海民と天皇

2019-10-24 jeudi

新天皇の即位の儀式が行われた。
私は天皇制についてはこれを支持する立場をとっている。
その理路は『街場の天皇論』において述べたので、ここでは繰り返さない。
新天皇について私は「網野史学」の系譜に連なる人だと思っている。異論のある方もいると思うけれど、私はそう思っている。
日本がそのような批評的知性を備えた天皇を「国民統合の象徴」として得たことを私は例外的幸運だと思っている。
即位への祝意を込めて、「街場の天皇論」に書き下ろした一文をブログに採録する。

海民と天皇
■はじめに

 天皇論について書き溜めたものを一冊の本にまとめることになって、その「ボーナストラック」として「海民と天皇」という書き下ろし論考を添付することにした。これまで折に触れて書いたり話したりしてきた話なので、「その話はもう何度も聞いた」と閉口する人もいると思うが、ご海容願いたい。さしたる史料的な根拠のない、妄想に類する思弁であるが、私がこの話をなかなか止められないのは、これまで誰からも効果的な反論を受けたことがないからである。どの分野の人と話しても、話をすると「なるほどね。そういうことってあるかも知れない(笑)」でにこやかに終わり、「ふざけたことを言うな」と気色ばむ人にはまだ出会ったことがない。もちろん堅気の歴史学者や宗教学者は「まともに取り合うだけ時間の無駄」だと思って静かにスルーされているのかも知れないが。
 とはいえ、一般論として申し上げるならば、思弁、必ずしも軽んずべきではない。フロイトの『快感原則の彼岸』は20世紀で最も引用されたテクストの一つだが、そこで「反復強迫」についての記述を始める時に、フロイトは「次に述べることは思弁である」と断り書きをしている。フロイトの場合は、一つのアイディアを、それがどれほど反社会的・非常識的な結論を導き出すとしても、最後まで論理的に突き詰めてみる構えのことを「思弁」と呼んだのであるが、私の場合の思弁はそれとは違う。私の思弁は一見するとまったく無関係に見えることがらの間に何らかの共通点を発見してしまうことである。そういう学術的方法を意図的に採用しているわけではなくて、気が付くと「発見してしまう」のである。
「あ、これって、あれじゃない。」
 数学者のポアンカレによると、洞察とは「長いあいだ知られてはいたが、たがいに無関係であると考えられていた他の事実のあいだに、思ってもみなかった共通点をわれわれに示してくれる」働きのことだそうである。そして、二つの事実が無関係であればあるほど、その洞察のもたらす知的果実は豊かなものになるという(アントニオ・R・ダマシオ、『デカルトの誤り』、田中三彦訳、ちくま学芸文庫、2010年、294頁)
 私の「海民と天皇」というのも、遠く離れたところから引っ張ってきた、相互にまったく無関係に見えるものを私が直感的に関連づけたものである。「これって、あれ?」的直感で関連づけられた事項がずらずらと羅列されているだけで何の体系的記述もなしていない。けれども、そうやって羅列されたリストをじっと見ていると、そこにある種のパターンの反復が見えてくる。少なくとも私には見える。以下、それについて書きたいと思う。

■海部と飼部
 私に最初の「これって、あれ?」的直感をもたらしたのは梅原猛の『海人と天皇』という本である。その中に『魏志倭人伝』についてこんなことが書かれていた。
「中国から見た倭は、たしかに文身をし、その王は女性シャーマンである-それは文明国、中国から見れば野蛮の国の象徴である。」(梅原猛、『海人と天皇 日本とは何か(上)』、朝日文庫、2011年、92頁)
 高校の日本史の教科書にでも書いてありそうな何ということもない一文だが、その「文身」のところに注がついていた。たまたまそこを見ると、そこにはこう書かれていた。少し長いがそのまま引く。
「イレズミについて、『日本書紀』履中天皇の条に次のような記述がある。『即日に黥む。此に因りて、時人、阿曇目と曰ふ』(元年四月)。『是より先に、飼部の黥、皆差えず』(五年九月)。『黥』とは眼の縁のイレズミ、『阿曇目』から海部の風習、『飼部』から職能の民の風習が想像される。『眼の縁のイレズミ』は日本独特のものといわれる。『目』のもつ魔力をより強化するための呪術的作法であろう。海部は航海術を、飼部は馬術をもって天皇に仕えた。黥の記述は『神武紀』にも見える。」(同書、110頁)
 文身や黥刑や阿曇氏のことはとりあえず脇に措いておく。私が目を見開いたのは「海部は航海術を、飼部は馬術をもって天皇に仕えた」という一文であった。そうか、そうだったのか。なるほど、これですべてが繋がったと私は感動に震えたことを覚えている。もちろん、こんな説明では皆さんには何もわからないだろう。いったい何がどう繋がったのか、その話をこれからする。

