村上春樹と上田秋成

2022-04-13 mercredi

 2017年の4月に台湾の淡江大学の「村上春樹研究センター」に招かれて「村上春樹の系譜と構造」というタイトルの講演をした。全文はのちに『街場の芸術論』に収録された。
 先日、ある新聞から映画『ドライブ・マイ・カー』についてインタビューをされたときに、この映画の主題も「傷つくべきときに十分に傷つかない人間が引き受けることを拒絶した負の感情は悪霊になる」ということだったという話をした。記事は短いものなので、それだけでは説明が足りないと思うので、ここに講演中の関連部分を再録しておく。

 村上春樹は小説を書くという行為についてほとんど排他的に「穴を掘る」という比喩を使うとさきほど申し上げました。でも、別の比喩も使います。それは「地下二階」あるいは「井戸の底」におりるという比喩です。地下室の下に別の地下室がある。

「人間の存在というのは、二階建ての家だと僕は思っているわけです。一階は人がみんなで集まってごはん食べたり、テレビ見たり、話したりするところです。二階は個室や寝室があって、そこに行って一人になって本を読んだり、一人で音楽聴いたりする。そして、地下室というのがあって、ここは特別な場所でいろんなものが置いてある。(...)その地下室の下にはまた別の地下室があるというのが僕の意見なんんです。それは非常に特殊な扉があってわかりにくいので普通はなかなか入れないし、入らないで終わってしまう人もいる。ただ何か拍子にフッと入ってしまうと、そこには暗がりがあるんです。(・・・)その中入っていって、暗闇の中をめぐって、普通の家の中では見られないものを人は体験するんです。それは自分の過去と結びついていたりする、それは自分の魂の中に入っていくことだから。でも、そこからまた帰ってくるわけですね。あっちに行っちゃったままだと現実に復帰できないです。」(『夢を見るために・・・』、98頁)
 
 作家とは地下二階に降りて、そこからまた帰ってくることのできる特殊な技能を具えた職能民であるというのが村上春樹の考え方です。けれども、「そういうこと」ができるのは別に物語を書く人に限られません。「自分の過去」に遡り、「自分の魂の中に」入り、そこで見聞きしたことを物語ることを本務とした人はたくさんいます。すべてのシャーマンたちがそうです。稗田阿礼のように口碑を口伝する人たちもそうですし、ホメロスのように叙事詩を暗誦する吟遊詩人たちもそうですし、「民族精神(フォルクスガイスト)」を称揚する作家たちもそうです。彼らがしていることは一言で言えば、死者たちと出会うことです。死者たちからの「贈り物」を受け取ることです。それは必ずしも心安らぐ経験ではありません。

「たとえば、『海辺のカフカ』における悪というものは、やはり、地下二階の部分。彼が父親から遺伝子として血として引き継いできた地下二階の部分、これは引き継ぐものだと僕は思うんです。多かれ少なかれ子どもというのは親からそういうものを引き継いでいくものです。呪いであれ、祝福であれ、それはもう血の中に入っているものだし、それは古代まで遡っていけるものだというふうに僕は考えているわけです。(...)そこには古代の闇みたいなものがあり、そこで人が感じた恐怖とか、怒りとか、悲しみとかいうものは綿々と続いているものだと思うんです。(...)根源的な記憶として。カフカ君が引き継いでいるのもそれなんです。それを引き継ぎたくなくても、彼には選べないんです。」(同書、115頁)
 
 地下二階に降りた人々はそこで「古代の闇」のうちに踏み入ることになります。そして、それを「引き継ぐ」。その闇から戻ってきて、それを物語る。そこでの経験は学術的な説明を受け付けるものではありませんし、主題的に論じることもできません。ただ物語るしかない。「そこで人々が感じた恐怖とか、怒りとか、悲しみとかいうもの」は、いまも連綿と引き継がれて、現に私たちの感情生活を形成し、私たちのコスモロジーの梁をかたちづくり、私が世界を見る仕方そのものをかたちづくっているからで。「古代の闇」はそのまままっすぐ「現代の闇」に繋がっています。闇の中に踏み入った者はそこで何を見ることになるのか。

