沈黙する知性

2019-11-01 vendredi

 夜間飛行からもうすぐ『沈黙する知性』という本が出る。平川克美くんとの「たぶん月刊話半分」の対談を文字起こしして、大量に加筆したものである。ラジオで聴いたよ、という人もまあ悪いことは言わないから買ってみてください。「悪いようにはしません」(@村上春樹)

 以前に「日本の反知性主義」という本を出したときに集中砲火的な批判を浴びたことがある。とりわけ私が「反知性主義」という語を一意的に定義していないという点を咎められた。キーワードを一意的に定義しないままで恣意的なラベル貼りをするようなふるまいこそ「反知性的」ではないか、と。
 申し訳ないけれど、私は「キーワードを一意的に定義してから話を始めよ」というタイプのクレームには原則的に取り合わないことにしている。
 というのは、私たちがそれなりに真剣になって議論しているとき、そこで行き交っているキーワードの理解は論者全員において一致していないのがふつうだからである。というか、その文字列を目にしたときに、それについて他の誰も言っていないことをつい言いたくなるというのがキーワードの生成的な機能なのである。
 だとすれば、「その語について、全員が同意する一意的定義をまず示せ」と要求するのは無理筋である。これから長い時間をかけて「全員とは言わぬまでも、そこそこの数の読者たちに同意を取り付けられそうな概念規定をこれからしようと思う」と言っている人間に「まず全員の一致を取り付けろ」というのは、それは「話を始める前に、話を終えておけ」というようなものである。
 そもそも重要な論件については、私たちはだいたい自分がこれから何を話すことになるのかわからないままに話し始め、話し終わった時に自分が何を考えていたのかを回顧的に知るのである。それを「けしからん」と言われても困る。創発的なアイディアというのは、そういうふうに生まれてくるものなのだから、仕方がない。
「反知性主義」という文字列に実に多くの人が過敏に反応して、それぞれの思いを語ってくれた。これはこのキーワードの「手柄」だったと思う。私自身もこの語に個人的な定義を与えようと試みたけれども、暫定的なものしか思いつかなかったし、私自身それに納得したわけではない。そして、本を編み終わった後に、「反知性主義」という概念は一意的な定義を与えて「けりをつける」よりも「答えの出ないオープン・クエスチョン」のままにしておく方が知的に生産的だろうと思った。
 今回この対談に編集者の井之上君が「沈黙する知性」というタイトルをつけてくれたので、「知性」とは何のことなのか、それについてもう一度「オープン・クエスチョン」を開いてみることにした。
 