 古代から中世にかけて、ある種の特異な職能をもつ部民たちは天皇に仕えて、その保護を受けていた。馬飼部、犬飼部、鳥飼部などはその名から動物の飼育担当だったことがわかるし、錦織部、麻績部は織物の、土師部、須恵部は埴輪や土器の作成にかかわったことが知れる。同じように、海部はもともと潜水と漁を特技とし、海産物を「贄」として天皇・朝廷に貢納した職能民であった。海部について少しだけ解説しておく。「解説はいいよ」という人はここは飛ばして、次の段落に進んでもらっても構わない。

『古事記』には伊邪那岐伊邪那美二神が「国生み」によって大八島ほかの島々を生んだとある。一通り生み終えたのちに、「海神、名は大綿津見神を生みまし」とある。これが海神という名詞の初出である。
 その後、伊邪那岐が黄泉国から戻って、筑紫の日向の橘小門の阿波岐原で禊ぎ祓いしたときにも多くの神々が生まれるが、その中に、底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神の三柱の名がある。「此の三柱は、阿曇連が祖神といつく神なり」とされている。これが海民の祖神である。
 永留久恵によれば、「このワタツミ三神を伊弉諾尊の禊祓によって生じた神としたのは、海神を倭王朝の王権神話のなかに取り込んだもので、それは王権が成立した以後の作である。すなわち海神を祖とする部族が倭王朝に服属したことにより、その祖神伝承を王権神話の系譜に組み入れたもの」である。(『海童と天童』、大和書房、2001年、92-3頁)
 伊邪那岐が海神を「生んだ」という話は、倭王朝が海神を祖神とする部族を服属させて、彼らが信じる神を、倭王朝の神統のうちにローカルな神として位置付けたことの神話的な表現である。事実、「日本書紀」には、応神天皇の時に、各地の海人が抗命したのを鎮圧した功によって、阿曇大浜が「海人之宰」(海人の統率者)に任ぜられたとある。この人が阿曇連の祖である。おそらく、それまでは王権に服属していなかった海人たちを、阿曇大浜が海人の反乱を契機に実力で抑え込み、部民組織に再編して、天皇に仕えたという歴史的事件があったのであろう。
 だが、こんな古代史トリビアは忘れて頂いて構わない。私が言いたいのは、海部とは海産物を贄として上納し、また航海術という技術を以て天皇に仕えたということ、それだけである。
 航海術とは自由に移動する技術である。だから、「自由に移動する技術を以て主に仕える」というセンテンスには本質的には背理である。「主に仕える」というのは「自由を失う」ということだからである。
 海洋であれ、河川であれ、湖沼であれ、もともとは無主の場である。水は分割することも所有することもできないし、境界線を引くこともできない。海民たちはこの無主の空間を棲家とした。だから、海民を服属させた時に権力者が手に入れたのは、海民たちの「どこへでも立ち去ることができる能力」そのものだったということになる。
 ヘーゲルによれば、権力を持つ者が何より願うのは、他者が自発的に自分に服属することである。その他者が自由であればあるほど、その者が自分に服属しているという事実がもたらす全能感は深まる。
 天皇は多くの部民たちを抱え込んでいたけれど、その中にあって、「ここから自由に立ち去る能力を以て天皇に仕える」部民は海民だけであった。それゆえ海民は両義的な存在たらざるを得ない。というのは、海民は自由であり、かつ権力に服さないがゆえに権力者の支配欲望を喚起するわけだが、完全に支配された海民は自由でも独立的でもなくなり、それを彼らを支配していることは権力者にもう全能感や愉悦をもたらさないからである。だから、海民は自由でありかつ服属しているという両義的なありようを求められる。その両義性こそ日本社会における海民性の際立った特徴ではないかと私は考えている。

■源平合戦:陸と海のコスモロジー

 海部の文身の風習を紹介した注記の中で、梅原猛は海部と飼部を対比的に紹介した。私が胸を衝かれたのは、海部と二項的に対比され得る部民がいて、それが飼部だということであった。
 海部は航海術を以て天皇に仕えた。それは言い換えると、水と風の自然エネルギーを制御する技術によって天皇に仕えたということである。では、飼部は何を以て仕えたのか。「馬術を以て」と梅原は書いている。それは野生獣の自然エネルギーを制御する技術ということである。海部と飼部はいずれも野生のエネルギーを人間にとって有用な力に変換する技術によって天皇に仕えたのである。
 とすると、この職能民たちの間で、「どちらがエネルギー制御技術において卓越しているか?」という優劣をめぐる問いが前景化したということはあって不思議はない。ふと、そう考えた。そして、そう考えた時に「なるほど、源平合戦というのはこのことだったのか」とすとんと腑に落ちたのである。この話は本書中の「世阿弥の身体論」で少しだけ触れたが、それについてもう少し詳しく書く。

