推薦のことば

2021-04-30 vendredi

朴東燮先生が「内田樹先生から学んでゆきましょう」という本を韓国で出版することになった。私との出会いと交遊についてのわりとパーソナルなエッセイだそうである。「推薦文」を書いてくださいというご依頼があったので、書き送った。

 朴東燮先生が僕との出会いについて、そこからご自身が学ばれたことを本にしたと伺いました。
 僕と出会ったことは客観的事実ですから、動かしようがありませんが、僕の本や僕自身から何ごとかを学んで人間的に成長したと言われると、ちょっと困ります。
 朴先生が学んだことは朴先生の身に起きた出来事であって、実は僕はそれにはそれほど関与していないからです。
 あらゆる学びにおいて起きることですけれども、弟子は師が教えていないことを学ぶことができます。これを僕は「教育の奇跡」と呼んでいます。
 師=メンターというのは弟子の知的活動を活性化し、ブレークスルーを支援する一種の機能のことです。人の師であるために必要な資質や能力などというものはありません。もののはずみで、人の知性が活発に動き出して、自分の限界を超えてしまうということが起こりますが、そのとき「はずみ」を提供した人のことを、何かを学んだ人は「師」だと思い込む。でも、実際にはその「師」なる者は特に何かを教えているわけじゃないんです。人は自分で問い、それに自分で答えを出すものですから。 誰も答えを教えていない。
 師の仕事は「先生、この問いの答えはこうなんですよね!」と弟子が息せき切って訊いてきたら、にっこりして、「そういう答えでも、よい」と応じることだけです。「それでよい」と「それでは足りない」ということを同時に弟子に告げることができれば、師の仕事としては十分です。わりと簡単な仕事なんです。
 朴先生が僕から学んだと思っていることは、朴先生がご自身で手作りしたものです。ほんとうに。でも、僕がいくらそう言っても、朴先生は「いや、違います。これは間違いなく内田先生から学んだことです」と言い張るでしょう。
 でも、それでいいんです。
 孔子は「述べて作らず」と言いました。「私がいま語っていることはすべて先賢の請け売りであって、自分のオリジナルな知見ではない」という意味です。でも、実際には『論語』に述べられたことの多くは孔子のオリジナルでした。じゃあ、どうして孔子がそういうことを言ったかというと、「先人の知恵を請け売りしている祖述者」というのがもっとも知性が活性化する立ち位置だということを孔子は知っていたからです。
 朴先生も経験的にそのことを知っています。
 だから、「内田樹の弟子」という仮説的な立ち位置を選択した。
 朴先生のこの戦略は結果的にはとてもうまく行ったみたいです。それは朴先生のこの間の知的生産物の多様さと豊かさを知ればわかります。朴先生のますますのご活躍をお祈りします。