現状分析と展望

2020-04-28 mardi

ある媒体からメールでQ&Aで現状についてのコメントを求められた。字数が制限されていたので、ロング・ヴァージョンを再録しておく。

1)いま、「こんな社会でいいのか」と多くの国民が思っています。コロナ危機が告発、可視化しているように見える安倍政治の無能ぶり、「新自由主義」の害悪について、どうお考えですか。

 安倍政権の無能無策は首相個人の属人的な欠点というのにとどまらず、この政権とその支持層が奉じている「新自由主義」イデオロギーの欠陥が致命的なしかたで露呈したものだと思います。
「新自由主義」イデオロギーの際立った特徴は資源の「選択と集中」にあります。利益の上がりそうなセクターに資源を集中的に投入し、採算の合わない部門は切り捨てる。効率、生産性、費用対効果・・・そういう配慮を最優先させる。けれども、コロナ禍でわかったのは、「選択と集中」戦略はパンデミックのような社会的に危機に対してはまったく役に立たないという事実です。
 危機管理の要諦は「リスクヘッジ」です。これは「最も楽観的なもの」から「最も悲観的なもの」までいくつかのシナリオを用意して、それぞれについて対策案を立てておくということです。どれかのシナリオ通りの危機が起きた場合には適切に対応できますが、それ以外のすべてのシナリオは「外れ」たわけですから、そこに投じた資源はすべて「無駄」になります。この「無駄・余裕・遊び(slack)」は危機管理上の当然のコストなわけですけれども、「選択と集中」論者にはこのコストに耐えることができない。このコストを認めることは、彼らのイデオロギーの根幹部分を否定することになるからです。
 危機管理というのは集団全体を救うために集団全体が主体となって行うことですけれども、「選択と集中」論者は、集団をいくつかの単位に分断して、「優先的に資源分配するセクター」と「生産性が低いので切り捨てるセクター」を数値的基準に基づいて差異化するということが主務ですので、「集団全体を救う」ために「全体が主体となる」という発想そのものがありません。だから、新自由主義者には「危機管理」ということができないのです。彼らが危機に臨んで頭を使うのは、いつもと同じように「生き残るものと見捨てるものをどうやって差別化するか」という問題だけです。 
 感染症はですから新自由主義と相性がひどく悪い。というのは感染症は「いつ来るかわからない」からです。いつくるかわからない未知の感染症のために、医師看護師を雇用し、医療資源を備蓄し、病床を確保しておかなくてはいけない。パンデミックが起こらなければ、それはまったく「無駄」だったということになる。実際に2002~3年に世界に広がったSARSは日本では感染者がほとんど出ませんでした。このときに予算を投じて行ったSARS対策はすべて「無駄」だったとも言えます。2009年の新型インフルエンザのあと当時の民主党政権は感染症用のシステム改善と医療資源の備蓄を始めましたが、安倍政権になってから立ち消えになりました。「予算の無駄づかい」に見えたのでしょう。
 今回、危機対応が遅れたのは、政府も都も「東京五輪の予定通り開催」というシナリオしか用意していなかったからです。せめて2月段階で「五輪が開催できないほどの規模で感染が広まった場合」についての「最悪のシナリオ」も用意して、とりあえずマスクや検査キットや人工呼吸器や防護服の備蓄・医療体制の整備を始めているべきでした。たしかにその用意は、感染が手際よく「水際」で止められていたらすべて無駄になるわけですけれども、市中感染が始まった場合には適切に対応できた。危機管理というのは「無駄を覚悟で」すべきことですけれど、国も都もその覚悟がなかった。

2)、国民にも考え直さなければならない問題が突き付けられているように思いますが、いかがでしょうか。(安倍政治や新自由主義を「受け入れてきた」背景について。その仕掛け、メディアのあり方、文化・国民性等々も含めた、いわば支配の構図・構造について)

 これまで繰り返し言ってきたことですけれど、日本人には「最悪の事態に備える」という発想そのものが希薄です。これが教育のせいなのか、民族の文化なのか、よくわかりません。とにかく「最悪の事態を想定すると、最悪の事態を招き寄せる」という呪術的な信仰が日本人にはあります。ですから、うっかり「最悪の事態に備えて・・・」と口にすると「縁起でもない」と叱られる。場合によっては「それは敗北主義だ」「そういう悲観論を語るな」と罵倒されることさえある。
『戦陣訓』は「百戦百勝の伝統」を謳い、「勝たずば断じて已むべからず」と教えました。実際には戦闘レベルでは負けることがあるのは当たり前です。その場合に、どうやって「負け幅」を小さくとどめ、被害を最小化するかというのがプラグマティックな軍人の知恵の使い方のはずですけれど、日本軍では「そういうこと」を考えること自体が禁じられた。「そういうことを」を考えることはたいせつだという文化があれば、『戦陣訓』のような空疎な文書が書かれることはなかったでしょう。
「負け幅」や「被害」を最小化するためにどうすればいいかということを日本人は考えません。「勝つ」ことしか考えない。今回の「水際作戦」でも、「厚労省がリスクを過小評価していたら?」と想定すること自体が心理的に禁圧されていた。それは僕が知る限りでは、医療現場でもそうでした。それは厚労省は無謬であると医療関係者が信じていたからではありません(これまであれほど失敗を重ねてきた省庁に対してい、専門家がそのような評価を下すことはあり得ません)。そうではなくて、「最悪の事態」を想定すると、全国民が一気に悲観論に落ち込んで、頭が働かなくなり、何もできなくなり、結果的に最悪の時代を呼び込んでしまう・・・と広く信じられていたからです。だから、そんなことを考えるよりは「すべてがうまくいったバラ色の未来」を想像して多幸感に浸っている方がましだ、と。そう考えた。そして、運悪く、予想外の危機的状況に際会したら、みんな一緒に肝をつぶして、一緒に被害をわかちあって、一緒に懺悔しよう・・・。誰の責任だというような野暮なことを言うのは止めて、「絆」でもう一度復興しようじゃないか・・・
 そういうことを日本人は久しく繰り返してきました。この病的傾向は「日本人には危機管理能力がない」という冷厳な事実をまっすぐに見つめない限り決して改善することはないと思います。

3)では、コロナ危機を克服して「より良い社会」をつくるためにどうするか。展望、活路についてお話ください

 日本の統治機構は制度としてはみごとに設計されていると思います。ですから問題は制度ではなく、それを動かしている人間にあります。システムを管理運営している人間の質が劣化している。どんな立派な制度でも、それを扱う人間のできが悪ければ、どうにもならない。問題は統治機構を管理運営する要路にどうやって「市民的常識を具えた、まともな大人」を配するかということです。差しあたりできることは、選挙で議員を選ぶときに、メディアでの知名度や派手なパフォーマンスではなく、人としての良識と市民的な成熟を基準にすることです。それだけでも、社会は少しずつ変わると思いますけれど・・・