『コロナ後の世界』(文藝春秋)まえがき

2021-08-02 lundi

まえがき

 みなさん、こんにちは。内田樹です。本をお手に取ってくださってありがとうございます。
 この『コロナ後の世界』は「ありもの」のコンピレーションです。素材になったのはブログ記事やいろいろな媒体に発表した原稿です。でも、原形をとどめぬほどに加筆しておりますので、半分くらいは書き下ろしの「セミ・オリジナル」と思ってください。
 かなり時局的なタイトルになっていますが、それはいくつかの論考が今回のパンデミックで可視化された日本社会に深く蝕んでいる「病毒」を扱っているからです。それについて思うところを書いて「まえがき」に代えたいと思います。
 僕は今の日本社会を見ていて、正直「怖い」と思うのは、人々がしだいに「不寛容」になっているような気がすることです。
 言葉が尖っているのです。うかつに触れるとすぐに皮膚が切り裂かれて、傷が残るような「尖った言葉」が行き交っている。だから、傷つけられることを警戒して、みんな身を固くしている。あるいは、自分の言葉の切れ味がどれくらいよいか知ろうとして、「刃」に指を当てて、嗜虐的な気分になっている。
 そういう「尖った言葉」が行き交っている。外から見ると、あるいはスマートで知的なやりとりが行われているように見えるのかも知れません。でも、僕はそういう言葉がいくら大量に行き交い、蓄積しても、それが日本人全体の集団としてのパフォーマンスが向上することには結びつかないと思います。
 僕はものごとの適否を「それをすることによって、集団として生きる知恵を力が高まるか?」ということを基準にして判断しています。もちろん、その言明が「正しいか正しくないか」ということを知るのもたいせつですけれど、僕はそれ以上に「それを言うことによって、あなたはどのような『よきもの』をもたらしたいのか?」ということが気になるのです。言っている言葉の内容は非の打ち所がないけれど、その言葉が口にされ、耳にされ、皮膚の中に浸み込むことによって、周りの人たちの生きる意欲が失せ、知恵が回らなくなるのだとしたら、その言葉を発する人にはそれについての「加害責任」を感じて欲しい。
 よく考えてみたら、それは僕がずいぶん昔からずっと言ってきたことでした。
 若い頃は左翼の言葉づかいに対して、そのような不満を感じていました。「革命をめざす」といっている人たちがお互いに相手について「はしなくも階級意識の欠如を露呈し」とか「嗤うべきプチブル性」とかいう非難を投げ合っていたからです。正直言って、そんなことをいくらやっても得るところはほとんどないんじゃないかと思っていました。というのは、そうやって「革命闘争を担う資格を持つ人」の条件を厳しくすればするほど「革命の主体」の頭数は減るだけだからです。「世の中をよりよいものにしよう」と願う資格のある人間の条件を厳密化することによって、この人たちはどうやって世の中をよくする気なんだろうと思っていました。
 同じことは、そのあとフェミニズムやポストモダニズムにも感じたことです。今度は「はしなくも性差別意識を露呈し」とか「はしなくも植民地主義者の加害者意識に気づくこともなく」というふうに表現は変わりましたけれども、それでも「真に差別され、徹底的に疎外された人間だけがシステムを批判する権利を持つ(それ以外の人間はすべて無意識のうちに差別し、疎外する側に加担している)」ということになると、すてきに切れ味はいいテーゼではあるのですけれども、これもやっぱり、徹底すればするほど「世の中を少しでも住みやすくする」事業の仲間の頭数を減らす結果になる。
 僕が年来主張しているのは、おおむねそういうことです。みんながちょっとずつ「貧者の一灯」を持ち寄って、それをパブリックドメインに供託して、「塵も積もれば山」をめざすという方が「すべてのリソースを正しい目的のためだけに用いる」ことをめざすより話が早いんじゃないか。そう思っているのです。「世の中を少しでも住みやすくする」事業においては、「仲間を増やす」ということが一番大切です。自分と多少意見が違っている人についても、「まあ、そういう考え方もあるかも知れないなあ」と思って、正否の判断を急がない。中腰で少し耐える(あまり長くは無理ですけれど)。そして、どこかに「取り付く島」があったら、それを頼りに対話を試みる。
 今よく「ダイバーシティ&インクルージョン」という標語を聞きます。「多様性と包摂」。もちろん、すてきな目標です。ぜんぜん悪くない。でも、これって、微妙に「上から目線」だと思いませんか。
 つまり、「多様性を認めよう」と言っている人って、自分はその集団における「正系」に属しており、「メンバーシップ」を確保しており、「オレたちとはちょっと毛色の違ったのが何人かいてもいい」というニュアンスを漂わせている。「包摂」もそうですよね。「他者や異物を包摂しよう」という人って、「包摂する側」にはじめから立っている。
 いや、それが悪いと言っているんじゃないんです。それで上等です。でも、ちょっと「上から目線」「中から目線」じゃないかと思うんです。ちょっとだけですけど。
