想田監督の最新作で「仮設の映画館」で公開中の『精神0』の公式パンフレットに一文を寄せました。これを読んで「うう、映画みたいぜ」と思ってくれる方がいるといいんですけど。
『人間を衝き動かすもの』
想田監督はものすごく「引きの強い」人だと思う。『精神』の女性患者の独白も、『港町』の老婆の独白も、監督が仕掛けたものではない。予告もなく、文脈もなく、不意に彼女たちはカメラに向けて語り出し、その表情と声は観客の記憶に深く刻みつけられる。偶然でも、そういう場面に出会えるというのは、監督の力である。その画面から僕が感じ取ったのは「人間というのは、耐えがたいほどに重たいものを抱え込みながら、それでも何事もなかったように、時には笑顔で、日常生活を営むことができる」ということだった。
「人間は強い」とも言えるし、「人間は深い」とも言えるし、「人間は怖い」とも言える。
想田監督は、そういう「強くて、深くて、怖い」人間を撮り続けてきた。「演劇」の平田オリザも、「選挙」の山内和彦も、他のドキュメンタリストが撮ったら決して「怖い人」という印象を残すことはなかっただろう。
想田監督が撮る人間が「怖い」のは、被写体自身が、自分が何者なのか、何に衝き動かされて「こんなこと」をしているのは、実はよくわかっていないということを露わにしてしまうからである。
人間を衝き動かしているのは「心」というような訳の分かったものではない。「型」であったり、「習慣」であったり、「反射」であったり、あるいはもっと名付けようのないものである。そして、それに人間は抗うことができない。
映画『精神0』の中で、山本昌知医師が患者と交わす言葉も、妻と交わす言葉も、ご飯を食べたり、並んで歩いたりする時のふるまいも、ほとんどは「型」と「習慣」と「反射」の組み合わせである。熟慮して、判断して、その上で、いくつかの選択肢のうちの一つを選ぶということは映画の中では起こらない(想田監督にお酒を勧めるときくらいである)。あとはまるで厳かな儀式のように全てが進行する。
山本医師はたぶん人生のある時点で、「どうして自分はこんな風に生きているのだろう」という問いを自分に向けることを止めたのだと思う。考えても変えることができないなら、静かに受け入れるしかない。その結果、彼は「聖人」というものに限りなく近い存在になった。
この映画を映画祭で宗教者たちが高く評価したという理由が僕にはわかるような気がする。
(2020-05-11 12:59)