平時と非常時

2020-11-04 mercredi

 毎年11月は韓国講演旅行に行っているけれど、今年はコロナで中止になった。その代わりにZOOMで日韓を繋いで、いつも通訳をしてくれる朴東燮先生にMCと通訳をお願いして、日韓のオーディエンスに向けて、11月2日と3日に「ポストコロナの社会」について90分の講演をした。
 3日の講演では「平時と非常時」について話した。忘れないうちにどんなことを話したか記録しておく。

 オーディエンスから事前にもらった質問票には次のような質問が含まれていた。
「市民が享受している自由と感染症対策としての自由の制限の矛盾をどう考えるべきですか?」
「ふだんはリベラルな人が政府や知事の要請する行動制限に従うのはおかしいという人がいますが、どう考えるべきでしょうか?」
「未知のウイルスに対する恐怖を利用して強権的な政治が行われるリスクはあるでしょうか?」
 日韓いずれでも市民が抱く不安には通じるものがある。私の回答は次のようなものである。
 平時と非常時では判断基準が変わる。
 平時では行動制限を拒否する市民が、非常時には受け入れるということはある。
 ただし、受け入れるには一つ条件がある。
 その話をしたい。
 平時の判断基準を非常時にも持ち込むことを「正常性バイアス」と呼ぶ。
 自分の身にとって不利益な情報を無視したり、リスクを過小評価する心的傾向のことである。特に自然災害や災害のときに逃げ遅れの原因となる。
 韓国のセウォル号事件のときは、フェリーが沈み始めても、最初に出された「船室にとどまるように」という指示をそのまま受け入れて、避難行動をとらなかった高校生たち300人が溺死した。
 東日本大震災でも、大川小学校で下校準備中に地震が起き、児童たちは校庭に避難した。一部の児童は教師の指示に逆らって自主的に避難行動をとって生き延びたが、ふだん通り教師の指示に従って斉一的な行動をとった児童74人は溺死した。
 御嶽山噴火のときも、避難行動をとらずに噴火口近くにとどまり、携帯で噴火の様子を撮影していた者たちが何人も死んだ。
 どれも非常時に際して「ふだん通り」に行動した人たちが致死的なリスクを冒すことになった。
 平時から非常時への「スイッチの切り替え」は難しい。
 日常生活では可能なリスクをつねに過大評価していると生活上不自由が多くなるからである。
 青信号でも車を止めて左右確認をしたり、電車のホームで柱にしがみついて転落を避け、停電を恐れてエレベーターには乗らないというようなことをしていると日常生活が不便でしかたがない。だから、私たちは惰性的に「非常事態というのはあまり起こらないものだ」というふうに考える。そして、たしかにそうなのである。
 コロナウイルスの感染拡大でも、「自分は感染しない。感染しても軽症で済む。他人に感染させることはない」というふうに考える正常性バイアスが働く。必ず働く。だが、非常時というのは正常性バイアスがもたらすリスクが劇的に高まる事態のことなのである。だから、どこかで平時から非常時にコードを切り替えて、正常性バイアスを解除しなければならない。
 問題は「正常性バイアスを解除する」というのがどういうふるまいのことか、よくわかっていないということである。
 それを「いたずらに恐怖する」「過剰に不安になる」というふうに解釈すると、正常性バイアスの解除は困難になる。いかにも「恰好悪い」し、どう考えても「生きる力を高める」ふるまいではないように思えるからである。恐怖や不安に取り憑かれて浮足立っている人間と、非常時にもふだん通りに落ち着いている人間のどちらが「危機的状況を生き延びられるか?」と考えたら、誰でも後者だと思う。
『史上最大の作戦』では、ノルマンディー上陸作戦で最悪の戦場となったオマハビーチで、ドイツ軍の機関銃掃射を受けながら葉巻をくわえて海岸を歩くノーマン・コータ准将の姿が活写されている。彼の落ち着いた適切な指示によって連合軍兵士は防御線の突破に成功するわけだが、彼はどう見ても恐怖心に取り憑かれているようには見えない。だが、彼は「正常性バイアス」に固着していたからそうしたわけではない。歴戦の軍人としてちゃんと「非常時」へのスイッチ切り替えを行っているのである。それは「自分が見ているものだけに基づいて状況を判断しない」という節度を持つことである。