「暗闇に侵入したあなたはそのとき恐ろしくなるでしょうが、また別のときにはとても心地よく感じるでしょう。そこでは、奇妙なものをたくさん目撃できます。目の前に形而上学的な記号やイメージがつぎつぎに現れるんですから。それはちょうど夢のようなものです。無意識の世界の形態のようなね。けれどもいつか、あなたは現実世界に帰らなければならない。そのときは部屋から出て、扉を閉じ、階段を昇るんです。(...)僕にとって、この空間の中にいるのはとても自然なことで、それらのものはむしろ自然なものとして目に映ります。こうした要素が物語をかくのをたすけてくれます。作家にとって書くことは、ちょうど目覚めながら夢を見るようなものです。それは、論理をいつ介入させられるとはかぎらない。法外な経験なんです。夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです。」(同書、156-157頁)
 
 この箇所を読んだときに、多くの読者は『騎士団長殺し』の後半で「私」が雨田具彦のいる老人養護施設の床に穿たれた穴から潜り込んでいった「メタファー通路」での経験を思い出すことでしょう。あるいは『海辺のカフカ』でカフカ少年が踏み込んでゆく「森の中核」での経験を。そこに描かれている一連の説明不能のものは、作家が文学的効果を狙って技巧的にしつらえた装飾的なミスティフィケーションではなく、おそらく作家「目覚めながら見た夢」なのだと思います。それが何を意味するのかは書いている作家自身わからない。それが何を意味するのかを知りたいからこそ作家は書いている。そういうことだと思います。
 この闇の中に下ってゆき、また戻ってくる物語、「冥界下り」という物語もまた、人類の歴史と同じだけ長い系譜を有するものです。でも、ここでは日本の近世文学以降に時代を限って、その系譜をたどってみたいと思います。
 
 先の引用中で「古代の闇」と言われたものを別のところで村上春樹は「前近代の闇」と言い換えています。日本の近代文学が否定し去ったものです。そして、自分自身はその闇を語るという点で上田秋成の直系に連なるということを認めています。

「『雨月物語』なんかにあるように、現実と非現実がぴたりときびすを接するように存在している。そしてその境界を超えることに人はそれほどの違和感を持たない。これは日本人の一種のメンタリティーの中に元来あったことじゃないかと思うんですよ。それをいわゆる近代小説が、自然主義リアリズムということで、近代的自我の独立に向けてむりやり引っぱがしちゃったわけです。個別的なものとして、『精神的総合風景』とでもいうべきものから抜き取ってしまった。」(同書、93-94頁)
 
 近代文学においてももちろん「非現実」は描かれます。けれどもそれはあくまで現実から切り離された、一種の文学的意匠であり、作中で登場人物が見る夢とか幻想とかあるいは劇中劇とか誰かが書いたファンタジーいうような「額縁」がつけられており、現実と非現実が境界を越えて、同じ次元で混ざり合うことには厳重な方法的抑制が課されています。しかし、村上春樹は自由にこの境界線を行き来することこそが日本文学の骨法ではないかという大胆な仮説を語ります。
『海辺のカフカ』の中の「非現実的」な登場人物について村上春樹はそれは「存在する」と書いています。

「僕が読者に伝えたかったのは、カーネル・サンダースみたいなものは実在するんだおということなんです。彼は必要に応じて、どこからともなくあなたの前にすっと出て来るんだ、ということ。それこそタンジブルなものとして、そこにあるんです。手を延ばせば届くんです。僕は彼を立ち上げて、彼について書くことを通して、そういう事実を読者に伝えたいわけです。」(同書、127―8頁)

「僕の場合は、(...)そういう現実と非現実の境界のあり方みたいなところにいちばん惹かれるわけです。日本の近代というか明治以前の世界ですね。(...)日本の場合は自然にすっと、こっち行ったりあっち行ったり、場合に応じて通り抜けができるんだけれど、ギリシャ神話なんかの場合は、本当に自分の考え方とか存在の在り方の組成をガラッと変換させないと向こう側の世界に行けない。」(同書、94頁)
 
