週刊東洋経済から「日本と世界のこれからを知るための教養書」の選書を頼まれた。記事を再録。
世界のこれからを知る、日本のこれからを知るという基準で「教養書」の選書を試みたが、世界の政治的な見通しについては、適当な本を見つけにくかった。ひと昔前なら、サミュエル・ハンチントン『文明の衝突』、フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』など、大きな絵を描いた本があった。今はそういう30年、50年のスパンで世界を見通すような人がもう見当たらない。人口動態や環境問題など社会的な大きな問題も考慮して考えると、政治よりも経済に関連する本のほうが納得いくものが多い。
グローバル資本主義が終焉に近づいているという点で大方の人たちの意見はもう一致している。資本主義の暴走をどう抑制して、どう軟着陸させるのかという技術的な議論にすでに局面は移っている。そうした問題を扱っている本の中で一般読者に読みやすいものを選んだ。
本当は『資本論』を選書したかったのだが、残念ながらこれは「読みやすい」という条件を満たさない。代わりに斎藤幸平『人新世の「資本論」』を挙げる。世界史的スケールでの大ぶりの絵が描かれている。若くて勢いのある人でないと書けない本である。
グローバル資本主義を終わらせなければならないという彼の確信の根拠にあるのは環境破壊への強い危機感である。ただ環境破壊リスクは地質学的なタイムスパンをとらないと見えてこない問題なので、当期の利益しか気にならないという人にとっては何の興味もわかない論点である。そういう人はたぶん5頁ぐらい読んだところで放り投げてしまうだろう。
水野和夫『資本主義の終焉と歴史の危機』は経済史的なタイムスパンをとって、中世からの利子率の変化などから資本主義の終焉を結論する。統計データに基づいて淡々と資本主義の命脈が尽きることの必然性を論じている。
『宇沢弘文の経済学』も持続可能な共同体をどうやって構築し、維持するのかという問題意識に貫かれている。「コモンの再構築」はいま喫緊の主題であるが、宇沢の「社会的共通資本」という概念をコモンの意義を理解する上で必読である。とりわけ印象深いのは、農村人口をもっと増やさなければいけないということである。日本の場合、農村人口は全人口の20~25%が適切だという主張には胸を衝かれる。たしかに、この10年、若い人たちの地方移住が確実に進行しており、この直感の正しさを現実が証明しつつある。
平川克美『株式会社の世界史』は資本主義の通史。株式会社という企業形態がいつ、どういう経緯で生まれ、異形のものに育ち、それが現在の資本主義社会の歪みにつながるのかを大きなスケールで描いている。彼の本の面白いところは、資本主義の通史を書きながら、マルクスに依拠しないところである。彼が経営者たちにも受け入れられているのはたぶんそのせいだろう。この「マルクスを引用しないマルクシスト」は資本主義を立体視するためには貴重な存在だと思う。
デイヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ』は一読してまことに痛快な本だった。いま日本は世界的にもひどく生産性の低い国になってしまったが、最大の理由は「意味のない仕事」に忙殺されているせいである。日本の労働者たちは日々大量のタスクをこなして、疲れ切っているが、それらの仕事の過半は何の価値を生み出していない「ブルシット・ジョブ」なのである。
この1年間、リモートワークの導入で多くの「ブルシット・ジョブ」が可視化された。長時間通勤もだらだら続く会議も、実は「やる必要のないこと」だったことに人々は気がついた。自分たちの仕事を見直す新しい概念を提示した点で画期的な一冊だと思う。
感染症でも、AIの導入でも、雇用形態は大きく変わる。これから業種によっては大量の雇用が失われる。例えば自動運転が標準装備されるようになれば、トラック運転手は職を失う。これを「時代遅れの業界を選んだ個人の自己責任」として見捨てることはできない。短期間に大量の失業者が出る場合には、社会秩序を保ち、市場規模を維持するためにも、ベーシックインカムや再雇用への教育プログラムなどが必須であるが、それは政府や自治体が担う仕事である。大量失業にどう対処するかという議論はすでに数年前から米国では熱心になされてきたが、日本では話題になったことがない。しかし、コロナによって痛手を負った業界の人々については、日本でも生活支援と再就職のシステムを設計することは喫緊の課題であるはずだ。
