年始のインタビュー

2022-01-04 mardi

毎日新聞に年頭のロングインタビューが掲載された。インタビュアーは吉井理記記者でした。

「-選択と集中」は、限られた人やカネの使い方を吟味し、より有用だと思われる事業や部門に多く振り向けたほうが効果的だ、という考えです。毎日新聞には1993年5月の大手繊維メーカー社長のインタビューで初めて登場します。以来約30年間、1400本超の記事で語られてきました。これを「捨てる」とはどういうことでしょうか。

「パイ」が大きくなっている時には、「選択と集中」というようなことは誰も言いませんでした。90年代初めまでは、大学でも研究費は潤沢でした。僕のような文学研究者の研究費なんか自然科学系に比べるとごくわずかですから、使い切れないほど予算がつきました。分配比率のことなんて、誰もうるさく言わなかった。

でも、右肩上がりの時代が終わり、「パイ」が縮み始めると、とたんに人々が「パイの分配方法」をやかましく論じ出した。「選択と集中」という言葉が出てきたのはその時です。

分配にはルールが必要だ、無駄遣いをなくせ、制度のフリーライダーを叩き出せ、資源は社会的生産性や有用性に応じて傾斜配分すべきだ、という「せこい」話になった。

―それは合理的に見えますけれど......。

僕も最初のうちは生産性・有用性に基づく資源の傾斜配分には合理性があると思っていました。でも、よく考えたら、どの研究に将来的な可能性があるかなんて実は予測できないんです。

加えて、「なぜこの研究が有望か」を説明するために、書類書きやプレゼンで膨大な時間とエネルギーを費やさなければならなくなった。「パイの取り分」を確保するためには研究教育のための時間を削るしかない。

予算規模が大きい自然科学分野では、「金策」に忙殺されて肝心の研究が進まないという悲劇が起きました。

―確かに文系の研究者からも同じ声を耳にしたことがあります。いかに結果を出したか、それっぽく見える書類作成に研究よりも時間が割かれる、と嘆いていました。

でも、無駄をゼロにして、成功するプロジェクトだけに資源を集中するということはできないんです。それは「当たる馬券だけ買え」というのと同じ無茶な要求なんです。

どんな分野でも、どの研究が空振りし、どれが「大化け」するかなんて事前にはわからない。だから無駄をゼロにすることは原理的に不可能なんです。

でも、今の研究者たちは、自分の研究は無駄ではないことを証明するために、研究時間を犠牲にして、膨大な量の作業を強いられている。この作業は何の価値も生み出していない。

―なるほど。しかし現実にパイは縮小している。分配できるお金も少なくなっていますが......。

少ないお金でも、とりあえず満遍なくばらまいておく方が、「役に立つ研究」だけに資源を集中しようとしてたいへんな手間暇をかけるより結果的には費用対効果がよいと僕は思います。

「選択と集中」というのは、要するにパイが縮んでいる時には、誰が無駄をしているのかを暴き出し、誰の取り分を減らすかを決めるということです。

査定や評価というのはそれ自体では何の価値も生み出さない典型的な「ブルシット・ジョブ」なんです。

日本の国力がいまどんどん衰えているのは、人々が他人の取り分をどうやって減らすかということだけに熱中して、新しい価値を生み出すための努力を怠っているからです。

学術の世界だけではありません。政治でも経済でも同じことです。「競争勝者に資源を優先配分する」というゲームを30年していたら、どの領域でも「誰でもできることを他人よりうまくできる人」ばかりが出世し、「誰もしていない全く新しいことを試みる人」は見捨てられた。

「誰もしていないことを企てる」人の中からしかパラダイムを転換できるようなイノベーターは出てこないんですから、そういう人たちをこそ支援しなければならないのに、それを制度的に怠ってきた。

ですから、科学技術上のイノベーションも新しいグローバルビジョンも日本から生まれなかったのは当然です。

―その危機感が社会で共有できていませんね。

それは「選択と集中」のせいで、どれくらいのものを失ったのか、メディアが現状を正確に伝えていないからです。

―確かに......。

才能ある人たちは、このばかげた評価と査定のシステムから逃げ始めています。無駄なことに貴重な時間とエネルギーを使いたくないのは当然です。

最近、米国から帰国した友人から聞いた話ですが、米国の大学院で学ぶ自然科学系の留学生の6割が女性だそうです。たいへんによく勉強するんだそうです。

―どういうことですか。

米国の大学や企業に就職するためです。米国で学位をとって日本に帰っても、女性研究者には能力にふさわしいポストが用意されていないからです。だから、米国で就職先を探す。

