サンデー毎日「嫌韓言説について」

2019-09-24 mardi

嫌韓言説について『サンデー毎日』に寄稿した。言いたいことはだいたい前にブログの『週刊ポスト問題について』で書いた。紙数を多めにもらったので、そこでは書ききれなかったことを書き足した。だから、最初の方はほぼブログ記事のままである。二重投稿するなというご意見もあると思うが、ブログに書いたものは「原稿」ではないのだからその辺はご勘弁願いたい。

『週刊ポスト』9月13日号が「『嫌韓』ではなく『断韓』だ 厄介な隣人にサヨウナラ 韓国なんて要らない」という挑発的なタイトルの下に韓国批判記事を掲載した。新聞広告が出るとすぐに批判の声が上がった。同誌にリレーコラム連載中の作家の深沢潮さんはご両親が在日韓国人だが、執筆拒否を宣言した。続いて、韓国籍である作家の柳美里さんも「日本で暮らす韓国・朝鮮籍の子どもたち、日本国籍を有しているが朝鮮半島にルーツを持つ人たちが、この新聞広告を目にして何を感じるか、想像してみなかったのだろうか?」と批判した。私もお二人に続いて「僕は今後小学館の仕事はしないことにしました」とツイッターに投稿した。
 本音を言うと、そんなこと書いてもほとんど無意味だろうと思っていた。『週刊ポスト』編集部にしてみれば、はじめから「炎上上等」で広告を打ったはずだからである。炎上すれば、話題になって部数が伸びる。ネットでの批判も最初のうちは「広告のうちだ」と編集部では手を叩いていたことだろう。
 所詮は「蟷螂の斧」である。私ごとき三文文士が「小学館とは仕事をしない」と言っても、先方は痛くも痒くもない。もう10年以上小学館の仕事はしていないし、今もしていない。これからする予定もない。そんな物書き風情が「もう仕事をしない」と言ってみせても、小学館の売り上げには何の影響もあるまい。
 ところが、意外なことに、その後、版元の小学館から謝罪文が出された。
「多くのご意見、ご批判」を受けたことを踏まえて、一部の記事が「誤解を広めかねず、配慮に欠けて」いたことを「お詫び」し、「真摯に受け止めて参ります」とあっさり兜を脱いだのである。
 取材の電話がそれからうるさく鳴り出した。どこにもだいたい同じことを述べた。今回は多めの紙数を頂いたので、私見をもう少し詳しく語りたいと思う。

 私が『週刊ポスト』編集部にまず申し上げたいのは「あなたがたには出版人としての矜持はないのか?」ということである。
 以前『新潮45』の騒ぎの時にも同じことを書いた。あえて世間の良識に反するような「政治的に正しくない」発言をなす時には、それなりの覚悟を以て臨むべきと私は思う。人を怒らせ、傷つける可能性のある文章を書くときは、それを読んで怒り、傷ついた人たちからの憎しみや恨みは執筆したもの、出版したものが引き受けるしかない。それが物書きとしての「筋の通し方」だと思う。その覚悟がないのならはじめから「そういうこと」は書かない方がいい。
『新潮45』のときには、社長名で「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられ」という指摘がなされたが、これに対して編集長は一言の反論もしなかった。それはおかしいだろう。仮にも編集長が自分の責任で公にした文章である。ならば、自分自身のプロとしての誇りと彼が寄稿依頼した書き手たちの名誉を守るためにも、編集長は辞表を懐にして、記者会見を開き、「新潮社の偏見と認識不足と戦う」と宣言すべきだったと私は思う。でも、彼はそうしなかった。編集部の誰もそうしなかった。黙したまま休刊を受け入れた。
 済んだことを掘り起こして、傷口に塩を擦り込むようなことはしたくないが、それでもこれが出版人としての矜持を欠いた態度だったということは何度でも言っておかなければならない。それなりに現場の経験を積んできたはずの編集者たちが示したこのモラルハザードに私は今の日本のメディアの著しい劣化の徴候を見る。