 平安貴族政治が終わる頃に二つの巨大な政治勢力が地方から中央へ進出した。
 一方は平家である。西国の沿海部に所領を展開し、海民たちをまとめ、清盛の父忠盛の代に伊勢に拠って、軍功を上げて、宮中に勢力を広げた。平清盛は保元平治の乱を経て、独裁的権力者となり、貴族たちの反対を押し切って福原遷都を挙行し、大輪田泊を拠点に東シナ海全域に広がる一大海洋王国を構想した。朝廷内に理解者の少なかった(たぶんほとんどいなかった)この海民的構想を実現するために清盛はきびしく異論を封じた。そのことに不満を抱いた人々が平家追討の主力を「もう一つの野生エネルギー制御者」である源氏に求めたのは選択としては合理的である。
 源氏は東国内陸に拠点を展開し、馬を牧し、騎乗と騎射の妙技によって知られた職能民である。これから日本が海洋王国となり、航海術に優れたものたちに優先的に政治的・経済的資源が分配されるという未来は源氏にとっては受け入れがたいものであった。『平家物語』における源平の戦いが図像的には「沖には平家の船、陸には源氏の騎馬武者」という対比的な図像になっているのは、それが海民と陸の民のコスモロジカルな対決だったからである。

 源氏が野生獣のエネルギー制御に長じていたことは、『平家物語』が詳しく伝えている。鵯越では馬で崖を駆け下り、屋島の戦いでは馬で浅瀬を渡り、倶利伽羅峠では数百頭の牛を放って平家を潰走させた。源氏の武者たちはもっぱら騎乗と騎射の技術によって平家を圧倒しようとした。その技術によってのみ平家と戦おうとしたという偏りに源平合戦の隠された構造が露出する。
 源平合戦の中のよく知られたエピソードに「逆櫓」がある。平家追討の緒戦に当たる海戦で梶原景時は「逆櫓」という船の舳と艫のどちらにも櫓がついた船を用いることを提案した。そのような機動性の高い軍船を使って平家を攻めることの利を景時は説いた。戦術的にはごく合理的な提案である。だが、これを義経は退けた。「もとよりにげまうけしてはなんのよかるべきぞ。まづ門出のあしさよ(はじめから逃げる準備をするのはよろしからず。縁起が悪い)」。やりたければ、お前は逆櫓でもなんでも好きなだけつければよろしい。私はふつうの櫓で行くと義経は言い放って、万座の前で景時の面目を潰した。
 なぜ義経は操船の利を拒んだのか。それは、義経がこの戦が単なる政治的ヘゲモニーの争奪戦ではなく、野生のエネルギーを制御する技術を有する職能民の間の戦いであり、それゆえ相手の技術を借りて勝ったのでは意味がないと考えていたからである。義経はコスモロジカルなスケールで源平合戦をとらえており、景時は目先の局地戦の勝利にこだわり、そもそもこれが何のための戦いであるのかを忘れていた。そして、飼部としての職能の本義を忘れたことを義経に指摘されて、義経を殺さなければ癒やされないほどの屈辱を覚えたのである。

 壇ノ浦で最終的に源氏は勝利を収めるわけだが、よく見るとわかるが、この最終的勝利をもたらしたのは、渡辺水軍、河野水軍、熊野水軍など平家に従わなかった海民たちの操船技術と、平家の海軍戦力の中心にいた阿波水軍の裏切りであった。最終的に源平合戦の帰趨を決したのは艦船数と操船技術の巧拙だったのである。この最終局面には飼部の騎乗騎射の技術はもはやかかわっていない。『平家物語』の壇ノ浦の合戦が平家の「死に方」についての記述に満たされ、源氏の「勝ち方」について叙することがきわめて少ないのはおそらくそのせいである。だから、源氏はこの勝利を心から祝う気持ちにはなれなかったのではないかと私は思う。

■陸獣と海獣

  源平合戦は海部・飼部という二つの職能民がそれぞれの自然エネルギー制御技術の優劣を競った戦いであったというのが私の第一の仮説である。これは別の言い方で言うと、平安時代末に、日本人は「陸国」を志向するのか「海国」を志向するのか、その岐路に立ったということである。その時、列島住民はその二つの道のどちらを取るべきか逡巡した。これは世界史的にはかなり例外的なことのように思われる。というのは、カール・シュミットによれば、本来「大地の民」と「海洋の民」は陸棲の動物と魚類ほどに別の生き物だからである。

