街場の教育論 韓国語版序文

2019-12-03 mardi

 みなさん、こんにちは。内田樹です。
 このたび『街場の教育論』の韓国語版が出ることになりました。
 次々と僕の本を翻訳してくださっている朴東燮先生と、出版してくださっている韓国の出版社(今回はご縁の深いEdunietyからです)の皆さんに改めて感謝申し上げます。
 日韓関係はいま戦後最悪という状態にあります。外交関係は硬直したままですし、経済関係も冷却し、日本の観光産業を支えていた韓国からのツーリストも激減しました。一刻も早い日韓関係の修復と相互理解の進展を日韓両国とも多くの国民が願っているはずです。そういう状況下で、僕の本が翻訳、出版されることが日韓関係の改善にわずかでも寄与することができることを願っています。
 
 この本は「まえがき」「あとがき」に説明がありますように、2007年度(もうずいぶん昔のことです)の神戸女学院大学の授業を録音して、それをテープ起こししたものを添削した本です。
 その頃は教務部長という役職に就いていて、毎日のように会議に出て、業務に忙殺されていたので、本を書き下ろしている余裕がありませんでした。そこで窮余の一策、講義やゼミを録音して、それを文字起こししたものに加筆して「一丁上がり」という「一石二鳥システム」を採用することにしました。
 これがなかなかうまく行きまして、『街場の中国論』『街場のアメリカ論』『街場の文体論』『私家版・ユダヤ文化論』といった著作はどれも講義録を土台にしてできた本です。
 目の前にいる学生院生たちに話を聴いて、理解してもらわないという「待ったなし」の事情がありますので、こちらにも切迫感がある。聴いている学生たちが目をキラキラさせてくれれば「お、この話は受けているな」ということがわかるし、学生たちがばたばたと眠り出すと「このトピックは学生たちには切実なものではないんだ」ということがわかる。そういう双方向的なやりとりの中で作られた本ですから、書斎にこもって、ひとりでうんうん唸りながら書いている本よりも、だいぶ読みやすいものになっていたのではないかと思います。
 さいわい、この本は日本では好意的に迎えられ、いくつか書評にも取り上げられましたし、何より、多くの学校の先生たちに読んでもらいました。「読んで、ほっと安心しました」という感想を何人もの先生から頂きました。「学校でつらいことがあって、教師の仕事に迷いが出た時には、この本を取り出して、明日の活力を補給しました」という先生もおられました。そういう感想を頂いたことは僕にとってもたいへんうれしいことでした。

