書評・白井聡「武器としての「資本論」(東洋経済新報社刊)

2020-06-12 vendredi

 私事から始めて恐縮だが、経済学者の石川康宏さんと『若者よ、マルクスを読もう』という中高生向けのマルクス入門書を書いている。マルクスの主著を一冊ずつ取り上げて、石川さんは経済学者という立場から、私は文学と哲学の研究者という立場から、中高生にもわかるように噛んで含めるように紹介するという趣向のものである。
 第一巻で『共産党宣言』、『ヘーゲル法哲学批判序説』『ユダヤ人問題によせて』。第二巻で『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』と『フランスにおける階級闘争』。第三巻で『フランスの内乱』と「マルクスとアメリカ」についての共同研究。そこまでは出した。最終巻で『資本論』を論じて、それでめでたくシリーズ終了という計画だったが、「次は『資本論』だね」と確認してから2年が経過してしまった。停滞しているのは、私が忙しさに紛れて書かずにきたせいである。
 しかし、ここに白井聡さんの『武器としての「資本論」』が出てきた。一読、あまりの面白さに、「そうか、こういうふうに書けばいいのか!」と膝を打ったのであった。そして、いまは自分の『資本論』論が書きたくて、うずうずしてきた。コロナ禍でしばらく暇が続くので、書き始められそうである。届かない原稿を待ち続けていた編集者のために白井さんは陰徳を積まれたことになる。
 私が膝を打った「なるほど! こういうふうに書けばいいのか!」の「こういうふう」とは「どういうふう」のことなのか。それについて書きたいと思う。

 白井さんのこの本は「入門書」である。「『資本論』の偉大さがストレートに読者に伝わる本を書きたい」という白井さんの思いを託した入門書である。マルクスについて基礎的な知識がない若者を読者に想定している。そういう人たちにマルクスの「真髄」をいきなり呑み込ませようという大胆きわまりないものである。そして、それに成功している。
 たいした力業と言わなければならない
「入門書」の良否は、想定読者の知性をどれくらいのレベルに設定するかという初期設定でほぼ決まると私は思う。
 凡庸な専門家は「一般読者を対象に」と言われると、いきなり「啓蒙」というスタンスを取る。想定読者の知性をかなり低めに設定するのである。そうすることが「リーダー・フレンドリー」だと思っているからである。そして、たいていは失敗する。
「啓蒙」は「書き手は博識であり、読者は無知である」という「知の非対称性」を前提にする。そういう構えはコミュニケーションを阻害することはあっても、活性化する役には立たない。「啓蒙」的態度をとる人は、自分が読者を威圧したり、屈辱感を与えたりしている可能性をあまり気にかけない。書き手が読者に対して十分な敬意を示さない場合、読者がそれを敏感に感じ取り、心を閉ざすということを知らない(人は自分が相手から愛されているかどうかはよくわからないが、自分が相手から敬意を払われているかどうかは、すぐわかるのである)。
でも、書き手がほんとうに読者に伝えたいことは、ほとんどの場合、読者に「心を開いて」もらわないと達成できない。読者たちが、これまでの自分のものの考え方をいったん「かっこに入れて」、しばらくの間だけ自分の手持ちの「物差し」をあてがうことを自制して、書き手の言い分を「丸呑み」にしてくれないと、ほんとうに伝えたいことは伝わらない。だから、ほんとうにたいせつなのは、読者に「心を開いてもらうこと」だけなのである。
「コミュニケーションの回路を立ち上げる」という遂行的な営みに成功しない限り、その回路を行き来するコンテンツの理非や真偽はそもそも論じることさえできないのである。
一人の読者が、一冊の本を読みながら、今読んでいる箇所を理解するためには、自分自身の考え方感じ方を一時的に「かっこに入れる」「棚上げする」必要があると感じたならば、その本はコミュニケーションの回路の立ち上げに成功したと言うことができる。私はそう思う。
 いま「心を開く」という比較的穏当な動詞を使ったけれど、ほんとうはそんな生易しいものではない。読者が「心を開く」というのは、どこかで「自分を手離す」ということだからである。自分が自分のままである限り、この頁に書いてあることは理解できない。この頁が理解できるようになるためには、自分は今の自分とは別人にならなければならない。そういう「清水の舞台から飛び降りる」ような決断を下すこと、それが「心を開く」ということである。そして、そのようなきびしい決断を読者に迫る書物がこの世には存在する。白井さんのこの本はそういう書物である。