 東洋と西洋では現実と非現実を隔てる「壁の厚さ」が違う。このことに村上春樹の自らの文学的的立場についての自覚が現れます。

「日本や中国では、並行する二つの世界があって、そのあいだにある架け橋が、一方の世界から他方の世界への移動を難しくしすぎないようにしている、と考えられています。西洋ではそんなわけにはいきませんよね。この世界はこの世界、あの世界はあの世界、といった具合になっています。分離は厳格です。乗り越えるにしては、壁はあまりにも高すぎ、あまりにもしっかりしています。しかしアジア文化は違うんです。僕が思うに、〈もののあわれ〉が描いているのは、こうした状況です。」(同書、157-158頁)
 
 村上春樹はここで唐突に「もののあはれ」という古典文学の美的概念を持ち出してきました。おそらくこれは直接には『源氏物語』のことを指しているのだと思います。『源氏物語』は「こうした状況」、つまり二つの世界の間にかなり自由な行き来がなされる状況の物語ではないか。村上春樹はかつて河合隼雄にこんな質問を向けたことがありました。

「村上 あの源氏物語の中にある超自然性というのは、現実の一部として存在したものなんでしょうかね。
河合 どういう超自然性ですか?
村上 つまり怨霊とか...
河合 あんなのはまったく現実だとぼくは思います。
村上 物語の装置としてではなく、もう完全に現実の一部としてあった?
河合 ええ、もう全部あったことだと思いますね。だから、装置として書いたのではないと思います。」(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』、岩波書店、1996年、123-124頁、強調は内田)
 
 この対談があった時点(1995年)では村上春樹は自分の作品の中で、境界を越えて非現実が侵入してくることは、一種の「装置」、一種の文学的技巧ではないのか(でも、そんなはずはない)という揺らぎのうちにあったことが言葉づかいからは窺えます。でも、このときの「あんなのはまったく現実だとぼくは思います」という河合隼雄の断定でふっきれた。
 それは『源氏物語』の中の怨霊の物語が、それからのちに村上春樹のいくつかの作品に意匠を換えて繰り返し登場してくることからも知れます。六条の御息所の生霊が葵上を祟り殺すというのは『源氏物語』の中で最もカラフルな怨霊物語ですけれど、これは六条の御息所という高貴な女性が「嫉妬」というような筋目の悪い感情を自分が抱くことを拒絶したことから起こる惨劇です。これに物語的にもっとも近いのは短編集『女のいない男たち』に収録されている「木野」です。
 木野は「会社でいちばん親しくしていた同僚と妻が関係を持っていたことがわかった」ときにひとり家を出て、会社も辞めます。そして伯母から青山の小さな喫茶店を譲り受けて、オーディオ装置に凝ったジャズバーを始めます。

「別れた妻や、彼女と寝ていたかつての同僚に対する怒りや恨みの気持ちはなぜか湧いてこなかった。もちろん最初のうちは強い衝撃を受けたし、うまくものが考えられないような状態がしばらく続いたが、やがて『これもまあ仕方ないことだろう』と思うようになった。結局のところ、そんな目に遭うようにできていたのだ。」(「木野」、『女のいない男たち』、文藝春秋、2014年、221頁)
 
 木野は「怒りや恨み」を感じません。「痛みとか怒りとか、失望とか諦観とか、そういう感覚も今ひとつ明瞭に知覚できない」(同書、221頁)まま日を過ごすうちに、木野のまわりに異変が起こり始めます。客同士の陰惨なトラブルがあり、体中に煙草の焼け跡のある女と交わり、開店のときに「良い流れ」を運んできてくれたように思えた猫が姿を消し、邪気を帯びた蛇たちが姿を見せ始めます。そして、ある日店の「守護者」の役割を果たしていたカミタという客から店を閉めるように忠告されます。木野はその忠告をこう解釈します。

