『街場の親子論』のためのまえがき

2020-06-03 mercredi

 みなさん、こんにちは。内田樹です。
 本書は僕と娘の内田るんとの往復書簡集です。
 どうしてこんな本を出すことになったのかについては、本文の中に書いてありますので、経緯についてはそちらをご覧ください。
 ここでは「まえがき」として、もう少し一般的なこと、親子であることのむずかしさについて思うところを書いてみたいと思います。

 本書をご一読して頂いた方はたぶん「なんか、この親子、微妙に噛み合ってないなあ」という印象を受けたんじゃないかと思います。
 ほんとうにその通りなんです。
 でも、「微妙に噛み合ってない」というのは「ところどころでは噛み合っている」ということでもあります。話の3割くらいで噛み合っていれば、以て瞑すべしというのが僕の立場です。親子って、そんなにぴたぴたと話が合わなくてもいい。まだら模様で話が通じるくらいでちょうどいいんじゃないか。僕はそう思っています。

 最近の若い人って、あまり「つるんで遊ぶ」ということをしなくなったように見えます。特に若い男性だけのグループで楽しそうにしているのって、あまり見かけません(僕が学生時代はどこに行くにも男たちのグループでぞろぞろでかけていました)。若い人があまり活動的でないのは、もちろん第一に「お金がない」からだと思います。訊いても、たぶんそう答える人が多いと思います。でも、それ以外に、「口に出されない理由」があるんじゃないでしょうか。
 それは他人とコミュニケーションするのが面倒だということです。
 人と付き合うのが負担なので、あまり集団行動したくないという人が増えている気がします。
 でも、またいったいどうして「他人とコミュニケーションするのが面倒」だというようなことが起きるのでしょうか?
 以下は僕の私見です。お断りしておきますけれど、私見というのは「変な意見」ということなので、あまりびっくりしないで下さいね。

 僕は若い人たちが他人とのコミュニケーションを負担に感じるようになったのは、共感圧力が強すぎるせいじゃないかと思っています。
 今の日本社会では、過剰なほどに共感が求められている。僕はそんな気がするんです。
 とりわけ学校で共感圧力が強い。そう感じます。喜ぶにしろ、悲しむにしろ、面白がるにしろ、冷笑するにせよ、とにかく周りとの共感が過剰に求められる。
 僕は女子大の教師だったので、ある時期から気になったのですけれど、どんな話題についても「そう!そう!そう!」とはげしく頷いて、ぴょんぴょん跳びはねて、ハイタッチして、というような「コミュニケーションできてる感」をアピールする学生が増えてきました。そういうオーバーアクションが無言のうちに全員に強制されている・・・そんな印象を受けました。
 何もそんなに共感できていることを誇示しなくてもいいのに、と思ったのです。だいたい、それ嘘だし。
 ふつう他者との間で100%の理解と共感が成立することなんかありません。あり得ないことであるにもかかわらず、それが成立しているようなふりをしている。「そんな無理して、つらくないですか?」と横で見ていて思いました。
 どんな親しい間でだって、共感できることもあるし、できないこともある。理解できることもあるし、できないこともある。それが当たり前だと思います。長くつきあってきて、腹の底まで知っていると思っていた人のまったく知らない内面を覗き見て心が冷えたとか、何を考えているのかさっぱり分からない人だったけれど、一緒に旅をしたらずいぶん気楽であったとか・・・そういう「まだら模様」があると思うんですよ。
 歌謡曲の歌詞だと、心を許していた配偶者や恋人の背信や嘘に「心が冷えた」方面についての経験が選好されるようですけれど(ユーミンの「真珠のピアス」とか)、その反対のことだってあると思うんです。さっぱり気心が知れないと思っていた人と一緒に過ごした時間が、あとから回想すると、なんだかずいぶん雅味あるものだった・・・というようなことだってあると思うんです(漱石の『虞美人草』とか『二百十日』とかって、「そういう話」ですよ)。
 僕はどちらかと言うと、この「理解も共感もできない遠い人と過ごした時間があとから懐かしく思い出される」というタイプの人間関係が好きなんです。そして、できたらそれをコミュニケーションのデフォルトに採用したらいかがかと思うんです。そのことをこの場を借りてご提案させて頂きたい。