「海洋民族は一度も大地に足を踏まえたことがなく、大陸については、それが彼らの純粋な海洋生活の限界であるという以外にはなにも知ろうとしなかった。(...)かれらの全生活、その観念世界および言語は海に関連していた。かれらには、大地から獲得されたわれわれの空間と時間についての観念は無縁であり、理解しえぬものであった。それは、逆にわれわれ陸の人間にとって、あの純粋な海の人間の世界がほとんど理解することのできない別世界であるのとまったく同じなのである。」(カール・シュミット、『陸と海と 世界史的一考察』、生松敬三・前野光弘訳、慈学社、2006年、11-12頁)

 シュミットはアテナイから説き起こして、ヴェネチア、オランダ、イギリスといった海洋国家がいかにして大陸国家を圧倒して、世界史的なパワーとなり得たのかを記述した。そして、19世紀のイギリスとロシアの緊張関係がしばしば「鯨と熊」の戦いで図像化されたことを引いた後に、「世界史は巨大な鯨、リヴァイアサンと、同じく強大な陸の野獣で、雄牛あるいは象として考えられたビヒモスとの間の戦いである。」(同書、18頁)と書いている。
 世界史は陸の国と海の国、陸獣ビヒモスと海獣リヴァイアサンの間の戦いの歴史であるというのがシュミットの説である。
「陸と海」であれ、「定住民と遊牧民」であれ、「アーリア人とセム人」であれ、「ブルジョワとプロレタリア」であれ、何かと何かの根本的な対立が世界史を駆動しているという話型は、少なくともヨーロッパでは、それなしでは思考することができないほどに根源的な世界理解の枠組みである。シュミットの陸と海もその変奏の一つである。
 いくつかの二項対立のうちでとりわけシュミットの「陸と海」という対立図式に私が惹かれるのは、日本の場合は、同一集団の内部にその二つの性格が拮抗しているように見えるからである。列島住民たちは、自分たちが陸の国として立つべきか海の国として立つべきか、それを確定しかねていた。だから、ある時は海洋国家を志向し、あるときは陸の国に閉じこもろうとする。日本は文字通り「海のものとも山のものともつかぬ」両棲類性の国家なのである。これが私の第二の仮説である。

■日本社会の海民性

 網野善彦は、日本人が自らの社会を「農業社会」、「稲作社会」と考え、古代以来、江戸時代までは「農業国」であったという認識を持っているのは「事実と異なる虚構であり、そこから描かれる日本社会像は大きな偏りを持っているといわなくてはならない」と断じている。(網野善彦、『海民と日本社会』、新人物往来社、1998年、8-9頁)

「最も顕著、かつ重大なのは、現実の生活がさまざまな面で海に大きく依存しているにも拘らず、日本人が自らを専ら農業を主とする『民族』と思いこみ、自らの歴史と社会の中での海の役割について、ほとんど自覚してこなかったという点にある。」(同書、9頁、強調は内田)

 なぜ日本人は自分たちは発生的には定住農民であるという誤った自己認識を抱くのか、なぜ自らの文化と社会における海民性に無自覚ないし抑圧的であるのか。この興味深い事実について、網野は次のような説明を試みている。

「中国大陸の国制―律令を受け入れて確立した古代国家、『日本国』は、六歳以上の全人民に田地を班給し、課税の基礎としたのであり、すでに百姓を稲作農民としようとする志向を強烈に持っていた。なぜこのような制度が採用されたかは、日本の社会、文化、歴史を考える上での根本的な大問題であるが、当面、この国家の支配層の基盤とした共同体のなかで、水田が祭祀とも深く結びついた公的な意味を持つ地種であったことにその理由を求める程度にとどめざるをえない。」(同書、16頁)

 海民性が権力者によって排斥された理由はよくわからない。網野はそう書いている。とりあえずそれは自然環境のせいでも、産業構造のせいでもなかった。わかっているのは、稲作祭祀を列島に持ち込んだ集団が、水田を土地のありようの基本とみなし、「百姓」(本義はさまざまな姓をもつ人々、一般庶人)を農夫に限定的に解釈するという心的傾向を持っていたということだけである。
 日本を「陸の国」とみなし、そこに住む民の本来的なありようを定住的な農夫に限定しようとするのは宗教的あるいは観念的なこだわり、一個の民族誌的偏見であり、必ずしも生活の実相を映し出していない。そう考えると、歴史的条件の変動によって、不意に民族の海民性が社会の表層に露出してくるという事態が説明できる。日本列島住民の海民性はそのつどの歴史的条件によって、間歇的に発現する。そういうことになる。