 批判の言葉を私に向けて投じた人たちの多くが「お前は私たちのことを『反知性主義者』だと思っていて、ラベル貼りをしているだろう」という先取りされた被害者意識を漏出させていた。ということは、「反知性主義者」というラベルは端的に「不名誉なこと」と観念されていたということである。その点については異論の余地がないという前提から人々は話を始めていた(実は私もそうだった)。でも、ほんとうにそんな前提を採用してよろしいのか。それとは違う考え方もあるのではないか。
 そう思ったのは、三島由紀夫が自らを「反知性主義者」だと名乗っていた一文を読んだからである。
 1969年5月に東大で三島由紀夫と東大全共闘との討論の場が持たれた。今から半世紀前のことである。奇しくも最近、その時の映像資料が発掘された。来年は三島由紀夫死後半世紀に当たる。おそらくいろいろなかたちで三島由紀夫論が語られることになるのだろうが、私にもその討論の歴史的意義についてコメントを求められた。改めて討論の記録を読み返して、そこに「反知性主義」の言葉を見出して一驚を喫した。私はこんな大事なことを読み落としていたのである。
 三島は討論の冒頭でこう宣言していた。
「私は今までどうしても日本の知識人というものが、思想というものに力があって、知識というものに力があって、それだけで人間の上に君臨しているという形が嫌いで嫌いでたまらなかった。(...)これは自分に知識や思想がないせいかもしれないが、とにかく東大という学校全体に私はいつもそういうにおいを嗅ぎつけていたから、全学連の諸君がやったことも、全部は肯定しないけれども、ある日本の大正教養主義からきた知識人の自惚(うぬぼ)れというものの鼻を叩き割ったという功績は絶対に認めます。(...)私はそういう反知性主義というものが実際知性の極致からくるものであるか、あるいは一番低い知性からくるものであるか、この辺がまだよくわからない。(...)もし丸山眞男先生が自ら肌ぬぎになって反知性主義を唱えれば、これは世間を納得させるんでしょうけれども、丸山先生はいつまでたっても知性主義の立場にたっていらっしゃるので、殴られちゃった。そして反知性主義というものは一体人間の精神のどういうところから出てきて、どういう人間が反知性主義というものの本当の資格者であるのか、これが私には久しい間疑問でありました。」(三島由紀夫・東大全共闘、『美と共同体と東大闘争』、角川文庫、2000年、14-15頁)
 ここで三島は東大全共闘と自分のどちらが「反知性主義の有資格者」であるかを挑発的に問いかけていた。全共闘運動参加者たちのその後の体制内部的なキャリア形成と、三島の壮絶な死に方の両方を知っている後世の人から見ると、本当の意味で「知識人の自惚れ」の鼻を叩き割ったのはどちらであるか、答えは明らかだ。
 三島の晩年における喫緊の思想的課題は「日本の歴史と伝統に根ざし日本人の深層意識に根ざした革命理念を真に把握すること」にあった。(同書、142頁)
「要約すれば、私の考へる革新とは、徹底的な論理性を政治に対して厳しく要求すると共に、民族的心性(ゲミュート)の非論理性非合理性は文化の母胎であるから、(...)この非論理性非合理性の源泉を、天皇概念に集中することであった。かくて、国家におけるロゴスとエトスははっきり両分され、後者すなはち文化的概念としての天皇が、革新の原理になるのである」(同書、142頁)
 三島が標榜した反知性主義者とは、徹底的な論理性・合理性とおなじく徹底的な非論理性・非合理性を同時に包摂することのできる、豊かな生命力の横溢した、血と肉を具えた人間存在のありようを指していた。この「反知性主義者」の相貌は私は魅力的に思えた。
気づいた人もいると思うが、このアイディアは部分的にはニーチェの「貴族」概念に由来する。
 ニーチェの「貴族」は「おのれをおのれの力で根拠づけることのできる人間」という仮説である。「貴族」は「外界を必要とせず」、「行動を起こすために外的刺激を必要としない」。「貴族」は無思慮に、直截に、自然発生的に、彼自身の「真の内部」からこみあげる衝動に身を任せて行動する。
「騎士的・貴族的な価値判断の前提をなすものは、力強い肉体、若々しい、豊かな、泡立ち溢れるばかりの健康、並びにそれを保持するために必要な種々の条件、すなわち戦争・冒険・狩猟・舞踏・闘技、そのほか一般に強い自由な快活な活動をふくむすべてのものである。(・・・)すべての貴族道徳は勝ち誇った自己肯定から生ずる。」(ニーチェ、『道徳の系譜』、ニーチェ全集、第10巻、信夫正三訳、31頁)
 ニーチェが具体的にその実例として名を挙げたのは、「ローマの、アラビアの、ゲルマンの、日本の貴族、ホメーロスの英雄、スカンジナビアの海賊」たちである。彼らの共通性は「通ってきたすべての足跡に『蛮人』の概念を遺した」(同書、42頁)ことであった。この「蛮人」たちは「危険に向かって」「敵に向かって」「無分別に突進」し、「憤怒・愛・畏敬・感謝・復讐の熱狂的な激発」によって、おのれの同類を認知したのである。
 ニーチェ的「貴族」は間違いなくすぐれて「反知性主義」的な生き物である。
 だが、ニーチェがその修辞的力量を駆使して描いた「貴族」礼賛の言葉がその数十年後にナチスの「ゲルマン民族」礼賛プロパガンダにほとんどそのまま引用されたことを私たちは知っている。たしかに彼らは主観的には愉快な「蛮人」たちであったかも知れないが、彼らに「猿」とか「畜群」とラベルを貼られて、排除され、監禁され、殺されたものたちにとっては非道な屠殺者以外のものではなかった。
 三島はニーチェの轍を踏む気はなかった。だから、「高貴な蛮人」の「高貴」性を担保するものとして、単なる「血統についての自己申告」以上のものを求めた。そして、「天皇」という概念に出会った。
 三島の反知性主義の独創性は「天皇」を理性と非理性の交点に置いた工夫に存する。このようなアイディアは「知性の極致」を経由したのちにあえて反知性を引き受ける覚悟なしには語り得ないものである。
 三島がめざしたのは「天皇」という政治的概念の恣意的な改鋳ではないし、むろんその一意的定義などではなかった。そうではなくて、三島はこの文字列を目にし、耳にすると、人々が「それまで一度も口にしなかった言葉」を発するようになるという遂行的なはたらきに着目したのである。だから、三島はこの討論のときに、その後ひろく人口に膾炙することになった、驚愕すべき発言をなした。
「これはまじめに言うんだけれども、たとえば安田講堂で全学連の諸君がたてこもった時に、天皇という言葉を一言彼等が言えば、私は喜んで一緒にとじこもったであろうし、喜んで一緒にやったと思う。」(同書、64頁)
 東大全共闘の政治的語彙の中に「天皇」という語は含まれていなかった。それはこの討論のあった1年後に同じキャンパスの空気を吸ったものとして知っている。だが、この日の三島と全共闘の討論はひたすら天皇をめぐって展開した。だから、討論を終えて最後の一言を求められて三島は満足げにこう言ったのである。
「今、天皇ということを口にしただけで共闘すると言った。これは言霊(ことだま)というものの働きだと思うのですね。それでなければ、天皇ということを口にすることも穢(けが)らわしかったような人が、この二時間半のシンポジウムの間に、あれだけ大勢の人間がたとえ悪口にしろ、天皇なんて口から言ったはずがない。言葉は言葉を呼んで、翼をもってこの部屋を飛び廻ったんです。この言葉がどっかにどんなふうに残るか知りませんが、私がその言葉を、言霊をとにかくここに残して私は去っていきます。」(同書、119頁)
 三島は過激派学生たちに「天皇」について合意形成することを求めたのではない。「一言
言えば」よいと言ったのである。これは言葉に対する構えとして、非常に大切なことだと私は思う。「一言」言えば、「言葉は言葉を読んで、翼をもって飛び廻る」からである。
 三島は東大の学生たちに向かって、「天皇」の定義を共有することを求めたわけではないし、それに基いて政治綱領を取りまとめたり、政治組織を立ち上げることを目指したわけではさらにない。「天皇」という言葉のもたらす運動性、開放性、豊穣性に点火することを三島は何よりも重く見たのである。その言葉がトリガーになって、人々の口から「これまで一度も口にしたことのない言葉」が次々と噴き出てくるのであれば、自分はその場を共にしたいと言ったのである。新しい思念、新しい感情が生成する場を共にしたいと言ったのである。
 もし知識や思想そのものよりも、それを生気づける「力」を重く見る態度のことを三島が「反知性主義」と呼んでいるのだとしたら、私はそのような反知性主義に同意の一票を投じたいと思う。私自身「反知性主義者」を名乗ってもよい。
 名称はどうでもよい。
 知性とはかたちあるものではない。かたちをあらしめるもののことだ。形成された「もの」ではなく、形成する「力」である。
 もし現代日本が多くの人にとって「知性が沈黙している時代」であるかのように感じられるのだとしたら、それは知識や情報が足りないからではない。言葉そのものはうんざりするほど大量に行き交っている。しかし、それを生気づける「力」がない。立場を異にする人々、思いを異にする人々が、にもかかわらず「一緒にいる」ことのできる場を立ち上げることが「言葉の力」だという三島の洞察が理解されていない。
 