 白井さんは読者たちに「清水の舞台から飛び降りる」ことを求める。きびしい要求である。そのことを白井さんもわかっている。「はい、これがパラシュートね、あの目標点めざして飛び降りてね。じゃ、いくよ」くらいのあっさりした声かけでは、たぶん足がすくんで、ついてきてくれない。だから、飛び降りてもらう前に、入念なストレッチを行い、これから行ってもらう「跳躍」が、どういう歴史的な文脈のうちで形成され、なぜ知的成熟にとっての必須科目とされるに至ったのかを、諄々と説く。読者に「怖いこと」をさせるつもりでいる本はフレンドリーな顔をして近づいてくる。そういうものなのである。
 この本はとても丁寧に書かれている。でも、それは繰り返し言うが、「啓蒙的」な意図に基づく丁寧さとは違う。白井さんが、たいへんに丁寧に説明するのは、読者にこれから「たいへんなこと」をしてもらうためだからである。
 白井さんは「思索の人」であると同時に「行動の人」である。彼は(社会人としての立場上あまり広言はされないが)機会があれば「革命をやりたい」と思っている。
だから、すべての書物を通じて、実は白井さんは「ともに革命をする同志」を徴募しているのである。「読者にこれからたいへんなことをしてもらう」という「たいへんなこと」というのはそれである。
 レーニンは『国家と革命』の「あとがき」で「革命の経験をやりとげることは、それについて書くことよりもいっそう愉快であり、またいっそう有益でもある」と書いている。
きっと白井さんもそう思っている。
 だから、彼の本は「読者をして行動に導くための本」である。読んでもらって「よくわかりました。いや、『資本論』のことがよくわかりました。ありがとう」では済まされないのである。「よくわかりました。資本制社会の仕組みが理解できました。で、次は革命のために何を始めたらいいんですか?」という読者が欲しいのである。
 そういう本を書く人は少ない。
 前に、桑原武夫は人を評価するときに「一緒に革命ができるかどうか」を基準にしたと聞いたことがある。これはなかなかすてきな基準だと思う。
 革命闘争というのは、そのほとんどの時期が地下活動である。弾圧され、警察に追われ、逮捕投獄されて、拷問され、処刑されるリスクに脅かされる日常である。だから、それでも革命運動ができるとしたら、それは、レーニンが言う通り、日々の活動がたいへんに「愉快」だからである。「そうだ、革命をやろう」と思い立って、仲間を集めて、組織を作り、機関誌を出したりしている日々がそうでない日々より圧倒的に「愉快」だから、弾圧から処刑に至る不吉な未来についての「取り越し苦労」が前景化してこないのである。
 ということは、「一緒に革命ができる人」というのは、「一緒にいると、生きているのが愉快になってくる人」だということである。一緒にいると、日々の何でもないささやかな出来事が輝いて見え、現実の細部にまで深く意味が宿っていることが実感できる、そういう人が「ともに革命ができる人」である。白井さんはそのような書き手であろうとしている。これは現代日本にあってはまことに例外的な立ち位置というべきだろう。

 白井さんの「リーダー・フレンドリーネス」について書いているうちに内容の紹介をする前に予定の紙数が尽きてしまった。わずかな行数ではとてもこの本の中身を要約はできない。私が個人的に一番面白く読んだのは、白井さんが、どうして人間は「資本に奉仕する度合い」に基づいて格付けされることを(それが自分自身をますます不幸にするにもかかわらず)これほど素直に、ほとんど嬉々として受け入れるのか、という問いをめぐって書いている箇所である。
 われわれの時代の新自由主義的な資本主義は「人間のベーシックな価値、存在しているだけで持っている価値や必ずしもカネにならない価値というものをまったく認めない。だから、人間を資本に奉仕する道具としてしか見ていない。」(70頁)
 ほんとうにその通りなのだが、問題は、どうして人々はそれに抵抗しないのか、ということである。それは資本の論理は、収奪される側の人間のうちにも深く内面化しているからである。この倒錯をマルクスは「包摂」と呼んだした。
 この「包摂」と「本源的蓄積」がイングランドの農業革命期の「囲い込み」から始まったというのはマルクス主義の教科書には書いてあるが、白井さんの説明ほどわかりやすいものを私はこれまで読んだことがない。
 人間たちが現に自分を収奪している制度に拝跪する心性の倒錯に気づき、自分の身体の奥底から絞り出すような声で、その制度に「ノー」を突きつける日が来るまで、資本主義の瑕疵や不条理をいくら論っても革命は起きない。問題は革命的主体の形成なのである。
だから、白井さんは、本書の結論部にこう書いている。
「『それはいやだ』と言えるかどうか、そこが階級闘争の原点になる。戦艦ポチョムキンの反乱も、腐った肉を食わされたことから始まっています。『腐った肉は我慢ならない』ということから、上官を倒す階級闘争が始まったわけです。」(277-8頁)
 最終的に「反抗」の起点になるのは人間の生身である。かつてアンドレ・ブルトンはこう書いた。
「『世界を変える』とマルクスは言った。『生活を変える』とランボーは言った。この二つのスローガンはわれわれにとっては一つのものだ。」
 その通りだと思う。「生活を変える」ことなしに、「世界を変える」ことはできない。一人の人間が血肉を具えた一人の人間が、その生物として深い層から「それは、いやだ」という反抗の叫び声を上げるときに、労働者は資本主義的な「包摂」から身を解くのである。そして、「包摂」から逃れた労働者の眼前には「資本の本源的蓄積」以来の資本主義の全歴史が一望俯瞰される。だから、その次に労働者が選択するふるまいは、どのようなものであれ、その語の正しい意味において「革命的」なものとなるはずなのである。
 令和の聖代に「懦夫をして起たしむ」かかる「革命的」な書物が登場したことを喜びたい。