 平清盛の政体が強い海民性を持っていたことは先に述べた。源氏はそれを滅ぼして、平家の海洋王国構想はいったんは水泡に帰した。だが、執権となった北条氏は「海上交通の支配」に積極的だった(同書、32頁)。これは海上交通に積極的だったというより、海上交通の支配に積極的だったと読むべきだろう。北条氏はそれまで京都の王朝の統治下にあった西日本、九州の交通路を掌握し、北では津軽・下北から北海道に勢力を持つ安藤氏を取り込み、南方では永良部島・喜界島・徳之島を配下の千竈氏の所領として、列島全域の交易を一手に収めた。元寇という国難的事態を考えれば、北条氏の得宗独裁体制が列島全域の海民支配を優先的にめざしたのは当然のことである。
 だが、室町時代に入ると中央政府のハードパワーが落ち、有力な守護大名たちが幕府の統制を離れて自由に交易活動を展開するようになると、海民たちが自由に活動する時代が到来する。人々は国家の軛から解き放たれてアジア全域に雄飛するようになる。山田長政はシャムに渡って政府高官となった。朱印貿易で巨富をなした呂宋助左衛門の終の棲家はカンボジアだった。高山右近は家康のキリシタン国外追放令を受けてフィリピンに去り、その「殉教者」的な死はマニラ全市のクリスチャンによって悼まれた。これらの「グローバル」な活動家たちの中にあって、海洋的な構想において際立つのは豊臣秀吉である。秀吉の朝鮮出兵は意図がわからないという人が多いが、秀吉は別に朝鮮半島に用があったわけではない。半島経由で明王朝を攻め滅ぼし、後陽成天皇を中華皇帝として北京に迎え、親王のうちの誰かを日本の天皇にする計画だったのである。秀吉自身は寧波に拠点を置いて、東シナ海、南シナ海を睥睨する一大海洋帝国を構想していた。典型的に海民的な構想だが、間歇的に発現する海民的性格というものを理解しない人たちの眼には単なる狂気としか映らなかったであろう。
 秀吉の海上帝国構想が頓挫した後、江戸時代という長い「陸の国」の時代が来る。この時代の海民たちはそれでも漁労、海産物商、木材・薪炭商、廻船業者として体制内的な商業実務に携わっていた。金融、経営、雇用などにかかわる商業文化の洗練に海民たちは深く与っている。幕末に欧米列強が日本に開国を迫った時の日本が経済社会として熟成していたことに網野は海民の貢献を見ている。(同書、42頁)
「ビヒモスの時代」には「リヴァイアサン」的な活動は異端として斥けられるが、「陸の国」の国家経営が行き詰まると、再び「海の国」に希望を見出す人たちが出てくる。例えば、幕末に神戸海軍操練所を開いた勝海舟も、そこで勝に航海術を学び、亀山社中という私設海軍かつ商社というきわめて海民的な組織を創建した坂本龍馬もそうである。勝が海軍操練所・海軍塾(塾頭は龍馬)を開いたのは、清盛が日宋貿易の拠点と定めた大輪田泊の跡地である。これが偶然の一致であるはずがない。
 そして、明治以後、また揺れ戻しがあって、日本は「陸の国」となる。外形的には艦船を外洋に送って、領土を海外に広げたわけだが、これを日本社会の海民性の発露と見ることはできない。すべての変数を単一の方程式で制御しようとする中央集権的な政体は非海民的である。そして、そのことが最終的に日本に致命的な敗戦を呼び込む。網野は明治以後の非海民的な70年をむしろ日本歴史上では例外的な時期とみなしている。

「海を国境とし、列島を『島国』にしようとしたのは、国家、支配者であった。とくに帝国への志向を強く持った古代の『律令国家』百年と、敗戦までの近代国家七十年は、『日本国』千三百年の歴史の中で、きわめて特異な時期であったといわなくてはならない。
 朝鮮半島をはじめ周辺諸地域に対する侵略的・抑圧的な姿勢、そこに根を持つ『異国人』に対する差別は、この時期、顕著に表面に現われる。」(同書、326頁、強調は内田)

 私も網野のこの評価に与する。明治維新以後今日までを通覧すると、海外に領土を拡大しようとして抜き差しならない戦争を始めたこと、軍民310万人の戦死者のほとんどは42年にミッドウェーで帝国海軍の主力艦船を失った後のものであること、戦後日本の高度経済成長を支えたのが海運貿易であったこと、人々が土地の所有・売買を経済活動の中心にしたバブル崩壊で日本経済が再起不能の深傷を負ったこと。これを見ると、海洋的である時と島国的である時で国運の潮目が変わるという一般的傾向があるように見える。もちろん、私の眼に「そう見える」というだけの話であるが、私にはそう見える。

