格差について

2021-09-25 samedi

 階層格差が拡大している。所得格差の指標として用いられるジニ係数は格差が全くない状態を0、一人が全所得を独占している状態を1とするが、日本のジニ係数は1981年が0.35、2021年は0.56と上がり続けている。この趨勢はこの先も止まらないだろう。「一億総中流」と呼ばれた国の面影はもうない。
 日本における格差拡大の要因は何か。それは雇用形態の変化である。かつては終身雇用・年功序列という雇用の仕組みが日本のどの企業でも支配的だった。
 もうその時代を記憶している人の方が少数派になってしまっただろうが、あれはずいぶんと気楽なものだった。植木等の「ドント節」(作詞青島幸男)は「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」というインパクトのあるフレーズから始まる。もちろん誇張されてはいるが、それなりの実感の裏付けはあった。
 60年代はじめのサラリーマンの日常を活写した小津安二郎の映画では、サラリーマンたちは小料理屋の小上がりで昼間からビールの小瓶を飲んで、午後のお勤めに出かけていた。もちろん全員定時に帰る。私の父もそうだった。毎日、同じ電車で出勤し、同じ電車で帰って来た。雨が降ると、駅前には傘を持って父親を迎えに来た子どもたちが並んでいた。今の人には信じられないだろう。だが、人々がこの判で捺したようなルーティンを営んでいる時代に、日本経済は信じられないほどの急角度で成長していたのである。
 それはこの時代の日本人がたいへん効率よく仕事をしていたからだと思う。どうして効率が良かったかというと、「査定」や「評価」や「考課」に無駄な時間や手間をかけなかったからである
 年功序列というのは要するに「勤務考課をしない」ということである。誰にどういう能力があるかは仕事をしていれば分かる。人を見て、その能力に相応しいタスクを与えればいい。別に査定したり、格付けをしたりする必要はない。難しいタスクを手際よくこなしてくれたら、上司は「ありがとう」と部下の肩を叩いて、「今度一杯奢るよ」くらいで済んだ。この時代の日本の会社は言うところの「ブルシット・ジョブ」がきわめて少なかったのである。
「ブルシット・ジョブ」は人類学者デビッド・グレーヴァーの定義によれば「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど完璧に無意味で、不必要で、有害でもある雇用の形態」のことである。英国での世論調査では「あなたの仕事は世の中に意味のある貢献をしていますか?」という質問に対して37%が「していない」と回答したそうである。たぶん今の日本で同じアンケートをしたら50%を超えるだろう。
 それなしでは社会が成り立たない仕事を「エッセンシャル・ワーク」と呼ぶ。公共交通機関やライフラインの管理運営、行政や警察や消防や、医療や学校教育、衣食住の必需品の生産・流通は「エッセンシャル・ワーク」である。それがきちんと機能していないと世の中が回らない。一方、いくなっても誰も困らない仕事をする「ブルシット・ジョブ・ワーカー」たちは「エッセンシャル・ワーカー」がちゃんと働いているかどうか管理したり、勤務考課したり、「合理化」したり、組織が上意下達的であることを確認することを主務とする人々である。そして、この人たちの方が「エッセンシャル・ワーカー」よりもはるかに高い給料をもらっている。
 不条理な話だが、ソースティン・ヴェブレンの『有閑階級の理論』によれば、人類が農業を始めてからずっとそうであるらしい。実際に労働して価値を生み出している人たちが社会の最下層に格付けされ、自分ではいかなる価値も創出しないで寄食している王侯貴族や軍人や聖職者たちの方が豊かな暮らしをする。
 今日本で格差が拡大しているというのは、言い換えると、「いかなる価値も創出せず、下層民の労働に寄生していばっている人たち」が増えているということである。だから、一部の人が天文学的な個人資産を蓄え、圧倒的多数が貧しくなり、集団全体は貧しくなる。
