みなさん、こんにちは。内田樹です。
今回のアンソロジーは『ポストコロナ期を生きる君たちへ』というタイトルです。
僕が編者になって、いろいろな方にご寄稿をお願いして一冊を作るという企画は、これで『人口減少社会の未来学』(文藝春秋)、『日本の反知性主義』、『転換期を生きるきみたちへ』、『街場の日韓論』(以上晶文社)に続いて5冊目となります。今回は『転換期を生きるきみたちへ』と同趣旨で、中学生高校生を想定読者にしたものです。
どういう趣旨の本であるかをご理解頂くために、寄稿者への「寄稿のお願い」を採録しておきます。まずはこれをどうぞ。
みなさん、こんにちは。内田樹です。
またまた晶文社からのアンソロジーへのご寄稿の依頼です。
今回のお題は『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』というものです。いつものように安藤聡さんにご提案頂きました。
タイトルから知れる通り、中学生高校生を想定読者に、彼らの前に開ける世界の風景がこれからどう変わるのか、その未知の領域に踏み入るに際して、どういう心構えや備えをしたらよいのか、みなさまから助言と支援をお願いしたいと思います。
以前同じような趣旨で『転換期を生きるきみたちへ』というアンソロジーを編んだことがあります。そのときに寄稿をお願いするときに、編者として「中高生を想定読者に書くことは楽しいですよ」ということを強調しました。
どうして楽しいかというと、中高生を対象に書くと、話が根源的にならざるを得ないからです。大人同士だと、いろいろな専門用語について、「わかったつもり」になって話が進みますが、中高生相手だと、その手が使えない。一つ一つについて「これはですね」と噛んで含めるように説明する必要があります。「資本主義」でも「貨幣」でも「国民国家」でも「一夫一婦制」でも、そういうあたかも自然物のように目の前にあって、どこをどう押したらどう動くかわかっているせいで、ふだんはわれわれが根源的に思考することを免除されている概念についても、中高生相手に知的に誠実に対応しようとしたら、きちんと自分の責任で定義してみせる必要があります。
伊丹十三があるときに「野球のことをまったく知らない女性読者に野球の面白さを説明する」という寄稿依頼を受けて、食指をそそられたということをエッセイに書いています。「ピッチャーとキャッチャーは味方同士です」から始めるのです。実際に伊丹十三はそのようなエッセイを書き残してはいませんが(と思います)、あったら読みたいですね。
サルトルもどこかで「火星人にサッカーの面白さを説明する」という設定を、ものごとを根源的に考える構えの喩えとして挙げていました。それを読んで、僕も腕を組んでしばらく眼を中空に泳がせて考えたことがあります。火星人にどう説明したらいいんでしょうね。たぶん「空間は『フェア』と『ファウル』に分けられる」「ボールは『生きている』か『死んでいるか』のどちらかの状態にある」「どこで、どういうふうに『死んだ』かによって、ボールの意味は決まる」・・・そういういくつかの根源的なルールを書き出すことになるのじゃないかと思います。そして、そうこうしているうちに、ボールゲームが遊びを通じて子どもたちに人間世界のコスモロジカルな構造を刷り込むための教化的な装置であるということに思い至る・・・そう考えると「ものごとを根源的に説明することの功徳」というのはたしかにあると思います。
今回のコロナ・パンデミックによって、僕たちの世界はその「外装」を剥ぎ落されて、そのなんともみすぼらしい骨組みが露出しました。
グローバル資本主義というのは人・モノ・資本・情報が国民国家の国境線を自由に超えて超高速で行き来するというシステムのことです。でも、感染拡大のせいで、電磁パルス以外の形状のものは簡単には国境線を越えることができなくなりました。ブレグジットと「アメリカ=メキシコ国境の壁」に続いて、今度のパンデミックで、国境線といういずれ賞味期限が切れると思われていた政治幻想は強固な現実として再構築されました。
グローバル資本主義は「金さえ出せば何でも買える」という信仰箇条の上に基礎づけられていましたが、実は「マスク」一つさえ買えないことがあるということもわかりました。
「必要なものは・必要な時に・必要なだけ・金を出して買う」という「ジャスト・イン・タイム・システム」による在庫ゼロをスマートな経営の理想にしていた国はどこも医療器具・医薬品の戦略的備蓄の不足に苦しみました。
「商品」として仮象しているモノにうちには「ほんとうに要るもの」と「ほんとうは要らないもの」があるということも、今回の教訓の一つでした。自動車やコンピュータは「あると便利」ですけれども、「ないと死ぬ」というものではありません。でも、医療資源や食料やエネルギーは「ないと死ぬ」。そういう物資を他の商品と同列に扱うことはできません。でも、資本主義はその平明な事実を隠蔽してきた。「ほんとうに要るもの」を人々が市場で調達することを控えて自給し始めても、「ほんとうは要らないもの」を手に入れるために命を削ることを止めても、資本主義は立ち行かなくなるからです。
医療は商品だという信憑も崩れました。医療は金を出して買うものである、金がない者は医療を受けることができない、病気で苦しんでも自己責任だというのが新自由主義の時代の「常識」でした。でも、一般の疾病はそれで済んでも、感染症相手にはその「常識」が通用しません。アメリカにはいま2750万人の無保険者がいます。彼らは発症しても適切な治療が受けられないままに重症化します。放置しておけば、彼らを感染源にウィルスは蔓延し続ける。感染症は「全住民が等しく良質な医療を受けられる社会」でなければ抑制できない疾病です。そして、アメリカはこれまでそういう社会ではなかった。