■ 無縁の場・無縁の人

 日本列島住民の海民性ということについて、ここまで書いてきた。海民と天皇の結びつきについては、まだ言葉が足りない。ここで「無縁」という補助線を引くことによって海民と天皇の間の繋がりを際立たせてみたいと思う。
 古代中世以来、列島の各地に、「無縁の場」が存在した。無縁とは文字通り「縁が切れる」ことである。ここに駆け込めば、世俗の有縁(夫婦関係、主従関係、貸借関係、さまざま賦課など)を断ち切って、人は自由になることができた。それは飢える自由、行倒れになる自由と背中合わせではあったが、それでも自由であることに変わりはない。無縁の場とされたのは寺社、山林、市庭、道路、宿、とりわけ河原であった。

「『宿河原』とよく言われるように、『宿』はしばしば河原の近辺に所在している。これは、交通とも無関係ではなく、さきにふれた淀の河原のように、そこに市の立つ場合もあったのであるが、なにより、河原が死体・髑髏の集積地であり、葬地だったからにほかならない。(...)河原は、まさしく賽の河原であり、『墓所』、葬送の地として、無縁非人と不可分の『無縁』の地であった。それ故にここは、古くは濫僧、屠者、中世に入ってからは斃牛の処置をする『河原人』『餌取』『穢多童子』、さらには『ぼろぼろ』など、『無縁』の人々の活動する舞台となったのである。」(網野善彦、『無縁・公界・楽』、平凡社、1978年、30-31頁)同書、154-155頁)

 無縁の人である聖上人たち宗教者の活躍が際立ったのもそこである。「橋を架け、道路をひらき、船津をつくり、泊を修造」するという仕事は行基・空也以来、「必ずといってよいほど、聖の勧進によって行われた。」(同書、166頁)「『無縁』の勧進上人が修造する築造物は、やはり『無縁』の場でなくてはならなかった」からである(同書、168頁)。

「無縁」者には次のよう職種の人たちが含まれる。

「海民・山民、鍛冶・番匠・鋳物師等の各種手工業者、楽人・舞人から獅子舞・猿楽・遊女・白拍子にいたる狭義の芸能民、陰陽師・医師・歌人・能書・算道などの知識人、武士・随身などの武人、博奕打・囲碁打などの勝負師、巫女・勧進聖・説経師などの宗教人」(同書、187頁)。

 彼らはそれぞれの職能を生業として広範囲を移動したわけだが、移動の自由のためには関渡津泊・山野河海・市・宿の自由通行の保証を得ていなければならないわけだが、彼らにその保証を与えていたのは天皇であった。
「こうした『無縁』の場に対する支配権は、平安・鎌倉期には、天皇の手中に掌握される形をとっていた。多くの『職人』が供御人となっていった理由はそこにある。」(同書、188頁)
 海民たちには、古代から天皇・朝廷に海水産物を贄(にえ)として貢ぐ慣習があった。彼らは「無主」の地である山野河海を生業の場とする。中世にそれらの土地は天皇が直轄する「御厨」なった。その住民たちは天皇の直轄民となり、「供御人」と呼ばれるようになった。海民と天皇はここで「無縁」という空間を媒介として結びつくのである。

 歴代天皇のうちで無縁の者たちとの繋がりが最も際立っていたのは後醍醐天皇である。後醍醐天皇は「無縁の者」たちをそのクーデタのために動員した。その結果、建武期の内裏には、天皇の直接支配を受けるかたちで、覆面をし、笠をかぶった聖俗いずれともつかぬ「異形の輩」「悪党」たちが闊歩していた。
 だが、無縁の人とのかかわりが深かったにもかかわらず、後醍醐帝と海民の結びつきについては、熊野海賊が軍事的支援をしたという以外には特筆すべき事績が見当たらない。これは後醍醐が日本歴史上例外的な「中央集権的な天皇」であったことと無関係ではないだろう。
 すでに見たように、中央政府のハードパワーが強く、海民たちがその完全な支配下にあった時期、例えば律令期や得宗独裁期や建武の天皇親政期、そして明治以後は、海民は政府に中枢的に統御されていた。活動が「官許」されていたわけであるから、海民たちはそれなりの存在感を示していた。だが、それは社会そのものの性格が海民的であることとは違う。日本社会の海民性が際立つのは、中央政府の支配力が衰え、中枢的な統制が弱まった時である。