 格差というのは単に財が「偏移」しているということではない。格差は必ず、何の価値も生み出していない仕事に高額の給料が払われ、エッセンシャル・ワーカーが最低賃金に苦しむという様態をとる。必ずそうなる。
 もし、階層上位者たちが「明らかに世の中の役に立っている仕事」を誠実かつ勤勉に果たしているように見えていたら、私たちは決して「格差が拡大している」という印象を持たないであろう。世の中の役に立つたいせつな仕事をしてくれている人たちがどれほど高給を得て、豊かな暮らしをしていても、私たちはそれを「不当だ」とは思わない。「格差を補正しろ」とは言わない。
 だから、今日本で起きていることは単なるジニ係数的な「格差の拡大」ではない。ヴェブレンのいうところの「有閑階級」、グレーヴァーのいうところの「ブルシット・ジョブ・ワーカー」が全員で分かち合うべきリソースの相当部分を不当に占有し、濫費しているという印象を多くの国民が抱いているという事態なのである。「分配がアンフェアだ」という不条理感と、にもかかわらずそれを補正する手立てが見当たらないという無力感が、「格差が広がっている」という一見すると客観的な統計的事実の裏にある心理的事実である。この不合理を解消する手立てはあるのだろうか。
 格差があるときに、公権力が強権的に介入して、富裕者から召し上げた富をいったん国庫に納めてから再分配を行うのは難しい。歴史をひもとく限り、ほとんどの「強権的再分配」は失敗している。権力を手に入れた後に「公庫」と「自分の財布」の区別ができる人間は残念ながら例外的である。
 だから、いくら「有閑階級」が「ブルシット・ジョブ」で高禄を食んでいても、彼らの懐にダイレクトに手を突っ込んで、他の誰かの懐にねじ込むというやり方は止した方がいい。たいていの場合、それはさらなる社会的不平等をもたらすだけである。
 それよりは富裕者から召し上げたものは「公共財」として、パブリックドメインに供託するのがよいと思う。貨幣として退蔵するのではなく、「みんながすぐに使えるもの」にするのである。学校とか、病院とか、図書館とか、美術館とか、体育館とか、あるいは森や野原や湖沼や海岸というかたちあるものにして、「さあ、みなさんご自由にお使いください」と言って差し出すのである。私が「コモンの再生」ということを主張している時に考えているのはそういうイメージである。
 できるだけ「私有財」のエリアを抑制して、「公共財」のエリアを広げる。美しい森の中を歩いている時に、「私有地につき立ち入り禁止」という看板を見ると私は震えるほど腹が立つ。土地はもともと誰の所有物でもない。それを国や自治体が買い上げても、今度は「公有地につき立ち入り禁止」では何も変わらない。「公有地なので、みんなで使ってください」というのが正しい使い方だと思う。
 コモン(Common)というのは中世の英国にあった村落共同体の共有地のことである。村人たちはそこで牧畜をし、鳥獣を狩り、魚を釣り、果樹やキノコを採った。コモンが広く豊であればあるほど、村人たちの生活もまた豊かなものになった。コモンが消滅したのは、「こんな使い方をしていたのではカネにならない」と言って、私有地として買い上げて、牧羊したり、商品作物を栽培したりする「目端の利いたやつ」が出てきたせいである。それが「コモンの悲劇」の実相である。そうやって「囲い込み」が行われて、コモンは消滅し、農民たちは没落して都市プロレタリアートになり、産業革命のための労働力を提供し、資本主義が繁盛することになった。
 そうやってコモンが消滅したのなら、「コモンの再生」はそのプロセスを逆にたどることになる。それは私有財を「これをみんなで使ってください」といって公共財として差し出すことである。
「そんなのは絶対嫌だ」と言って、私有財産にしがみつく人間はもちろんいるだろう。いて当然である。その人たちから強権的に私財を奪うべきではない。それは前にやって失敗した。「いやだ」という人は放っておけばいい。「私財を提供してもいい」という人たちの頭数をひとりずつ増やしてゆくだけでいい。
 私の道場は現在は私物だが、いずれ寄贈して門人たちに「コモン」として利用してもらうつもりである。そういうささやかな個人の実践の積み重ねが迂遠なようだけれど、一番確実なやり方だと私は思っている。