 なぜ彼らはこうも簡単に謝罪するのか? 理由は簡単である。別にそれらの言葉は彼らが「職を賭してでも言いたいこと」ではなかったからである。
 たとえどれほど人を怒らせようとも、泣かせようとも、傷つけようとも、これだけは言っておかなければならない、ここで黙っていては「ことの筋目が通らない」とほんとうに思っているのなら、人は職を賭しても語る。でも、今回の記事はそういうものではなかった。炎上することを予期しておきながら、その規模が想定外に広がると、あわてて謝罪した。ということは、これらの記事は編集者たちが「職を賭しても言いたいこと」ではなかったということである。
 私が「あなたがたには出版人としての矜持はないのか?」という強い言葉を使ったのは、それゆえである。「職を賭してでも言いたいわけではないこと」を言うために、この週刊誌は多くの人を恐れさせ、不快にし、社会の分断に掉さし、隣国との外交関係を傷つけることを気にしなかった。「ぜひ言いたいというわけでもないこと」をあえて口にして、人の気持ちを踏みにじった。
 彼らがほんとうに韓国と断交することが国益にかなうと信じているなら、謝ることはない。これからもずっと「断交しろ」と言い続ければいい。日本国内にいる49万8千人の在日コリアンを「この国に自分たちの居場所はないのではないか」という不安に陥れることが日本社会をより良きものにするために必須の措置だと信じているなら、謝ることはない。これからも「日本から出ていけ」と言い続ければいい。でも、『週刊ポスト』は謝罪した。もちろん、本気の謝罪ではないことはでもわかっている。来週からもまた少し遠回しな言い方で同じような記事を書き続けるだろう。だが、それなら今回も謝るべきではない。編集長は堂々と記者会見をして、「社名に泥を塗っても、職を失っても、これだけは言っておきたいから言ったのだ」と広言すればいい。拍手喝采してくれる人もきっといただろう。だが、彼らはその支援を待つことなく、尻尾を巻いた。

「書くなら覚悟をもって書け」という私の考えに同意してくれる人は残念ながら出版界には少ないと思う。おおかたの出版人は鼻先で笑うことだろう。
「何を青臭いことを言ってるんですか。そういう記事を読みたいという読者がいるから、記事を書いてるだけですよ。ただの需要と供給の話です。出版人の矜持だ覚悟だって、内田さん、なんか出版に幻想持ってませんか?」と、たぶんそう言われるだろう。
 数年前にある週刊誌が党派的にかなり偏った政治記事を掲げたことがあった。その週刊誌からインタビューを申し込まれたので、「あんな記事を書く週刊誌とは仕事をしない」と断ったら、苦笑いされた。「あんなこと、われわれが本気で書いてると思ってるんですか? ああいうことを書くと売れるから、『心にもないこと』を書いているんです」と「大人の事情」を説明してくれた。それを聴いて、私はさらに怒りが募った。
 これらの記事は、「これは私の言いたいことです」と固有名において誓言する書き手が存在しない文章である。誰もその「文責」を引き受ける人がいない言葉が印刷され、何十万もの読者がそれを読む。そして、「そういう考え方」が広く流通する。
「フランスにおける反ユダヤ主義」は私の研究テーマの一つだったが、研究を通じて骨身にしみた教訓は「発言の責任を取る人間がどこにも存在しない妄想やデマでも、強い現実変成力を持つことができる」という歴史的事実であった。だから、私は空語や妄想を軽んじない。
 けれども、私に「裏の事情」を話してくれたフレンドリーな編集者は自分たちが流布している「空語」の現実的な影響力については特に何も考えていないようであった。適当に書き飛ばした「空語」を読んで、それを現実だと「誤解」するのは読解力の足りない読者の責任であって、書いた側には責任がないと思っていたらしい。
 厄介な話だが、このような考え方にも実は一定の理論的根拠はある。「あらゆるテクストは多様な解釈に開かれており、テクストを一意的に解釈する権利は誰にも(書き手自身にも)ない」というのはロラン・バルト以来のテクスト理論の中核的なテーゼだったからである。
 今回の『週刊ポスト』も、謝罪していたのは、「誤解を広め」かねないことについてであり、「間違ったことを書いた」ことについてではない。「テクストの最終的な意味を確定するのは読者たちであり、筆者ではない」というポストモダンの尖ったテクスト理論はここでは書き手の責任を空洞化するために功利的に活用されていたのである。学知というのは、こういうふうに劣化するものだということを私は知った。