ブレイディみか子『子どもたちの階級闘争』を私は社会福祉制度はどうあるべきかを論じた一冊として読んだ。「ゆりかごから墓場まで」という世界に類を見ない高福祉社会を誇った英国はサッチャー時代に「すべては自己責任」という思想に切り替えた。その制度改革によって英国社会で何が起きたのか。特にワーキング・クラスのさらに下に位置する「アンダークラス」階層で起きた痛ましい事例をこの本は生々しくリポートしている。日本が社会福祉制度を再設計していく上での貴重な知見がここでは語られている。何より大切なのは「制度の受益者に代償として屈辱感や自己卑下を決して求めない」ということなのだと私は思う。
次に平田オリザ『下り坂をそろそろと下る』を挙げる。日本がこれから生きていくためには、教育、医療、観光、芸術領域に資源を集中すべきだという彼の持論が展開される。かつて日本が誇った「ものづくり」の力は大きく損なわれたけれども、いくつかの領域ではまだアドバンテージを保っている。日本の国力は衰微しており、少子高齢化の中でV字回復はもうあり得ない。しかし、日本列島の温暖な自然環境、肥沃な土地、豊かな水、多様な動植物相は世界的に誇れるものだ。これらの資源を最大限に活かして、穏やかな中規模国として生き延びることは可能である。しかし、被害を最小化しつつ「後退戦」を戦うということが日本人はほんとうに苦手である。果たして「下りる」へのシフトができるだろうか。それができなければ、日本に未来はない。
『9条入門』と『主権者のいない国』はどちらも日本の統治機構の根源的な「ねじれ」の由来とあり方を分析したものである。すべての国はそれぞれ固有の「ねじれ」を抱えている。日本には日本の、米国には米国の、中国には中国の矛盾や葛藤がある。それが国民の集団的な意識やふるまいを規定している。コロナ禍に対する日本政府の無為無策や五輪開催への固執などは統治者の個人的資質という以上に構造的な「ねじれ」の帰結である。
戦後日本の統治機構は設計時点で根源的な「ねじれ」が組み込まれた。日本の病態のほとんどはその症状である。その症状と病因を鮮やかに分析したのがこの2冊である。
日本国憲法は太古的な天皇制という制度と近代的な立憲デモクラシーという「氷炭相容れざる」統治原理を抱え込んでいる。加藤典洋『9条入門』は日本国憲法制定プロセスを精密に分析することで、この「ねじれ」の導入がGHQの占領政策にとっていかなる合理性があったのかをつぶさに描いている。加藤氏の早すぎる死によって、この続編が書かれなかったことが惜しまれる。
白井聡『主権者のいない国』は気鋭の論客の最新刊。彼らしい切れ味のよいロジックとレトリックで、近現代日本の統治機構の歪みを腑分けしてゆく。対米従属は敗戦国日本にとってそれ以外に選択肢のなかった行き方であるが、戦後しばらくは「対米従属を通じて対米自立を果たす」という国家目標がはっきり意識されていた。それがある時点で放棄される。そして、対米従属それ自体が自己目的化された奇形的な統治機構が出来上がる。
対米従属とは、日本の国益よりも米国の国益を優先的に配慮する人々が政治家、官僚、ジャーナリストなど指導層を占める政体のことである。指導者たちばかりか、多くの国民までもが「米国に愛されること」を最優先の国民的課題だと信じ込んでいる。そのような属国的なマインドがどうして形成されたのかについて、著者は火を吐くような言葉で語る。テーマは重苦しいが、文体は爽快である。
丸山眞男『日本の思想』はもう60年以上前に書かれたものだが、日本の現在とこれからを考える時に、日本人の集団的な思考の傾向を知りたい時に、思わず手にとる一冊である。
すぐれた「日本文化論」はいくつもの古典的名著があり、一冊だけ選ぶのは正直言って難しい。できることなら、川島武宜『日本人の法意識』、土井健郎『「甘え」の構造』、岸田秀『ものぐさ精神分析』、ルース・ベネディクト『菊と刀』などと併せて読むことをお勧めしたい。すぐれた日本論は私たち日本人がどれほど奇妙な民族誌的奇習のうちで世界を眺め、考え、感じ、判断したりしているのかを教えてくれる。
(2021-05-06 09:07)