 この序文を書いている時、「表現の自由」ということが繰り返しメディアの論点に取り上げられた。さまざまな意見が述べられたけれど、「表現の自由とはさらなる表現の豊かさ、多様性、開放性を目指す遂行的な働きのことである」という知見を語った人は私の知る限りいなかった。
 けれども、「表現の自由」というのは、静止的、固定的な原則ではあるまい。表現の自由はつねにさらなる表現の自由を志向するものでなければならない。表現の可能性を押し広げ、多種多様な作品を生み出す生成力によって生気づけられているからこそ「表現の自由」は尊重されなければならないのである。それは死文化したルールではなく、今ここで生き生きと活動しているプロセスの名なのである。
 ヘイトスピーチをする人たちもまた「表現の自由」を口にする。
 彼らが自分の思いを語ること止める権利は私にはない。だが、彼らが「表現の自由」の名において語る権利は認めない。その看板だけは外して欲しい。「人間には邪悪になる権利、愚鈍になる権利がある」という看板を掲げてそうするのなら構わない。だが、他の人に向かって「ここから出て行け」とか「お前は黙れ」という言葉を「表現の自由」の名の下で口にすることは許されない。それは「さらなる表現の自由」を志向していないからである。一人でも多くの人に「一緒にいる」場を立ち上げることを目指していないからである。