 どれほど「ジャンク」な商品でも、それを「欲しい」という消費者がいる限り、その流通を妨害してはならないというのは市場経済の基本ルールの一つである。アメリカには「学位工場(degree mill)」というものがある。貸しビルのオフィスに電話とパソコンがあるだけの、実体のない「大学」だが、金を払えば、学位記を発行してくれる。学問的には無価値な学位だが、それでも「欲しい」という人がいる。だから商売になる。アメリカにはこれを禁じる法律がない。売り手も買い手もそれが「ジャンクな商品」だということをわきまえた上で売り買いしているのである。「大人の商売」である。だから、市場原理に従えば、空語や妄想を読みたいという人がいる限り、妄想や空語を売ることも適法だということになる。
 私はこういう「原理主義的」な考え方を好まない。たとえ理屈ではそうでも、いくらなんでも非常識だと思う。もちろん、「それは非常識だ」と私が言っても、「お前の言う『常識』とはいつ公認されて、どの地域において『常識』なんだ? どれだけの一般性があるんだ?」と切り立てられると絶句する他ない。しかし、私はここで絶句するということが「常識の手柄」だと思っている。常識に基づいて革命を起こしたり、テロをしたり、人を収容所に監禁したりすることはできない。「そんなの非常識」だからである。
 常識は強制力を持たない、弱い知見である。控えめな抑止効果はあるが、それ以上の力を持たない。けれども、そういう言葉がいまのメディアには一番足りないのではないか。

 こういう問題が起きると「表現の自由を侵すな」という原理主義的な反論を語る人がいる(今回もぞろぞろ出て来た)。だが、「ヘイトも、差別も、犯罪教唆も、言論の自由」だというようなことを言う方々は別に「表現の自由」が譲れない基本的人権だと思ってそう言っているわけではない。そのことは肝に銘じておいた方がいい。
「表現の自由」という言葉は一つだけれど、それを「手段」として功利的に使う人たちと「目的」として掲げている人たちでは、同じ言葉でも奥行きや広がりが違う。
「表現の自由」を口にする人たちが「表現の自由があらゆる領域で保障されるような社会を構築するため」にその原理を掲げるなら、私はそれを支持する。いまここにおける「限定的な表現の自由」の行使が、未来の「より包括的な表現の自由」の実現をめざすものであるなら、私はそれを支持する。
 だが、自分たちの政治的信念を宣布する上で便宜的に「表現の自由」論を口にする人については、彼らに「表現の自由」を認めることを私は留保する。もし彼らがその言論を通じて実現をめざしているのが、異物を排除し、多様性を認めず、単一のイデオロギーで統制された「純血主義」的社会であるなら、私は彼らが「表現の自由」を口にするのはそもそも「ことの筋目が通らない」と思うからである。
 もちろん私は一介の私人であるから、法律や暴力を以て彼らを黙らせることはできない。私にできるのは「この人たちの言うことに耳を貸してはいけない」とぼそぼそ言うだけである。
 いま日本のメディアには非常識な言説が瀰漫している。だが、これを止めさせる合法的な根拠はいまのところない。たとえ法律を作っても、その網の目をくぐりぬけて、非常識な言説はこれからも流布し続けるだろう。私たちにできるのは「それはいくらなんでも非常識ではないか」とか「それではことの筋目が通るまい」というような生活者の常識によって空論や妄想の暴走を抑止することだけである。そのような常識が通じる範囲を少しずつ押し広げることだけである。