 いまの日本の教員たちと韓国の教員たちが置かれている環境がどれほど違うのか、僕にはよくわかりません。でも、僕の教育に関する書物が何冊も韓国語訳されていることから推して、「困っていること」については、いくつかの共通点があることは間違いないと思います。そして、おそらく両国の学校教育の最も重要な共通点は学校教育を市場原理に基づいて語る作法だと思います。
「学校教育を市場原理に基づいて語る」というのは、「マーケット」とか「ニーズ」とか「費用対効果」とか「組織マネジメント」とか「工程管理」とかいう工学的・マーケティング的な用語が教育について語るときに繰り返し口にされるということです。
 そういうのが流行りなんです。日本でも90年代からそういうふうになりました。21世紀に入って、さらにその傾向は強化されてきております。
「社会に出てすぐ役立つ知識や技術だけを教えろ」「人文科学的教養は実用的でないから教える必要がない」「学者ではなく、実務経験者を教員に登用して、社会の現実を学生たちに教えさせるべきだ」というような手荒な要求が財界や政治家たちからは次々と出されて来ますが、教育の現場それに対してなかなか有効な反論ができずにいます。
 でも、僕はそういう風潮を肯定的には評価できません。はっきり言って、「実用」とか「有用性」とか「生産性」というようなビジネス用語で教育を語って欲しくない。でも、まことに残念ながら、僕と意見をともにしてくれる人はいまの日本では少数派です。
「市場原理に基づいて」と上に書きましたけれど、もっと限定的に言うと、「工場での工業製品製造原理に基づいて」です。工場のラインで缶詰や自動車やコンピュータを製造することが産業の主要形態であったかなり昔のモデルに基づいて、いま学校教育は制度設計されています。
 正直言って、僕はその古さと非現実性にうんざりしているのです。
だって、もうそんな時代じゃないんですから。
 工場でものを作ることが産業の主要形態である時代はとうに過ぎてしまった。なのに、どうしていまだに「自称実務家」たちは「工場で缶詰を作る」ような気分で学校教育をしたがるのか、僕には理解できません。
 勘違いして欲しくないのですけれど、僕は「もうそんな時代じゃない」から、古典的な中枢的な工程管理を止めて、「いまふう」にしろと言っているわけじゃないんです。誤解しないで下さいね。学校教育もこれからはスタンドアロンのアクターたちが自由に離合集散してアドホックにプロジェクトを遂行するリゾーム的なネットワークにしろとか、そういう目がちかちかするような話をしているわけじゃないんです。そうじゃなくて、学校教育というのはもともと惰性の強いものなんだから、時代に合わせてころころ変えるとろくなことはないと申し上げているのです。
 社会のニーズなんかいいから、基本的なことだけをきちんとやればいい、と。なにしろ、学校の本質は人類史の黎明期からたぶんほとんど変わっていないはずだからです。
 学校の人類学的機能は要言すれば一つしかありません。
 それは「共同体の次世代の成員たちが生き延びてゆけるように、その成熟を支援すること」です。それに尽くされる。
 ですから、あらゆる教育事業は「これは子どもたちの生きる力を高めるのだろうか? 子どもたちの成熟を支援する役に立つのだろうか?」という問いを通じて、その適否を吟味する。それだけで十分です。それ以外のことは学校教育にとってはすべて副次的です。
 例えば、「子どもたちの相対的な優劣を競わせ、格付けを行うこと」は教育にとってとりわけ優先的な仕事ではないと僕は思います。子どもたち同士に優劣を競わせて、格付けを行ない、高いランクの子どもを厚遇し、低いランクの子どもを処罰するということが子どもたちの市民的成熟に資すると僕は思いません。僕の知る限り、「競争と格付け」が子どもたちを成熟させる、子どもたちの生きる力を高めるということを科学的に証明したエビデンスは存在しません。
 そんなエビデンスがあるわけない。科学的に実験しようと思ったら、子どもたち二つのグループに分けて、一方は「競争」を優先する環境に置き、一方は「成熟」を優先する環境において、20年くらい経年変化を見ないとわからないからです。でも、20年やってみて「あ、こちらのグループの教育は失敗したようです。みんな不幸になりました・・・」と言って済ませるわけにはゆかない。子どもは実験台にはできません。
 にもかかわらず、現在の学校では、限りある教育資源は「確実にリターンがあるところ」に傾斜配分すべきだという「選択と集中」理論があたかも科学的真理であるかのようにのさばっている。「すぐに金儲けにつながりそうな領域に金を投じ、なさそうなところには金を使わない。先行き役に立ちそうな子どもに手をかけて、できの悪いのは放っておく」というルールが教育現場を支配している。
