新型コロナウイルス特措法改正案について、自民党と立憲民主党が修正合意して、論点となっていた入院を拒否した感染者に対する懲役刑は削除され、刑事罰である罰金は行政上の軽い禁令違反についての過料に改められた。少しだけ安心したが、当初案にあった入院拒否者は「1年以下の懲役か100万円以下の罰金」という規定に私はつよい不快と不安を覚えた。ここにはいまの政権の危険な本性が露呈していたと感じたからである。
緊急事態において、政府や自治体が市民に私権の制限を要求することには合理性がある。だがそれは公的機関がやるべきことはすべてやり尽くして、あとは市民に公共的なふるまいを求める以外に手立てがないという場合に限られる。政府や自治体が私権の制限について抑制的になるのは、その前段に「やるべきことをやり尽くした」という条件が付されているからである。果たして今回の特措法の起案者は「やるべきことはやり尽くした」と言い切れるだろうか。
朝日新聞の最新世論調査では政府のこれまでの感染症対応を「評価しない」は63%で、「評価する」の25%を大きく超えた。二度目の緊急事態宣言についても宣言発令が「遅すぎた」とするものが80%に達した。そのような厳しい世論の評価の中で出された改正案が市民の私権制限を前面に出してきたのである。これは政府が感染拡大の主因は「市民の努力不足」だとみなしているということを意味している。感染拡大の責任を「市民の努力不足」に転嫁したことに多くの市民は怒りを覚えたと思うが、それ以上に大きな問題は感染者を「犯罪者」に、病院を「牢獄」に見立てる発想がそこに伏流していることである。
感染者を犯罪者に類比するのは、この改正案の起案者が「健康は自己努力の成果である」と考えているからである。その努力が足りない者が病気になるのである。だから、病者は「病気になった責任」を負わねばならない。無意識のうちにでもそう考えていなければ、このような文言は頭に浮かばないだろう。そして、もし病気は自己責任であるのだとしたら、そこから「病人のために公的支援をするべきではない」という優生思想まではあとわずかである。
与党議員たちは自分たちには飲食自粛は適用されないと思っているし、一般市民には許されない優先的な治療を受けることも「エリート」である以上当然だと思っている。彼らはおそらく公的資源は「力のある者」に優先的に分配されるべきだと無邪気に信じているのだろう。だから、「力のない者」(そこにはコロナ患者も含まれる)に公的支援を求める「権利」を認めるよりより先に、感染を拡大させない「義務」を求めるのである。
「強者が総取りし、弱者には何もやらない」という政治思想においてこの政権は実に首尾一貫している。
(信濃毎日新聞 2021年1月30日に掲載)
(2021-02-21 09:08)