者がこれだけ怒っているのは、大学に非があるからに決まっているだろう。いいからまず謝れ。話はそれからだ」と言い張るのである。うんざりして電話を切ってしまった。
おそらくこの男性は「こういうやり方」でこれまで難しい交渉ごとを切り抜けてきたという成功体験があったのだろう。
 そういう人たちを周りによく見かけるようになった。銀行の窓口でも、コンビニのレジでも、信じられないほど無作法な口のききかたをする人たちに日常的に出会う。「正しい要求をしている時、人間には無作法にふるまう権利がある」という考え方にはたしかに一理ある。けれども、その逆の「無作法にふるまっている人間は正しいからそうしているのである」という推論は間違っている。
 ほとんど場合、過剰に無作法にふるまっている人間は自分の言い分が論理的には破綻を抱え込んでいることを実は知っている。だから、それを見抜かれぬために、相手に考える時間を与えないように怒声を張り上げるのである。
 若い人たちに申し上げたいのは、「無作法」と「批評性」を混同しないで欲しいということである。難しい要求であることはわかっている。私自身若い頃はこの二つを混同していた。「寸鉄人を刺す」とか「快刀乱麻を断つ」というような一刀両断的な評言をする人たちは絶対的な確信を持っているからそういう無作法な態度をとっているのだと思っていた。でも、長く生きているうちに、無作法の強度と言明の真理性の間には相関がないということがわかってきた。
 若い人たちに知って欲しいのは「批評的でありながらも礼儀正しい語り口」というものがこの世には存在するということである。そういう文章を探し出して、できればそういう「語り口」を身に着けて欲しいと思う。もちろん、それが困難な事業であることはわかっている。でも、若い人たちはそれくらいの野心的な目標を自分に課してもよいと思う。まだ自己陶冶のための時間は十分に残されているのだから。
 批評的でありながら礼儀正しい文体というのがどういうものか知りたい人にはアナトール・フランスの『エピクロスの園』とクロード・レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』をご推奨したい。何が書かれているかを理解するよりも先に、彼らの息の長い文体そのものを味わって欲しい。複雑なことを言うためにはそれなりの知的肺活量が必要だということがわかるはずだ。それがわかるだけでも読む甲斐がある。
 長いものはちょっと読む暇がないという方にはレイモンド・チャンドラーが造形した名探偵フィリップ・マーロウの有名な台詞をお送りしたい。
「非情な人間でなければ私は今日まで生きてこれなかっただろう。けれども、礼儀正しい人間であることができないのなら、私は生きるに値しない。」(If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.)
「礼儀正しくあることができないなら、人間として生きるに値しない」というのはずいぶん厳しい言葉である。けれども、今の日本人が真剣に傾聴すべきものだと私は思う。