 ここには「未来の共同体を担う次世代の若者たちの成熟を支援する」という配慮はかけらほどもありません。ゼロです。当然ながら、子どもたちを競争させ、厳密に格付けしても、それによって彼らが「賢い、まともな大人」になるということはありません。むしろ、競争的環境は彼らの成熟を阻むと僕は考えています。
 その理屈をちょっと噛み砕いてご説明します。
 同学齢集団の中で相対的に優位に立つためには二つ方法があります。一つは、自分の力を高めること。一つは、競争相手の力を弱めることです。問題が「相対的な優劣」である限り、この二つは同じことです。そして、「競争相手の力を弱める」ことのほうが圧倒的に費用対効果が高い。自分の競争相手たちをできるだけ無能で無力な人間にすればいいわけですから。
 やり方は無数にあります。
 努力している人の足を引っ張る、成熟した大人になろうとしている人に「かっこつけるな」とか「えらそうにするな」といやがらせを言う、個性的な人を「変だ」と言って排除し、迫害する。もっとシンプルにただ「大声を出して教室を走り回る」でも、ことあるごとに教師に食ってかかって、教師の尊厳を掘り崩すとか・・・やることはいっぱいあります。すべて「同学齢の競争相手の生きる力を減殺する」という目的にはかなっている。そして、現に子どもたちはそうやって日々クラスメートたちの生きる力を殺ぐべく努力しています。
 愚かなふるまいだと思うかも知れませんけれど、「短期的な自己利益の増大」という点だけを見れば、これは合理的なふるまいなのです。これで正しいんです。
 でも、そうやって閉ざされた集団内部での相対的優劣を競っている限り、集団の力はしだいに弱まってゆく。当然です。集団成員の全員が、お互いに「自分以外のメンバーが自分より学力が低く、自分よりメンタルが弱く、自分より未成熟であること」を願っているんですから。そんな集団が「強いもの」になるはずがない。
 それこそまさにいまの日本で起きていることです。
 日本社会では「いじめ」とか「パワハラ」とかいうことが社会問題になっています。
 よく僕のところにも取材が来ます。「いったい、どうしてこんなことが起きるのでしょう?」と訊かれます。「社会制度に瑕疵があるのでしょうか? もっと管理を強化すべきでしょうか? 処罰を厳格化すればいいのでしょうか?」いろいろと訊かれます。
 僕の答えは、「どんな病的な行動にも主観的な合理性はある」というものです。
「いじめ」も「パワハラ」も、自分と同じ集団に属するメンバーたちの生きる力を減殺させることを目的としています。これは集団が存続してゆく上ではきわめて有害なふるまいですが、集団内部的な競争においては、「いじめるもの」「ハラスメントするもの」に利益をもたらすふるまいです。集団として、長期的に見ると、自殺的なふるまいですが、個人として、短期的に見ると、自己利益を増大させる合理的な行為です。だから、そういう行為を人々は「努力」して行っているのです。別に邪心に衝き動かされているわけではなく、競争で相対的な優位に立つためには、競争相手の生きる力を殺ぐのが効果的だという経験則に従って行動しているのです。
 船底のあちこちに穴が空いて、漏水して沈みかけている船がありました。この船に乗り合わせた人たちが「水を汲み出す力」を基準にして乗員たちを格付けすることにしました。そして、水汲みの力の低いものについては、ご飯の量を減らしたり、寝かせなかったり、鞭で叩いたりして差別しました。そんなふうにいじめられた人たちは弱り切って、使い物にならなくなりました。そして、気がつくと、水を汲み出す人手が足りずに、船はぼこぼこと沈んでしまいました。おしまい。
 今の日本で起きているのはこんな感じのことです。
 国民個人の格付けに熱中しているうちに、国の力そのものが衰微してしまった。
 そのことに気がついていない。それは集団的に、長期的にものごとの適否を考えるという思考習慣が失われつつあるからです。
 それは日本だけではなく、いま全世界に広がった病態なのかも知れません。きっと韓国でも似たような現象は観察されているのではないでしょうか。
 ですから、僕からのご提案はごくシンプルなものです。
 学校教育は専一的に「子どもたちの成熟を支援する。子どもたちの生きる知恵と力を高める」ように営まれること。それだけです。
 もちろん、言ったからといってすぐに実現できるような話ではありません。
 でも、とりあえずはそこから始める。まだ答えは出さなくていいんです。とりあえずは問うだけで十分だと思います。

 僕からは以上です。
 両国の成熟した市民たちの対話を通じて、日韓両国の相互理解と連携がふたたび基礎づけられることを強く願っています。僕のこの願いに共感してくださる方が韓国の読者の中にもいてくださるとうれしいです。

2019年12月
内田樹