 もちろん、僕は「上から目線・中から目線」を止めろと言っているわけじゃないんですよ。「はしなくも、無自覚な優位性・内部性を露呈し」とか言い出したら、「元の木阿弥」ですからね。どうやって、そういうところから抜け出そうかとう話をしているときに、「そういう話」を始めてどうする。「君たち、そういう優越的な態度をただちに止めなさい、反省しなさい、恥じ入りなさい」とか、そういうことを僕は言っているわけじゃないんですよ。勘違いしないでくださいね。僕は「それで上等」と申し上げているんです。それで結構ですから、これからもそういう態度をどんどん続けてくださっていいんです。
 でも、「上等」にも「その上」があるんじゃないかと思っているんです。
 できるできないは別として、もし「上等の上」があるなら、それをめざしてもいいんじゃないかと僕は思うんです。それは透視図法における無限消失点のようなものです。実体じゃない。作業上の擬制です。でも、それがないと絵が描けない。そういうものとして「多様性と包摂の上」があってもいいんじゃないか。
 それは何かというと、言葉が平凡過ぎて脱力しそうですけれど、「親切」です。
「人に親切にする」ということは、相手より立場が上でなくても、集団のフルメンバーでなくても、できる。
 ちょっとしたことなんです。電車で席を譲ってあげるとか、荷物を持ってあげるとか、エレベーターで「お先にどうぞ」と声をかけるとか。そういうふうな「かたちのあること」だけに限られません。極端な話、相手が「親切にされた」と気が付かなくてもいいんです。朝ゴミ出しをしにゆくときに登校する子どもたちを見て、「今日一日元気でね」と心の中で手を合わせるとか、その程度でいいんです。別に相手から具体的な助力や支援を求められているわけじゃないけれど、自分の方から一歩を踏み出す。自分から始める。自分が起点になる。「心の中で手を合わせる」くらいでも「一歩を踏み出す」にカウントしていいと僕は思います。だったら、そんなにむずかしい仕事じゃありません。
 僕はそういう「親切」がとても大切だと思うんです。
 それが今の日本社会で最も欠けているもののような気がするからです。「親切にしましょう」なんて、小学校の学級標語みたいですけれど、日本人にはどうもそれができなくなっているような気がします。「子どもでもできること」を大人たちがしなくなっている。それが問題なんじゃないかと思います。とくに「賢い」つもりでいる大人たちが「親切であること」の価値を顧みなくなった。
 僕は「どうやったら親切になれるか」ということをずっと考えてきました。そういうことを考えるのは僕が「親切じゃない人間」だからです。当たり前ですよね。自分が生まれつき親切だったら、そもそも「親切にする」という言葉の意味がわからない。周囲の生物がすべて餌であるT―レックスに向かって「あなた、強いですね」と言っても「え? 『強い』ってどういう意味?」と反問されると思います(爬虫類だから人語は解さないですけど)。「強い」という言葉に意味があると感じるのは「弱い」ものだけです。それと同じで、「親切にしよう」という言葉にリアリティーを感じるのは「親切じゃない人間」だけです。自分がそれほど親切じゃないからこそ他人の親切が身にしみる。ああ、ありがたいなあと思う。そんなことしてもらえるとは思わなかったから。
 僕は親切な人間ではありません。時々なにかのはずみに「内田さんて、意外にいい人なんですね」と驚かれることがありますけれど、それは僕の日常の挙措が「いい人じゃない」からです。「内田さんて、意外に親切ですね」とも言われます。意外なんです。僕はかなり心の狭い人間です。すぐ腹を立てるし、人に対して意地悪な気持ちになるし、攻撃的になると抑えが効かないことがある。つい「ひどいこと」を言ってしまう。そして「ひどいこと」を言うときって、いくらでも言葉が湧き出してくる。この本を読んで、「おい、おまえのどこが親切なんだよ。悪口ばっか書いているじゃないか」とあきれる読者がいると思います。ほんとにそうなんです。この本、読むと悪口ばっかり書いている。
 だいたい、この文章からして「日本社会を深く蝕んでいる病毒」とかいう言葉から始まっている。ずいぶん無慈悲な言いようですよね。でも、そういうことを書きながら、「ああ、またやっちゃった」と思ってはいるんです。あちこちでそうやって蹴つまずいたり、こけたりしながら「無限消失点」としての「親切」を遠くめざしてはいるんです。その僕の素志だけは信じて頂きたい。現にできていなくても、「遠い目標をめざす」ということはできるんです。どうぞ、そういう不細工な生き方をご海容願いたいと思います。
 というわけで、この論集は「尖った言葉が行き交う現代日本社会を憂えて、人に親切に接しようとしている男が、思い余ってつい『尖った言葉』を口走ってしまう」典型的な事例としてお読みいただければと思います。そんなややこしいもの読みたくないよと思う方もいるでしょうけれど、まあ、そこは一つなけなしの「親切心」を絞り出して、お付き合いください。

2021年8月
内田樹