「カミタさんが言うのは、私が何か正しくないことをしたからではなく、正しいことをしなかったから、重大な問題が生じたということなのでしょうか? この店に関して、あるいは私自身に関して」(同書、248頁)
 
 木野はカミタの忠告に従って旅に出ますが、「カミタに固く禁じられていた」私信をしたためるという禁忌を犯したせいで深夜のホテルの部屋に執拗なノックの音を呼び寄せてしまいます。そのとき木野は自分が何を招き寄せたのかを知ります。

「『傷ついたんでしょう、少しくらいは?』と妻は僕に尋ねた。『僕もやはり人間だから、傷つくことは傷つく』と木野は答えた。でもそれは本当ではない。少なくとも半分は嘘だ。おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ、と木野は認めた。本物の痛みを感じるべきときに、おれは肝心の感覚を押し殺してしまった。痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続けることになった。」(同書、256-257頁、強調は村上)
 
 物語は木野が「そう、おれは傷ついている、それもとても深く」(同書、261頁)と認めたところで救いの予感のうちに終わります。
 傷つくべきときに十分に傷つき、痛切なものを引き受けること。それが怨霊を解き放たないためには必要なことなのです。六条の御息所がその引き受けを拒絶した「妬心」は人一人を殺すほどの現実的な力を持ちました。木野がその引き受けを拒絶した「妬心」は彼自身に戻ってきます。この物語を書きながら村上春樹は自分が『源氏物語』の世界と地続きの文学的風土のうちにいることに十分に自覚的だったと僕は思います。
 
 村上春樹が過去の日本人作家としてはっきりとした「地続き」感を持っているのは上田秋成です。そのことは何度も書いています。まったく別の文脈においてですが、江藤淳は、上田秋成の文学の本質は「闇」のうちにあるという指摘をしています。
 秋成もまた現実と非現実の境界を行き来する経験を書き続けた作家でした。秋成は現実にはそこに存在しないにもかかわらず、濃密な実在感をたたえ、人間の生き死ににかかわるもののことをかつて「狐」と呼びました。狐憑きの狐、人をたぶらかす妖獣です。そういうものが秋成の時代の人々の日常生活のうちにはたしかなリアリティを持って存在していた。けれども、当時でも、知識人たちは妖怪狐狸についての物語を荒唐無稽と一蹴しました。彼らの見るところ「狐憑き」はただの精神病に過ぎません。その中にあって、秋成はあえて「狐」を擁護する立場を貫きました。その秋成の立ち位置について江藤淳はこう書いています。

「儒者の眼に見えるのは、病気という概念であって、『狐』という非現実の現存がもたらす圧力ではない。しかし、いったんアカデミイの門を出てみれば、『うきよ』に顔をのぞかせるのはつねに概念ではなくて、『狐』に憑かれた人間の奇怪な、しかし秩序の拘束のなかにいる『精神(ココロモチ)平常』なときにはたえてみられないほど濃い実在感に満ちた姿態である。あるいはまた、どうしても認めざるを得ない非現実の世界からのさまざまな信号である。」(江藤淳、『近代以前』、文藝春秋、1985年、238頁)

 秋成自身はありありと「狐」の実在を感じました。学者や常識人がどれほど否定しても、市井の人々が現にその切迫を感じ、「非実在の現存がもたらす圧力」を受け止めたり、それから身をかわしながら現に日々の生活を送っているという事実は揺るぎません。

「誰の眼にも見えぬこの動物ほど濃い実在感をあたえるものを、秋成は外界の現実のなかにひとつもみとめることができなかった。」(同書、240頁) 

「狐」は秋成が彼の地下二階で出会った「奇妙なもの」の別称です。その地下の「闇」のうちで「人が感じた恐怖とか、怒りとか、悲しみ」、その「根源的な記憶」を作品に写し出したときに『雨月物語』という作品が生まれました。それはもしかすると東洋人の作家にしかうまく書くことのできない物語だったのかもしれません。その「闇」には太古からこの地で生き死にした無数の人々の記憶が埋蔵されているからです。