■ 道と海民

 政治的支配の強さと海民の活動がゼロサムの関係にあるという仮説の一つの傍証として五畿七道という古代の交通制度を見ておきたい。
 律令時代に五畿七道という行政制度が整備された。七道(山陽道・山陰道・西海道・東海道・東山道・北陸道・南海道)の「道」というのは現在の北海道と同じく行政単位の名だが、古代では、それが道路に沿って展開していた。全長6300キロに及ぶこの道路は幅が6メートルから30メートルあり、「都と地方を結ぶ全国的な道路網であり、その路線計画にあたっては、直進性が強く志向されている」と近江俊秀は書いている。(『古代道路の謎』、祥伝社新書、2013年、25頁)
  今、数字を書き連ねてみたが、6300キロというのは現在の高速道路網の総延長(北海道を除く)に匹敵する。私たちの家の前の一般道路は一車線せいぜい3メートルである。30メートル幅の道路というのがどれほどの規模のものかはそこから知れるだろう。
 江戸時代に幕府が造営した五街道(東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中)は幅3・6メートルで、地形にあわせて屈曲する道路であった。今の生活道路と変わらない。
 しかし、古代に造営された七道は現在の高速道路と同じく、地形とも地域住民の生活ともかかわりなく、ただ都から地方の要衝までをまっすぐ定規で線を引いて作られたのである。そこが湿地であろうと掘削しないと通せないところであろうと地盤が弱く保全が困難な地形であろうと、駅路は直線的に造られた。 
 都から地方への軍略物資の輸送、地方から都への貢納品の輸送というのが、交通網としての実用目的だったと推察されるが、それでも理解しがたい点は残る。何よりもまず道路が直線であれば人は早く移動できるというものではないからだ。  生身の人間にとって歩きたい道というのは直線とは限らない。川沿いや木陰や谷合や峠の、歩いて気分がよく、休憩したり、飲食したり、一夜を明かすのに適した場所を縫って生活道路は形成される。土地と人間の「対話」をベースにして作れば道路は必ず屈曲する。だが、古代道路はそうではない。ということは、古代道路は机上の計画だけに基づいて設計されたということであり、あえて言えば人間的な、生理的な基準を無視して設計されたということである。
 古代道路を最も頻繁に用いたのは納税のために都に上る庶民だったが、彼らはいつ故郷を発ち、都まで一日何キロ歩くかまでが法で定められていた。納税を終えて故郷に帰る人々が帰路、餓死する事例が多発したと『続日本紀』には記載がある。(同書、97頁)七道はそれほどに非人間的な道路だったということである。それゆえ、近江は「古代駅路には『国家権力を人々に見せつけるための象徴』という意味があったことがわかるのである」(同書、27-28頁)としている。
 ここには言及されていないが、もう一つ腑に落ちないのは、七道には水上交通が含まれていないことである。大量の物資を短時間に運ぶという点でいえば、すでに十分な発達を遂げていた河川湖沼の水上交通を無視するというのは政策として不合理である。でも、七道が国権の誇示のための装置であったとするならばそれも理解できる。律令国家の支配者たちは水上交通を司っていた海民たちに向かって「お前たち抜きでも国家のロジスティックスは成り立つ」ということを告知し、かつ軍事物資や貢納品を決して海民の手に委ねないことによって、国家は海民たちを決して信用しないという強い意志を伝えたと考えれば、それも理解できる。

 古代道路のもう一つの特徴は、これほど巨大なプロジェクトの成果であるにもかかわらず、短期間で廃用されたことである。国が総力をあげて造営した交通網が100年ほど後には草生し、崩れ、人気のない無住の地になった。古代道路の遺構は今でもしばしば田畑や山林から発掘されるが、それはそれ以後それを道路として使った人間がいなかったということを意味している。
 そして、「それまでの計画的な大道が荒廃しはじめる過程」が始まると同時に、大量の物資を輸送するルートとしての海、川の交通路の役割が再び表に現われ」るのである。(網野、前掲書、135頁)
 古代道路に荒廃から、私たちは国威発揚や権力誇示といった観念的な目的のために人間という「ものさし」を無視して行われた巨大事業の末路を知ることができる。そして、そのようなタイプの政治と海民文化がゼロサムの関係にあることも知れるのである。

