韓国のみなさま、内田樹です。このたびは『レヴィナスの時間論』をお買い上げくださいましてありがとうございます。まだ「買おうとどうか」迷っている方も本をお手に取ってくださったことについて感謝申し上げます。せっかく手に取ったんですから、このまま「序文」だけでも読んでいってください。
「序文」を読んだだけでも「なんとなく自分に縁がありそうな本」なのか「まったく無縁の本」なのかは直感的に識別できます。「縁がある」というのは「著者が言っていることに共感できる」とか「言いたいことがすらすら理解できる」とか「もともとこのトピックに興味があった」とかいうこととは違います。たいていの場合は逆です。
この本の場合なら、「レヴィナスって、誰?」という人が、それにもかかわらずこの本を手に取って、ここまで読んできたということ、それが「ご縁があった」ということです。僕たちはたいていそういうふうにして思いがけない本に出会います。
僕の人生を大きく変えたような本はどれもそうです。書店をぶらぶら歩いているときに、ふとある本と「目が合う」ということがあります。どういう条件が整うと「目が合う」のか、それは僕にもわかりません。でも、著者と編集者と(この本の場合は翻訳者)が「この本を一人でも多くの読者に届けたい」と思って真剣に作った本には独特の「たたずまい」があります。装丁のデザインとか、製本とか、紙質とか、頁を開いたときの行間や余白とか、そういう物質的なところにも微妙な「力」が行き渡っている。その「力」は書店をぶらぶら歩いているだけでも感知できるんです。
もし今この文章を読んでいる人の中に「内田樹」も「レヴィナス」も「朴東燮」もどれもはじめて見る名前だという人がいたら、その人を呼び寄せたのは、この本の発しているそういう「力」だと思います。
僕がエマニュエル・レヴィナスというフランス人哲学者の書いた本にはじめて出会ったのは1980年のことです。もう40年以上前になります。僕はそのとき大学院でフランス文学研究の修士論文を準備しているところでした。テーマはモーリス・ブランショというフランスの文芸批評家の文学理論についてでした(たぶん韓国語訳はまだほとんど出てないと思いますから、名前をご存じなくても気にしないでください)。
研究のための参考文献として、ブランショ関係の文献を手あたり次第にフランスの書店に注文していました(まだAmazonもメールもない時代ですから、カタログをめくっては書店に手紙を書いて、数か月後に本が届くという牧歌的な研究環境でした)。レヴィナスの本はその中にありました(レヴィナスはブランショと学生時代から交友があったので、この人の本に何かブランショ理解のためのヒントが見つかるかもしれないと思って注文したのです)。
僕は何冊か届いたレヴィナスの本の中から『困難な自由』(Difficile Liberté)という300頁ほどの本を選びました。ところが、読み始めたけれど、まったく一行も理解できません。10頁ほど読んで顔を上げた時に「一言も理解できない」ということに愕然としました。それまでもずいぶん難解な哲学書を読んできましたけれど、ここまでみごとに「一言も理解できない」ということは過去に経験がなかったからです。
ふつうならそこで本を閉じてしまうところですけれども、僕は閉じることができませんでした。ある種の「力」で著者に惹きつけられたからです。
それはちょうど街を歩いていたら、向こうから歩いて来た見知らぬ外国人にぐいっと手をつかまれて、すごい勢いで話しかけられているような感じに似ていました。僕の知らない外国語ですから、何を言っているのかさっぱりわからない。でも、この人は道行く他の人たちではなく、まっすぐ僕をめざして歩いてきた。そして、僕の手をつかんで離さずに話しかけている。僕にできることは「この人の言っていることが理解できるようになろう」ということだけでした。そのためには、まずその人がしゃべっている「外国語」をまず習得しなければならない。
レヴィナスはもちろんフランス語で書いています。文法的に破格であるわけではない、ちゃんとしたフランス語です。僕はそれまで10年間フランス語をかなり集中的に勉強してきましたから、辞書さえあれば、だいたいのことはわかります。レヴィナスはさまざまな哲学用語も使います。どれも「哲学辞典」を引けば意味がわかる語ばかりです。だから、わからないはずがないのです。でも、ぜんぜんわからない。
この時、僕の前には二つの選択肢がありました。「これは僕とは無縁の本だ」と思ってそっと本を閉じて、二度と手に取らないこと。もう一つは「この人が何を僕に言いたいのか、それがわかるような人間になろう」と決意することです。
僕は後者を選びました。それはレヴィナスが何を言っているのかはわからなかったけれど、彼が僕に向かって語りかけているということについては深い確信があったからです。
メッセージの「コンテンツ」は理解できなくても、「宛先」が僕であることについては確信を持つことができる。別に不思議な話ではありません。僕たちの日常にはいくらでも起きていることです。
そもそも赤ちゃんが母親から語りかけられている時に、赤ちゃんは母親のメッセージの「コンテンツ」なんか理解できません。まだ母語を習得してないんですから理解できるはずがない。でも、そのメッセージの「宛先」が自分であることはわかる。その人のまなざしが自分に向けられていて、その声の波動が皮膚に直接やさしく触れてきて、「この人は私に語りかけている」ということはわかる。
もちろん「私」という概念も「語りかける」という概念もまだ赤ちゃんの語彙には存在しません。でも、まさに「この人は私に語りかけている」という確信を基盤にしてはじめて「この人」という概念も「私」という概念も「話しかけている」という概念も受肉する。そうやって僕たちは母語を習得してゆくわけです。
僕たちは何を言っているわからないが、自分が宛先であることについてだけは確信できるメッセージを手がかりにして「成長」してゆく。それは母語の習得という一度きりの経験ではなく、僕たちの人生において実は何度か繰り返されることではないかと思います。とりあえず、僕の身にはそれが二度起きました。
レヴィナスが何を言っているのかはわからない。でも、彼が僕に向かって語りかけているということはわかる。そうであるなら、そのメッセージが理解できる人間になるように自己形成してゆくしかない。
そういうふうにして、以後40年間、僕はレヴィナスを読み続けてきました。レヴィナスの著作をいくつも訳しましたし、論文も書きました。この『レヴィナスの時間論』は僕がこの40年間書き続けてきたレヴィナス論のうちで最新の著作です。
でも、これだけの時間をかけて僕がレヴィナスが「言いたいこと」としてはっきり確信が持てるのは「人間は自分が宛先であることは確信できるが、中身は理解できないメッセージを解読できるような人間になるために自己形成してゆく(ことができる)生き物だ」という知見だけでした。つまり、今から40年前のレヴィナスとの出会いの瞬間に、僕はレヴィナスから学ぶべきことをすでに学んでいたのでした。レヴィナスと出会った瞬間に僕はすでに「レヴィナシアン」になっていたのです。でも、ほんとうに運命的な出会いというのは、そういうふうに時間の前後を逆走するようにして成就するものであるような気がします。どうしてかはわかりませんが。
長くなってしまったので、序文はこの辺にしておきます。
この本はレヴィナスが戦後すぐにパリの哲学学院というところで行った4回にわたる時間論講演をほぼ逐語的に精読したものです。はっきり言って、すごく難解です。でも、気にしないでください。もしみなさんがこの本を読んでいるうちに「レヴィナスが分かるような人間になることが私には必要なのかも知れない」と思ってくれたら、それだけでもこの本は書かれた甲斐がありました。
いつものようにてきぱきと仕事を進めてくれた朴東燮先生のご尽力に心から感謝申し上げます。ほんとうにありがとうございます。韓国でレヴィナスを読む人が一人でも増えてくれることを心から願っております。
2022年5月
内田樹
(2022-05-14 10:24)