半藤一利さんの『語り継ぐこの国のかたち』(大和書房)が文庫化されることになって、解説を頼まれた。この本は単行本のときの担当編集者が『街場の親子論』の企画者だった楊木さんだったということで、ご縁があるのね、ということでお引き受けしたのである。
この本は半藤一利さんが最晩年に書かれたものを集成した論集である。
私自身は半藤さんにお会いしたことがない。書かれたものはずいぶん読んだけれど、ついに尊顔を拝する機会を得ないままに半藤さんは鬼籍に入られた。得難い方を失ったと思う。
半藤さんのように東京大空襲を経験し、玉音放送を聴き、編集者となってから旧軍の人たちのオーラルヒストリーを聴き集めたというような希有な体験を持つ方がひとりずついなくなってゆく。そして、戦争を直接経験として有している世代が一人消えるごとに、戦争についての記憶がかすみ、あるいは歪められ、改竄され、上書きされる。戦争について語る言葉は時間とともに不可逆的に観念的でかつ軽いものなってゆく。そのことを半藤さんは亡くなられる前に強く危惧しておられたと思う。その思いは本書の行間ににじんでいる。
私は1950年の東京生まれである。戦後すでに5年経っていたが、幼い頃にはあちこちに戦争の痕跡が残っていた。1956年にこの本で半藤さんが書いているように「もはや戦後ではない」という言葉を人々が誇らしげに口にし始めた頃には、焼け跡も防空壕も生活圏では目につかなくなった。この「もはや戦後ではない」には「だから、もう戦争の話は止めよう」という遂行的なメッセージも同時に含意されていたと思う。それまで「戦争」はある意味では日常的でひどく身近なものだったからだ。
家の近所に「あーや」と呼ばれる片腕の老婆がいた。子ども好きの親切な人だったが空襲で片腕を失っていた。母親にものをねだるといつも「うちは貧乏だからダメだ」と一蹴された。「どうして貧乏なの」と訊ねると「戦争で負けたから」と判で捺したような答えが返ってきた。仲良しだったしげおちゃんの父親は元憲兵下士官で、休日に昼酒を飲み目が据わってくると、「チャンコロ」を日本刀で斬った話をした。私の「樹」という名前は『教育勅語』の「朕惟フニ我ガ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」から採ったものだ。名づけ親の松井さんは父の親友で、陸軍中野学校を出た職業軍人だった。静かな声で話す痩身白皙の人で、私は後にも先にも「虚無的」という形容詞があれほど似合う人を見たことがない。父が家で同僚たちと酌み交わしているときに、ときどき戦争中の話になることがあった。その時に父が「負けてよかったじゃないか」とつぶやくように言ったのを聴いた覚えがある。その言葉が出るとみんなしばらくしんと黙って、そして違う話題に移った。小学校の担任の手嶋先生は快活で優しい男の先生だった。私はいつも先生にまとわりついていた。あるとき「先生は戦争に行ったの?」と訊いたことがある。先生はちょっとこわばった表情で「ああ」と答えた。「先生、人を殺したことある?」と重ねて訊くと、先生は蒼白になって黙り込んでしまった。
戦争は私の世代にとっては「現にそこにあるもの」ではなかった。そうではなく、むしろ「何かの欠如」だった。「欠如」していたのは、老婆の片腕であり、わが家産であり、青年の覇気であり、戦争の記憶だった。私たちの世代にとって、戦争の経験とは「何かが欠如している感じ」のことだった。それは現実にそこにあるものと同じくらいにリアルで、タンジブルな欠如だった。
私たちの前には多くの戦争経験者がいた。大陸や半島で植民地支配に加担した人たちがいた(母方の祖父がそうだった)。特高の拷問を受けた人がいた(岳父がそうだった)。どこかで深い心理的な傷を負い、そのせいである時期の出来事についてはうまく語ることができなくなっている人間がいた。
この「欠如」は目の前にいる私たちにとってはリアルなものだった。「リアルな欠如」というものがありうるのだ。けれども、それに向き合ったことがない人たちにその消息を言葉で伝えることは難しい。きわめて難しい。それは目の前にいる人がふいに「押し黙る」とか「蒼ざめる」という欠性的な仕方で雄弁だったのであり、その生身の身体が目の前からいなくなるとリアリティーを失う。