■ おわりに:テムズ川についての二つのエピソード

『四つの署名』でシャーロック・ホームズは犯人を追ってロンドン市内を走り、最後にテムズ河岸に至る。犯人はそこから船で逃亡したのだ。だが、一艘の汽艇をテムズ流域から探し出すのは不可能に近い。船の外見もわからず、両岸のどこの桟橋に停泊したかもわからず、「橋から下は何マイルというもの、そこらじゅう桟橋だらけで、まるで手がつけられやしない」とホームズを嘆かせる。(サー・アーサー・コナン・ドイル、『四つの署名』、延原謙訳、新潮文庫、1953年)
 それに河岸で水上交通に携わる人々は部外者が入り込むことを嫌った。河岸の出来事について何か知りたがっていると気取られると「あの手合いは牡蠣のように口をつぐんでしまう」のだ。ロンドン警察も、ホームズ子飼いのベイカー街の少年探偵たちも河岸に入り込んで情報をとることができない。結局はホームズが老海員の変装で河岸を探偵して、インサイダーのふりをすることでようやく汽艇についての情報をつかむ。
 それからスコットランドヤードと盗賊たちの汽艇の競走が始まる。ロンドン塔の下から海に向かって追跡は始まり、アイル・オブ・ドッグズの鼻先を回り、ウーリッジのあたりで追いつくけれど、盗賊たちは右岸へ接岸して逃れようとする。「そのあたりの河岸は一面に荒涼たる沼地で、人気はなく、よどんだ汚水と腐れかかった汚物のうえに、こうこうたる月が照りわたっていた。」
 グーグルマップで見ると、今もそのあたりには汚れた遊水地と埋め立て地に広がる野原以外には目立った建物もない(刑務所があるくらいだ)。ホームズの時代にはどれほど荒涼とした場所だったのだろう。ロンドンを出た犯人たちが向かうのはテムズ下流のグレイブズエンドあたりだろうとホームズは推理していたが、Gravesend とはまさに「墓場の果て」の意である。
19世紀のテムズ川は生活排水、生ごみ、糞尿、工業用排水、動物の死骸まであらゆる汚物が流れ込んだ「世界一汚い川」であった。その下流の湿地帯どこかに逃げ込んでしまえば、もう警察の捜査の及ぶところではなかったのである。
『四つの署名』の水上追跡場面がシャーロック・ホームズの数ある活劇シーンの中で屈指のものであるのは、テムズ川を波しぶきを上げて疾走する一隻の汽艇とその黄色い探照灯が届く範囲だけがかろうじて文明と理性の及ぶ圏域であり、その外側には暗闇と悪臭と汚泥と犯罪の「無縁の地」が広がっているという構図の鮮やかさのせいである。
 
 今の皇太子である徳仁親王はオックスフォードに留学したときにテムズ川の水上交通を研究テーマに選んだ。なぜそのような特殊な研究主題を選んだのかについて親王はエッセイの中でこう書かれている。
「そもそも私は、幼少の頃から交通の媒介となる『道』についてたいへん興味があった。」(徳仁親王、『テムズとともに』、学習院教養新書、1993年、149頁)
 高校時代まで皇太子の関心は近世の街道と宿駅に向けられていたが、大学史学科に籍を置いてからは、「律令制のもとで整えられた古代の駅制と幕藩体制下で整備された近世の宿駅制との間にあって、まだ十分に研究の及んでいない中世の交通制度に関心が移ってきた」のである(同書、150頁)。
 律令期の七道と近世の五街道の間の中世の交通制度について「まだ十分に研究が及んでいない」ことを奇貨として中世の道と宿駅の歴史的意義を問い直したのは網野善彦である。そして、徳仁親王が「道」の研究のために学習院史学科に進んだ1978年は、まさに網野の『無縁・公界・楽』が刊行された年であった。徳仁親王の研究関心が網野の本と無関係であったと考えることはむずかしい。
 徳仁親王が就いたオックスフォードの指導教官マサイアス教授は、最初にこれまでの研究成果として、日本の交通史を概観するレポートの提出を言い渡した。親王が古代から江戸時代までの交通制度について書き上げた概論を一読した教授から「自分の意見をもう少し書くようにと言われ、なぜ日本では馬車が発達しなかったのかを少し考えるように指摘をされ」た親王は「早くもこれから先が大変だなと思わざるをえなかった」(同書、153頁)と慨嘆した。
 なぜ日本では馬車が発達しなかったのか、これはある意味で研究動機の核心を衝いた問いであった。答えはもちろん「水上交通が発達していたから」である。ではなぜ日本列島では水上交通が発達していたのか。それは海民と天皇の間に深い結びつきがあったからである。けれども、親王は当事者としては「自分の意見」を自制せざるを得ない。天皇と海民のかかわりには触れずに、日本の水上交通の特異性をイギリスの歴史学者に説明する作業を思いやって、親王はおそらく慨嘆したのである。
 徳仁親王の研究内容について触れる紙数はないので、親王がテムズの語源について書かれた印象的な一節を引いてこのとりとめのない論考を終わらせたいと思う。

「なお、テムズ(Thames)の語源について、マリ・プリチャード、ハンフリー・カーペンター共著'A Thames Companion'では、『暗い』を意味するTemeをあげている。ケルト人は河川に対する信仰をもとに、沼沢地も多く近づきにくい未開発のこの河川を『暗い』、『神秘的』であると受け止め、この印象がその後の諸民族にも引き継がれて、『テムズ川』と呼ばれたのであろうと推定している。まことに興味深い説である。」(同書、156-157頁)