 長く書き過ぎたので、もう終わりにする。
 この対談を読む方、特に若い方に気づいて欲しいのは、平川君と私がほぼシステマティックに相手の言明に「まず同意する」というところから自説を語り始めている点である(時々「う〜ん、そうかな・・・」という懐疑を口にすることもあるが、それはかなり例外的なケースである)。
 そうするのは「まず異議を唱える」よりも「まず同意する」ところから話を始めた方が、たいていの場合、話が面白くなるからである。
 まず同意する。自分ではそんなこと考えたことがなかった話でも、まず同意する。そうすると「同意してしまった以上、その根拠を示さないと」ということになる。そうして自分の記憶のアーカイブの中をスキャンすると、そこに「ひっかかるもの」がみつかる。それが果たして「同意したことの根拠」になるかどうかはわからないけれど、私が「同意した」せいで記憶の奥底から浮かび上がってきたものであることは間違いない。だから、とりあえずそれを平川君相手にぼそぼそと話し始める。
 すると、たしかに自分の中に淵源を持つのだが、「おお、俺はこんなことを考えていたのか・・・」と自分でもはじめて知る「自分の考え」が口を衝いて出てくるのである。
 私はそのようにして、平川君との対話を通じて「自分の中から湧き出してきたのだが、自分でもはじめて聴く言葉」と繰り返し出会ってきた。そうやって私のアイディアの「レパートリー」を豊かなものにしてくれたことについて、平川君に心から感謝したい。
 若い人たち、これから「対話の作法」を身につけることになる人たちには、とりあえずそれだけ言っておきたいと思う。
 まず同意する
 よろしいだろうか。私のこの忠告の当否について思量するときも、「まず同意する」ところから始めて欲しいと思う。そして、「そういえばこんな話を思い出した」と続けて頂きたい。
 That reminds me of a story
 知性はこの言葉とともに起動する。
 グレゴリー・ベイトソンが『精神と自然』にそう書いている。半世紀ほど前、この言葉を読んだ時の心の震えを今も覚えている。というのは、そのフレーズを読んだとたんに「そういえば・・・」という話が堰を切ったように私の中に湧き上がってきたからである。
 だから、できるだけ多くの読者が本書を読んで「こんな話」を思い出すことを祈念したいと思う。
 最後になったけれど、つねにかわらぬ忍耐を以て編集の労をとってくださった夜間飛行の井之上達矢君の忍耐と寛容に心から感謝したい。
 相方の平川君には「なんでもいいから長生きしてね」以外の言葉はない。
 
2019年9月
内田樹