 以前に「アダルトチルドレン」という言葉がはやったことがありました(さいわい、もうあまり使われなくなりましたが)。親がアルコール依存症であったり、家庭内暴力をふるうような家庭に育った子どもは精神を病みがちであるという説です。それについて書かれた本を読んだら、そこに「アダルトチルドレンが発生する確率が高い家庭」の条件がいくつか挙げられていました。その一つに「家族の間に秘密がある」という項目がありました。
 僕はそれを読んで、それは違うだろうと思いました。話は逆なんじゃないかな、と。
 だって、家族の間に秘密があるなんて当たり前だからです。
 家族といえども他の人には知られたくないあれこれの思いを心の奥底に抱え込んでいる。
 僕はそうでした。
 だから、僕は子どもの頃は親や兄に、結婚した後は妻や子に、僕の「心の奥底」なんか覗かないで欲しいと思っていました。表面的に「演じている」ところだけでご勘弁頂きたい。だって、わざわざ心の奥底に隠しているわけですから、意馬心猿、社会的承認が得難いタイプの思念や感情に決まっています。別に、家族のみなさんに、それを受け入れてくれとか、承認してくれというような無理を申し上げるつもりはない。そっとしておいて欲しい。僕が求めているのはそれだけでした。
 ですから、もし、「家族らしい思いやり」というものがあるとすれば、「この人は何となく『心の秘密』を隠していそうだな」と思ったら、その話は振らない、そっちには不用意に近づかないという気づかいがあってもいいんじゃないかと思うんです。
 もちろん、運がよければ、いずれどこかで、誰かに「これ、今まで誰にも言ったことがないことなんだけど・・・」ということを告白する時が来ます。そういう話を黙って聴いてくれる人が「親友」とか「恋人」とかいうわけです。
 でも、それは一生に何度も起きることのない特権的な経験です。「親友」とだって、それから後、顔を合わせる毎にそのつど「心の秘密」を打ち明け合うわけじゃないし、「恋人」と運よく結婚した場合でも、やっぱり朝夕ちゃぶ台をはさんで「心の秘密」を語り合うわけじゃない。心の奥に秘めたことを語るというのは、例外的で、そしてとても幸福な経験であって、のべつ求めてよいものじゃない。僕はそう思います。
「家族の間でそんな他人行儀なことができますか」という反論があるのは承知しています。でも、「他人行儀」をとっぱずした結果、骨肉相食む泥仕合・・・という事例を僕はたくさん見てきました。そういう家族は例外なく「遠慮のない間柄」でした。だから、家族が罵り合う泥仕合になる前はずいぶん親しそうに見えた。お互いに遠慮なく、お互いの悪口を言う。欠点をあげつらう。容貌やふるまいについて辛辣な批評をする。それが「親しさ」の表現だと思っていた。
 でも、そういう家族はしばしば何かがきっかけになって(たいていはお金のことか、結婚のことで)崩壊した。そういうものなんです。「家族に承認されないようなお金の使い方」と「家族に承認されないような性的傾向」についてはあまり「親しく」コメントしない方がいいんです。「そうなんだ・・・そういう人なんだ・・・」と息を呑む、くらいのところでとどめておく。それが人に敬意を以て接するということです。家族に対してだって同じことだと思います。
 どんなに親しい間柄でも必ずどちらかが「何でそんなことを言うのかわからないこと」を言い出し、「何でそんなことをするのかわからないこと」をし始める。必ず。
 おとなしかった少女が、突然「もうたくさん。放っておいて」と捨て台詞を残して階段を駆け上がったり、優等生だったはずの少年が「オヤジのこと、ぶっころしてやりてえよ」と暗い目をしたり・・・そういうことって、ほんとうにいっぱいあるんです。ほぼすべての家庭でそれに類することが起きる。これは避けがたいことなんです。だから、「そういうことって、ある」という前提で話を始めた方がいい。  でも、なかなかそこまでの心の準備ができないので、そういう場面に際会すると「親しいつもりだった家族」はびっくりしてしまいます。そして、傷つく。どうして、そんなことをして自分を傷つけるのか、理由がわからない。あまりに一方的だ、ひどすぎると思う。そこでバランスを取るために、自分も相手に同じだけの傷をつける権利があり、義務があると思うようになる・・・
 怖いですね。
 でも、「そういうこと」が起きるのは、「家族はお互いに秘密を持たない方がいい」とか「家族は心の底から理解し共感し合うべきだ」という前提から話を始めたからです。前提が間違っていたんです。  もちろん、「あるべき家族」について高い理想を掲げるのはいいことです。でも、「あるべき家族」のハードルを上げ過ぎて、結果的に家族がお互いをつねに「減点法」で採点して、眉根を寄せたり、舌打ちをしたりして過ごすのは、あまりよいことではありません。それよりは、家族の合格点をわりと低めに設定しておいて、「ああ、今日も合格点がとれた。善哉善哉」と安堵するという日々を送る方が精神衛生にも身体にもよいと思います。
 でも、そういうことを声高に主張する人っていないんですよね。ぜんぜんいないと言って過言でないくらいに少ない。どうしてなんでしょうね。