そうやって優秀な女性研究者が日本からどんどん流出している。優秀な人が逃げ出すようなシステムを日本社会自身が作り上げているんです。

すでに研究環境も韓国や台湾のほうが日本より良くなってきています。条件がよければ海外の研究機関に移りたいという研究者はこれからさらに増えるでしょう。

どうやったら海外に流出している女性研究者を日本に惹き戻すかを考えることが喫緊の課題なのですが、「どうぞ日本に帰ってきてください。厚遇しますから」というシグナルは日本の大学も企業も発信していない。

―日本へも海外から優秀な人が来てくれれば、とも思いますが......。

これほど研究環境が劣化している局面では、海外からすぐれた研究者が来てくれるはずがありません。

米国が世界の学術のトップでいられるのは世界中から人材が集まってくるからです。彼らが科学技術上やアートのイノベーションを担っている。

―米ケーブルテレビ局「CNN」の2019年の報道では、米国人受賞者の3分の1は移民の出自、とありました。一方、日本は移民に否定的ですし、21年12月21日に東京都武蔵野市で在留外国人にも住民投票に参加できる条例案が否決されたことが海外でもニュースになるほどです。

そうです。これからはある意味で「人の奪い合い」になる。生産年齢人口がこれから急減するのは、中国も韓国も一緒です。だから、マンパワーを確保し、マーケットのサイズを保とうと思ったら、海外から人を入れるしかない。それだけではありません。米国がそうしているように、学術的なイノベーションを担うことのできる才能を海外から受け入れる必要がある。

市民的自由を求めている人、人権の保護を求めて、受け入れてくれる先を探している人たちは世界中にいます。彼らを受け入れる制度を整備していれば、米国ほどではなくても、その中から卓越したイノベーターが出てきて、日本の未来を牽引してくれる可能性はあります。

日本は治安もいいし、社会的インフラも整備されています。ご飯も美味しいし、自然も美しい。だから、「日本は外国人を大切にしてくれる国だ」という評価が得られれば、たとえ多少給料が安くても、海外から優秀な人材が来てくれるかも知れない。

でも、武蔵野市の条例案を否決した後に、与野党の政治家が「安心した」「良識を示した」などと言ってしまった。これは外国の人に「日本はあなたたちを歓待する気はない」と意志表示をしたのと同じことです。

―「安心した」という政治家の発言を喜ぶ人たちもいます。

そうでしょうね。政治家が自分自身の選挙のことだけを考えているなら、選挙民が当座喜ぶことを言っておいたほうが有利だということのでしょう。愚かなことです。それは「自分が選挙に勝てるなら、国力がいくら衰微しても構わない」と告白しているようなものですから。

生産年齢人口が急減する局面を迎えている日本は、海外からマンパワーの安定的な供給がないともう経済が回りません。でも、そのことを政治家は認めないし、メディアも指摘しない。

そのような窮状にありながら「日本は外国人を歓待する気はない」と言い切る政治センスのなさには愕然とします。

―内にも外にも「意地悪な国」になっている、という印象があります。

昨秋の衆院選では、「議員・公務員の削減」といった「身を切る改革」などとにかく統治コストの削減を訴える日本維新の会が関西で躍進しました。

行政コストの削減は端的によいことであるというふうに日本国民の多くは信じ切っているようですけれど、それはいずれ市民への行政サービスの質の低下を帰結する。自分が「切られる」側にいるのにどうして平気でいられるのか、僕には理解できません。

―年初から暗いインタビューになってしまいました。メディアはつい安易に「ならば処方箋は」と聞きがちなのですが、その暗さにきちんと目をこらし、処方箋を自分で考えることから始めないと......。

まずは「選択と集中」という愚策を止めることです。評価と査定というブルシットジョブに無駄な手間暇をかけることを止める。そんな暇があったら、足元の空き缶を一つでも拾った方がいい。

『右大臣実朝』で太宰治は「人も家も、暗いうちはまだ滅亡せぬ」と書いています。「暗い」うちはたぶんまだ大丈夫です。