1980年代から戦争経験者たちが社会の第一線から消え始めた。それまで彼らの沈黙はある種の「重石」として効いていたのだと思う。戦場で、占領地や植民地で、あるいは銃後の日本で、しばしば「口にできないほど忌まわしいこと」があったことは、彼らがことさらに言挙げしなくても、私たちには伝わった。けれども、それを現認していた人たちが死に始めると同時にその「重石」が効かなくなった。そして、「あのときほんとうにあったこと」について、その場にいなかったはずの年齢の人たちがとくとくとしゃべり出した。
歴史修正主義者が登場してきたのは、日本でもヨーロッパでも1980年代に入ってからである。まるで戦争経験者が死に始めるのを見計らったように、戦争について「見て来たような」話をする人間たちがぞろぞろと出てきたのである。
歴史修正主義は戦争経験者たちの集団的な沈黙の帰結である。どこの国でも、「口にできないほど忌まわしいこと」は口にされない。けれども、それを個人的記憶として抱え込んでいる人が生きているうちは、「口にされないけれど、ひどく忌まわしい何か」がそこにあったことについては沈黙の社会的合意が存在した。ただし、それには期間限定的な効果しかなかった。「墓場まで持ってゆく記憶」を抱えていた人が死ぬと同時に記憶も消える。そして、やがて「なかったこと」になる。それはドイツでも、フランスでも、日本でも変わらない。
だからこそ半藤さんの「歴史探偵」の仕事が必要だったのだと思う。半藤さんは戦争経験者たちが言挙げしないまま墓場まで持ってゆくつもりだった記憶の貴重な断片を取り出して、記録することを個人的なミッションとしていた。
私は半藤さんの『ノモンハンの夏』と『日本のいちばん長い日』をこのタイプのドキュメンタリーとしては際立ってすぐれたものだと思っている。「すぐれたもの」というような査定的な形容をするのは失礼で、むしろ「ありがたいもの」と言うべきだろう。半藤さんがこれらの書物を書き上げるために、どれほどの時間と手間を注いだのか、それを考えると、たしかに私たちは「ありがたい」と首を垂れる以外にない。
知られているように、『日本のいちばん長い日』は最初「大宅壮一編」として出版された。詳しい事情はわからないけれど、半藤さんが「他人の名前で出しても構わない」と思い切れたのは、重要なのは半藤一利の文名を上げることではなくて、ここに採録された歴史的事実をできるだけ多くの日本人に知ってもらうことだと思ったからだろう。常人にできることではない。
本書で半藤さんは私たちにいくつかの歴史資料を紹介し、あるいは何人かの忘れがたい人(陸奥宗光や石橋湛山や司馬遼太郎や小泉信三)の風貌を伝えている。その記述は体系的なものではない。思いつくままに、思い出すままに書いているように見える。でも、半藤さんはここで決して単なるトリヴィアルな逸話を並べているわけではないと思う。これらの書き物のすべてに伏流するのは、半藤さんが自分の眼で見て、自分の耳で聴いたことを、自分ひとりの経験で終わらせることなく、自分の死とともに忘却されることに抗って、後続世代に手渡したいというつよい願いである。それは半藤さんに先行する世代の人たちが、「自分たちが見聞きしたこと」を語らぬままに、伝えぬままに死んでいったことが現代日本の政治的危機をもたらしたという痛苦な反省をふまえているのだと思う。
半藤さんは明治維新以来、四十年ごとのサイクルで国運の向上と転落が繰り返されているという(司馬遼太郎が『この国のかたち』で立てた仮説)を受け継いで、日露戦争の勝利にのぼせ上ってから悲惨な敗戦に至るまでの40年の「転落」局面が、1992年のバブル崩壊から40年、もう一度繰り返されるのではないかという見通しを語っている。
「国家に目標がなく、国民に機軸が失われつつある現在のままでは、また滅びの四十年を迎えることになる。次の世代のために、それをわたしは心から憂えます。」(33~34頁)
半藤さんの計算が正しければ、次の「敗戦」まであと10年ほどしか残されていない。つまり、いまの日本は1935年頃の、滝川事件や國體明徴運動で、言論や学術の領域から「もの言えぬ」空気が浸潤してくる時期と符合するということになる。「あとがき」でも半藤さんは「日本のトップにある人」たちが、「戦後七十年余、営々として築いてきた議会制民主主義そして平和を希求する国民の願いをなきものにしようとしている」ことに懸念を示している。(299頁)
10年後に迫った「二度目の敗戦」を避けるためには、私たちは過去の失敗を学ぶしかない。「過去の失敗に学べ。歴史から学ばないものに未来はない」という半藤さんの「遺言」を私たちは重く受け止めなければならない。
(2021-06-03 11:49)