 僕はそこには「共感」を過剰に求める社会的風潮が与っていると思います。もともと同質化圧の強い日本社会にさらに「共感」とか「絆」とか「ワンチーム」とかいう縛りがかかっている。そのせいで、もう息ができないくらい生きづらくなっている。そういうことじゃないんでしょうか。
 たまに電車の中で高校生たちが話しているのを横で聴くことがあります。すると、ほんとうにやり取りが早いんです。超高速で言葉が飛び交っている。打てば響くというか、脊髄反射的というか、とにかく「言いよどむ」とか「口ごもる」とか「しばし沈思する」とかいうことが、ぜんぜんない。
 でも、これは異常ですよ。
 この若者たちは、たぶんそういう超高速コミュニケーションが「良質のコミュニケーション」だと思っているんでしょう。でも、それは違うと思う。そんな超高速コミュニケーションができるためには、そのサークルにおける自分の「立ち位置」というか「役割」というか、「こういうふうに話を振られたら、こういうふうに即答するやつ」という「キャラ設定」が確定していないといけない。でも、これはすごく疲れることだし、疲れるという以上に大きなリスクを含んでいます。
 もちろん、打てば響くコミュニケーションは当座は気持ちいいですよ。ジャズのインタープレイみたいなものですから、「腕のある者」同士だと、気分のよい演奏ができる。でも、長くやっていると、「自分のスタイル」を変えることが難しくなる。「らしくない」リアクションをすると全員が注視する。「どうしちゃったんだよ。お前らしくないじゃない」という突っ込みが入る。これが「キャラ設定」の怖いところです。
 たしかにキャラ設定を受け入れると、集団内部に自分の「居場所」はできます。いつもつるんで遊ぶ友だちもできる。でも、それは「初期設定をいじるな」という無言の命令とセットなんです。与えられた役割から踏み出すな、決められた台詞を決められたタイミングで言え、変化するな。そういう命令とセットなんです
 家族でもそうです。「あなたは・・・だから」という決めつけがなされる。「・・・」には何を入れてもいいです。
 僕の場合だったら、「樹は西瓜が好きだから」「樹は要領がいいから」「樹は情が薄いから」などなど、無数の「キャラ設定」が家庭内でありました。
 僕がその期待に応えて、それらしいリアクションをすると、家族は機嫌がいい。家族が機嫌がいいと僕だってうれしい。言われてみれば、自分はたしかに西瓜が好きだし、要領がいいし、情も薄そうな気がする。でも、それってある種の「蜘蛛の糸」なんです。気がつくと、そういう無数の「樹は・・・だから」で身動きできないくらいにがんじがらめになっていた。
 僕は成長したかった。変化したかった。当然ですよね。呉下の阿蒙は「士別れて三日ならば、即ち更に刮目して相待つべし」と言いましたけれど、ほんとうにそうだと思います。人が成長するときには、三日経つと別人になってしまうくらいの勢いで変わる。それが人性の自然なんです
 だから、「キャラ」の縛りが受忍限度を超えた時点で、僕は「すみません。長らくみなさまの"内田樹"を演じて参りましたが、もうこの役を演じるのに疲れました。役降ります。失礼しました。さよなら」と言って家を出てしまいました。