ウイルス一つによって、わずか数か月の間に、ほんの昨日までこの世界の「常識」だと思われていたことのいくつかが無効を宣告されました。それがどのような歴史的な意味を持つことになるのか、人々はまだそのことを主題的には考え始めてはいません。日々の生活に追われて、そんな根源的なことを考える暇がありませんから。
でも、中高生たちはこの「歴史的転換点」以後の世界を、これから長く生きなければなりません。彼らに「生き延びるために」有益な知見や情報を伝えることは年長者の義務だと僕は思います。
とりあえず、僕たちの世代は、戦争の余燼のうちで育ち、すべてが瓦解した敗戦国が復興してゆくプロセスをまぢかに観察し、バブル期の栄耀栄華を享受し、「失われた30年」で国運が衰微してゆくさまを砂かぶりで見てきました。「祇園精舎の鐘の声」に多少とも聞き覚えがある。そして、歴史的激動の中で、大廈高楼が崩れ落ち、位人臣を極めた勢力家が見る影もなく没落してゆくさまを見ると同時に、どれほど世の中が変遷しようとも揺るがないたしかなもの、移ろわぬものがあることも知りました。
僕たちがそれぞれの立場においてこれまで味わってきた高揚感や多幸感や幻滅や苦渋は、僕たちの知見に多少の奥行きと深みをもたらしてくれたのではないかと思います。その一部を、これから先の見えない世界を長く生きてゆかなければならない少年少女たちのためにささやかな「贈り物」として差し出したらどうかというのが僕からの提案です。
今回の寄稿者ではたぶん僕が最年長です。寄稿をお願いする若い書き手の中には、「戦争の余燼」も「バブル期」もぜんぜん知らないんですけど・・・・という方もおられると思います。でも、ご懸念には及びません。書き方が悪くてすみません。あれは「僕の世代」の話で、それ以外の世代にはもちろんそれぞれの時代経験があります。そして、どんな時代に生きていても、みなさんはその時代固有の「祇園精舎の鐘」は聴き取ってこられたと思います。そして、いつの時代でも、「変わるもの」と「変わらぬもの」があることは熟知されていると思います。
ですから、寄稿依頼をお引き受けくださった方たちが書いてくださることは、ひとりひとりずいぶん切り取り方が違ったものになると思います。もちろん、それこそ僕が願っていることです。みなさんはこれまで積み上げて来た経験が違うし、「これからの世界はどうなるのか」の予測が違う。そして「どの程度の知的水準の読者を想定するか」の設定が違う。
とりわけ「未来予測」と「想定読者」についてはできるだけ寄稿者ごとにばらけてくれることを僕は願っています。ちょっと遠目で見たときに「穴だらけのチーズ」のようなものであるのが望ましい。サイズも違うし、形も違う「穴」があちこちに空いていて、たくさんの「取り付く島」があるような論集が僕の理想です。
おそらく同趣旨の本の企画がたぶんいまいくつも並行して走っていると思いますから、「もう似たようなものを書いたから」という理由で寄稿をお断りになる方もいると思います。その点はぜんぜん気にしないで結構です。中高生たちが「取り付く島」はこの本だけじゃなくて、できるだけたくさんあった方がいいに決まってますから。
僕からは以上です。できるだけ多様な知見を中高生たちに触れてもらいたいと僕は願っています。ご協力くださいますよう拝してお願い申し上げます。
字数とか締め切りとかについては晶文社の安藤さんの方から詳しいご連絡があると思います。どうぞよろしくお願い致します。
2020年5月
内田樹
以上が「寄稿のお願い」です。これだけ読んで頂けくだけで、この本が何をめざすものであるかは、ほぼお分かり頂けたと思います。
実際に集まった原稿を読んでみたら、寄稿者のみなさんもこの趣旨をご理解くださって、それぞれが「いまの中高生にとって一番たいせつなこと」と思えるトピックを選んで、それについて情理を尽くして語ってくれました。
寄稿してくださったみなさんのご厚意に心から感謝申し上げます。
全部を通読した僕の感想は、寄稿者のみなさんが「ずいぶん親身」だったということです。ふつう年長者が中高生に向けてものを書くときには、どうしたってもうすこし「説教口調」というか微妙に「上から目線」になるものです。でも、そういう印象を残す書き物は今回のアンソロジーにはありませんでした。
どうしてなんだろうと考えました。僕の仮説はこうです。今回のパンデミックであらわになった日本社会の欠陥について、寄稿者のみなさんはそれぞれに個人的な「責任」を感じている。私たちが「ちゃんとして」いなかったから「こんなこと」になってしまった、「こんな不出来な社会」を後続する世代に遺すことになってしまった。自分たちは後続世代のために、日本社会をもっと「まともなもの」にしておくべきだった。その責務を果たし切れなかった。パンデミックで露呈した日本社会のもろもろの欠陥に対して、自分たちはわかっていながら、それを補正し切れなかった。そのことについての悔しさが行間にはにじんでいたように思います。
だから、僕たちから想定読者である中高生に向かって言うべき言葉はまず「ごめんなさい」です。もう少し「まとも」な社会を手渡したかったんだけれど、うまくゆかなかった。その点について日本の大人たちは中高生に「ごめんなさい」を言わなければならないと僕は思います。
読者に対する謝罪から始まる本というのはあまり見たことがありませんけれど、これはそういう例外的な一冊です。みなさんが、これから先、この社会をどうやって少しでも住みやすいものにしてゆくか、それについてのヒントがこの本の中にあることを心から願っています。
2020年10月
内田樹
(2021-08-29 08:46)