自由学園創立100周年に寄せて

2020-12-29 mardi

 自由学園創立100周年おめでとうございます。
 自由学園の教育活動の魅力について何かコメントをというご依頼を受けたので、思いつくことを書くことにします。
 僕が自由学園を訪れたのは一度だけです。そのときに園長先生から自由学園の沿革や教育理念についてうかがい、構内をご案内頂いて、建物を一つ一つ見て歩き、生徒さんたちとお昼ご飯をご一緒して、高校生たちを前に短い講演をしました。
 そのときには自由学園の「魅力」について話したわけではありません(見たばかりで、よく知らないし)。それよりは、このような伝統ある教育機関で学ぶことの例外的な利点についてお話しました。そのときに話したことを思い出して再録して、それを以てお祝いの言葉に代えたいと思います。

 今日うかがってみてわかりましたけれど、自由学園にはたくさんの伝統や決まりごとがあります。その中には大人には意味がわかっても、生徒さんたちには意味がわからないものがあります。僕はそれがこの学園の一番の教育的な「資産」だと思いました。
 みなさんにお願いしたいのは、それを「自分には無意味に思えるけれど、決まりだから」というだけの理由で批判を手控えて従ってはならないということです。もし無意味だと思ったら、「無意味じゃないか」とまずごねてみてください。
「ごねない」子ども、協調性・順応性の高い子どもは大人には喜ばれますけれど、みなさんは「ごねない子ども」にはならないでください。まず「意味わかりません」とごねてみる。そして、「君たちにはわからないかも知れないけれど、実はこの決まりごとには深い意味があるのだ」と大人が応じてきたら(きっとそうしてくれるはずです)、まずその「深い意味」とは何かについて自分で考えてみる。
 まず自分で考えてみること、それがとてもたいせつなんです。先生たちや大人たちが「これはね・・・」と教えようとしたら、それを制して「ちょっと待って。言わないでいいです。自分で考えてみますから」と言ってみてください。
 自分の眼には無意味な因習に見えるけれども、もしかすると、その背後には深い知恵がひそんでいるのかもしれない。一応そう仮説してみる。
 これはとてもたいせつな知性の使い方です。一見するとランダムで無意味に見える事象の背後に整然とした秩序があることを直観することから知性の活動は始まります。「すべての知性の活動は」と言い切ってもいいくらいです。その点では科学的知性も宗教的知性も成り立ちは同じです。そして、たぶん自由学園はその二種類の知性を開発することを教育目的に掲げているはずです。僕はそう感じました。
 科学的知性は一見ランダムに生起しているように見える自然現象の背後に整然たる数理的秩序があると直感するところから始まります。宗教的知性は一見ランダムに生起しているように見えるすべての出来事の背後に「神の摂理」を直感するところから始まります。だから、しばしば卓越した科学者が深い信仰の持ち主でもあるということが起きます。知性のはたらきは必ずこの直感に導かれます。「ランダムに見えるものは結局ランダムなのだ」という思い切りはちょっと目にはクールでリアルに見えますけれど、知性的には成長を止めることです。  
 もう一度申し上げますけれど、学園の定める規則や制度について、「無意味だな」と内心思いながら、「決められたこと」という理由で無批判に従ってはいけません。そういうことができる人を「無意味耐性が高い」と僕は呼んでいます。そういう子どもは大人にはほめられます。無意味な勉強でもがまんしてやりますから、たぶん成績もいい。でも、その代償に大きなものを失います。
 どんな無意味に見える因習でも、その多くは制度設計された時点では「よきもの」をめざしていたのです。はじめから子どもたちを苦しめてやろうと思って制度設計するような教育者はいません。でも、「よきもの」をめざした制度や規則がいつの間にか形骸化・惰性化してしまって、初発の目的が見えなくなることはよく(すごくよく)あります。
 ですから、みなさんには「こんなの無意味じゃない?」という疑いから出発しても「無意味だからただちに廃止」というふうにすぐに結論に飛びつかないで欲しいのです。そうではなくて、「これらの仕組みはその始点においてはどのような『よきこと』を実現しようとして計画されたのか?」を問うて欲しい。それが「無意味に見える事象の背後にある秩序」を探求するということです。そのようにしてはじめて知性は起動する。
 ものごとの起源にまで遡り、それらの制度が発生時点でどのような「よきもの」をめざして設計されたものであるかがわかったら、次の仕事は、それと同じ「よきもの」を実現するためには今ここにおいては何をすればいいのかを考えることです。今、ここにある手持ちのリソースでも、できることがきっとあるはずです。それがみなさんの仕事です。
 決まっていることに無批判に従うのは思考停止です。でも、無意味だからただちに廃止せよというのも別のかたちの思考停止です。それよりはこの学校を作った人たちが何を実現しようとして「こんなこと」を規則としたのか、「こんな」制度を思いついたのか、それを自力で考えて欲しいと思います。そして、この学舎を創建した先人たちが「成し遂げようとしていたこと」を自力で、できたら今ここで、かたちにして欲しいと思います。あくまで「できたら」です。「今ここで」ではなくてもいいです。もっと時間がかかっても、ここではない場所でも構いません。それが、みなさんの知性と感情を豊かにするためにとてもたいせつなことだと僕は思います。
 そういうかたちで繰り返し「伝統を再び活性化する」こと、ときどき消えかけてしまう灯に新しい息を吹き込むことが自由学園のような長い伝統を持つ教育機関に学ぶみなさんの義務でありまた権利でもあります。みなさんの成長を心から願っています。がんばってください。