 家族の絆はつねにこの「変化するな」という威圧的な命令を含意しています。だから、若い人たちは成熟を願うと、どこかで家族の絆を諦めるしかない。子どもの成熟と家族の絆はトレードオフなんです。「かわいい子には旅をさせろ」と言うじゃないですか。
 絆が固ければ固いほど、成熟を求めて絆を切った子どもと残された家族とのその後の関係修復は困難になる。だったら、はじめから絆は緩めにしておいた方がいい。その方があとあと楽です。僕はそう思います。
 僕は高校生のときに「役を降りて」学校を辞め、家を出て、その後経済的に困窮して、尾羽打ち枯らして家に舞い戻りました。まことに面目のないことでしたけれど、父は黙って、「そうか」と言っただけでした。意地っ張りの息子が何を考えているのかを理解すること共感することをその時点までに父は断念していたようでした。でも、この「何を考えているかわからない少年」を再び家族の一員として迎えることを決断した。その困惑した表情を今でも覚えています。
 父は僕が50歳のときに亡くなりました。よい父親だったと思います。一番感謝しているのは、このときの「息子を理解することは諦めたけれど、気心の知れない息子と気まずく共生することは受け入れる」という決断を下してくれたことでした。

 この往復書簡を通読されたみなさんは、僕と娘の親密なやりとりよりも、「なんとも微妙なすれ違い」の方に興味を持たれると思います。「これだけお互いに気持ちがすれ違っていて、よく『僕らは仲良しな親子です』なんて言えるな」と不思議に思う読者もおられると思います。でもね、そういうものなんです。
 僕たちはうまくコミュニケーションのできない親子でした。でも、うまくコミュニケーションができている親子というのは、先ほどの高校生じゃないですけれど、「打てば響く」ような超高速のやりとりができるということとは違うと思います。
 うまくコミュニケーションがとれないことそれ自体はあまり気にしない。そういうものだと諦める。そして、とりあえず、相手を家族内部的に設定された「キャラ」に閉じ込めることはできるだけ自制する。相手がどんどん変化しても、あまり驚かない(多少は驚きますけれど)。なんとかもう少しうまくコミュニケーションがとれるようになるといいんだけど。生きているうちは無理かも知れないなあ...まあ、それでも仕方がないかというのが僕の基本姿勢です。
 こんな親ですから、るんちゃんも僕との親子のコミュニケーションについては、あまり高い期待を抱いていないと思います。
 でも、それでいいじゃないですか。困ったときは困ればいい。「参りましたな、こりゃ」「ううむ、打つ手がありませんなあ」と腕を組んで、庭の海棠にふと目をやって、ふたり渋茶を啜る・・・というような親子関係があってもいいじゃないか、と。
 というようなことを書くと、「いったい何を考えているんだか...そんな親子関係でいいわけないじゃん」というるんちゃんのため息が聞こえてきそうです。ごめんなさい。親子は難しいです。

 最後になりましたけれど、こんな不思議な本の企画を立てて、僕たち親子を励ましてくださった中央公論新社の楊木文祥さん、胡逸高さんのお二人の編集者に感謝申し上げます。
 親子二人きりだと気恥ずかしくて、往復書簡なんか書く気になれなかったと思いますけれど、第三者の目を気にしながら書くことで、これまで言えなかったことをお互いに正直に言い合うことができました。弁護士を間に立てて協議離婚するようなものですね・・・という不穏な喩えを思いつきましたけれど、これはあまりに不適切ですね。忘れてください。
 何より、長い間付き合ってくれたるんちゃんに感謝です。ありがとう。たまには神戸に遊びに来てくださいね。

2020年3月
内田樹