小津安二郎断想(4)「最後の青年とその消滅」

2020-08-08 samedi

『お茶漬けの味』に添付したもの。

『お茶漬の味』には鶴田浩二が演じる「ノンちゃん」という青年が出てくる。鶴田浩二はこのあとしだいに暗い地顔の俳優になってゆくけれど、小津のこの映画の中では例外的に屈託のない明るい表情を見せている。
 ノンちゃんは佐竹茂吉(佐分利信)の戦死した旧友の弟である。就活中のはずなのだが、パチンコとか競輪とかラーメン屋といった新しい娯楽に精通して、茂吉や節子(津島恵子)相手に得々とその効用を説明するところを見ると、あまり真剣に職探しをしているようには見えない。
 そのノンちゃんが入社試験のあとに茂吉にバーで会って、ビールを飲んでいるうちに感興湧いてドイツ語の歌を歌い出す場面がある。観客はこれで彼が旧制高校(茂吉と同郷だから、たぶん松本高校)の出身者だということを察知する。
 卒業生はそのまま帝国大学に進学し、エリートになることが制度的に保証されていた時代の旧制高校生の特徴をノンちゃんはよく体現している。それは「俗情に通じているけれど、俗情に堕すことを潔しとしない」、「わざとがさつな態度をとるけれど、生来の教養と育ちの良さがついにじみ出る」といった性格特性である。その意味で、ノンちゃんは漱石の『三四郎』から始まる「日本の青年」の最後の世代の一人だと言えるであろう(『陽の当たる坂道』の石原裕次郎と『乱れる』の加山雄三までなら、ぎりぎり「青年」に算入してもよいかもしれない。だが、彼らには旧制高校的な「弊衣破帽」性はまだ残っているけれど、アカデミズムへの憧れはもうない)。
 日本近代の「青年」は明治40年代に生まれ、1960年代に消滅した。私はそんなふうに思っている。漱石や鷗外が作品を通じて「あるべき青年像」をていねいに造形してみせたのは、明治の日本が世界の列強に伍すためには、「青年」的な存在が必須であると彼らが思っていたからである。だから、「青年」に対する国家的需要が消え失せたとき、「青年の物語」も消滅した。ノンちゃんは日本映画が造形したその最後の青年の一人である(青年に託された使命は「勝ち上がること」から「敗北と折り合うこと」に変わってはいたが)。
 青年はある程度の社会的能力を備え、十分な市民的自由を享受しているが、まだ子どもらしい無垢な正義感と傷つきやすさを手放していない。それゆえ、彼はハードでタフな「大人の世界」と、儚く壊れやすい「子どもの世界」に同時に共属することができる。青年はその身体をこの二つの世界の間にむりやりねじ込むことによって、冷徹なリアリズムを緩和し、子どもっぽい夢想の破片のいくつかを救い出す。現実を手触りの優しいものに変え、また夢想を現実のかたちに整える。
 小津安二郎はそのような青年を好んで描いた。『彼岸花』の高橋貞二、『お早よう』の佐田啓二、『小早川家の秋』の宝田明・・・彼らの「頼りなさ」を小津は深く愛していたのだと思う。それはリアリストの大人と未成熟な子どもはどんな時代でもいなくなることはないが、青年はある例外的な歴史的状況の中で生まれ、それゆえ消え去った後はもう二度と戻ってこないことを小津安二郎が察知し、その消滅を哀惜していたからではないかと思うのである。