 正常性バイアスの解除とはいたずらに怖がることではなく、自分が見ているものだけから今何が起きているかを判断しない。自分が現認したものの客観性・一般性を過大評価せず、複数の視点から寄せられる情報を総合して、今起きていることを立体視することである。
「主観的願望をもって客観的情勢判断に替える」というのが正常性バイアスの実態である。主観をいったん「かっこに入れて」、複数の視点から対象を観察する知的態度のことを「正常性バイアスの解除」と呼ぶのである。フッサールが「エポケー(現象学的判断停止)」と呼んだのは、まさにこのような知的態度のことである。
 私が見かける「コロナ・マッチョ」たち(マスクをすること、ソーシャル・ディスタンシングをとること、頻繁に手指消毒をすること、人が密集する場を忌避することなどを「怖がり過ぎだ」と嘲弄したり、叱責したりする人たち)の共通点は「私の周りでは死者も、重症者もいない」というところから推論を始めることである。
「私の周り」で現認した事実をもってさしあたり「客観的事実」であるとみなす態度は、他人からの伝聞を軽々には信じないという点では現実主義的であるし、成熟した大人の態度でもあるとも言える。けれども、これは「正常性バイアス」のひとつのかたちである。
 正常性バイアスは「非常事態というのはなかなか起きるものではない」という蓋然性についての判断としては適切だが、自分の個人的な感覚や知見の客観性を過大評価するという点では適切でない
 こういう人に対して、ふだんからものごとを複眼的にとらえる知的習慣を持っている人がいる。自分が現認したことはあくまで個人的、特殊な出来事であり、そこからの推論は一般性を要求できないという知的節度を持つ人は、いわば日常的に正常性バイアスの装着と解除を繰り返していることになる。こういう人は非常時になっても「驚かされる」ということがない。
 非常時というのは「自分以外の視点からの情報の取り込みを一気に増大させないと、何が起きているかよくわからない状況」のことである。だが、日常的に「自分以外の視点からの情報の取り込み」を行っている人にとっては、これは「スイッチの切り替え」というよりは、「目盛りを少し右に回す」くらいの動作を意味する。だから、そうすることにそれほど激しい心理的抵抗を感じずに済む。日常的に「他者の視点」から目の前の現実を眺める仕事に慣れている人間が最も非常時対応に適しているということになる。
 以上のような知見を踏まえると、質問票の答えも導かれる。
 政府が市民に対して行動制限を指示することができる条件は一つしかない。
 それは政府の方が一市民よりも複眼的に事態をとらえており、何が起きているのかについて正確に理解しているということを市民が信じているということである
。政府はいかなる私念も、いかなる党派性も、いかなる偏見もなく、現実をありのままに見ているということを市民が信じているということである。
 コロナ禍の中で、市民的自由について強い規制を行うことができた国は、市民がさしあたりは政府が「全国民の健康を等しく配慮している」ということを信用した国である。逆に、強い規制ができなかった国は、市民たちが政府の公平性・公共性を十分には信じておらず、市民的自由の規制が、政権やその支持者にのみ利益をもたらし、一般市民に不利益をもたらすものではないかという疑念を政府が払拭し切れなかった国だったということである。
 日本は後者である。
 非常時において「緊急事態だから政府に全権を委ねよう」という気持ちに市民がなるためには、平時において「政府は公共の福祉のために行動しており、全国民の利害を、支持者・反対者にかかわらず等しく配慮している」と市民たちが感じていることが必須の条件となる。
 平時においてネポティズム的な政治を行っている政府が、非常時においてだけは正常性バイアスを解除して、全国民に等しく配慮するようになるだろうと信じる者はいない。