『最終講義』韓国語版あとがき

2019-08-12 lundi

 みなさん、こんにちは。内田樹です。
 『最終講義』韓国語版お読み頂きまして、ありがとうございます。
 これは講演録です。講演録といっても、録音を文字起こししただけだと、話がくどすぎたり、逆に説明が足りなかったり、言いかけた固有名詞や年号や数値が思い出せなかったり、間違えたりというころがあるので、読みやすくするために少しは加筆しています。でも、だいたい話すときは「こんな感じ」です。
 「あとがき」に書いてある通り、講演のときに僕はあまり準備をしません。その場に行って、看板を見上げて「あ、今日はこんな演題なんですか」とびっくりするということもあります。それでも、「どういう演題でお話頂けますか?」という問い合わせに対して自分で選んだ演題ですから、その時点では「こういう話をしよう」という腹案があったはずです。自分の腹の中のどこかにあるものなら、探せば出て来ます。なんとなく適当に「まくら」で近況なんか話しているうちに、ふっと「ああ、あの話をしようと思っていたのか」と思い出します(最後まで思い出せないときもあります)。
 講演でパワーポイントを使う人がいますけれど、僕は一度もやったことがありません(だから、パワーポイントはもちろん僕のPCに標準装備されていますけれど、使い方知らないのです)。自分が何を話すのか、最初から最後までプログラムが出来上がっていたら、話していてつまらないじゃないですか。それなら、講演をテープにでもICレコーダーにでも吹き込んでおいて、現場のエンジニアに「この台詞が来たら画面切り替えてください」というような指示書をわたしておけばいい。本人がわざわざ来て、そこにいるのに、「録音の再演」みたいなことをしたくない。せっかくその場まで足を運ぶわけですから、講演の途中に、一つでもいいから、「これまで一度も口にしたことのないアイディア」を口にしてみたい。僕の場合は、たぶんそれが講演を引き受ける一番の動機なんだと思います。そして、実際に、講演で、「これまで自分が話したいつもの話」をちょっと退屈しながら再演しているうちに、それを「助走」として、話がいきなり「飛ぶ」ことがあります。
 つい先日もそんなことがありました。「あとがき」代わりにその話を書くことにします。 

 それは公共図書館の司書の方たちの年次総会での講演でした。図書館の役割についてご提言頂きたいということで、お引き受けしたのです。図書館の役割についてですから別にむずかしい話じゃないです。
 そのときに、九州のある市立図書館のことに触れました。その図書館は民間業者に業務委託したのですが、その業者は所蔵されていた貴重な郷土史史料を「利用者が少ない」という理由ですぐに廃棄して、関連企業の不良在庫だったゴミのような古書を購入するという許し難い挙に出ました。ところが、そうやって図書館の学術的な雰囲気を傷つけ、館内にカフェを開設するというような「俗化」戦略をとったら、なんと顧客満足度が上がって、来館者数が二倍になった。民間委託を進めていた市長は「ほらみたことか」と手柄顔をしました。図書館の社会的有用性は来館者数とか、貸出図書冊数とか、そういう数値によって考量されるべきだというのは、いかにも市場原理主義者が考えそうな話です。
 そのときに、ふっと「図書館というのはあまり人が来ない方がいいのだ」という言葉が口を衝いて出てしまいました(ほんとうにふとそう思ったのです)。そう言ってから、「ほんとうにそうだな。どうして図書館は人があまりいない方が『図書館らしい』のか?」と考え出して、それから講演の残り時間はずっとその話をすることになりました。
 図書館の閲覧室にぎっしり人が詰まっていて、玄関の外では長蛇の列が順番待ちをしている・・・というのは図書館を愛用している人たちにとっても、そして、図書館の司書さんたちにとっても、想像してみて、あまりうれしい風景ではないのじゃないかと思います。
 連日連夜人が押し掛けて、人いきれで蒸し暑い図書館が理想だ・・・という人はとりあえず図書館関係者にはいないような気がします。
 その点で、図書館はふつうの「店舗」とは異質な空間です。だから、来館者数がn倍増えたことは図書館の社会的有用性がn倍になったことであるというよう推論をして怪しまないようなシンプルマインデッドな人たちには正直言って、図書館についてあれこれ指図がましいことを言って欲しくない。
 僕がこれまで訪れた図書館・図書室の中で今も懐かしく思い出すのは、どれも「ほぼ無人」の風景です。僕以前には一人も手に取った人がいなさそうな古文書をノートを取りながら読んでいたときの薄暗く森閑としたパリの国立図書館の閲覧室、やはり古いドキュメントを長い時間読みふけっていたローザンヌの五輪博物館の西日の差し込む図書室、文献を探して何時間も過ごした都立大図書館のひんやりした閉架書庫・・・僕にとって「懐かしい図書館」というのはいずれもほぼ無人の空間でした。
 たぶん人がいない、静まり返った空間でないと書物が人間に向かってシグナルを送ってくるという不思議な出来事が起きにくいからだと思います。
 ほんとうにそうなんです。
 本が僕に向かって合図を送ってくるということがある。でも、それはしんと静まった図書館で、書架の間を遊弋しているときに限られます。というのは、そういうとき、僕は自分がどれくらい物を知らないのかという事実に圧倒されているからです。
 どこまでも続く書棚のほとんどすべての書物を僕はまだ読んだことがない。そして、たぶん自分に残された時間の間に読むこともできない。この世界に存在する書物の99.99999・・・%を僕はまだ読んだことがないし、ついに読まずに終わる。その事実の前に僕はほとんど呆然自失してしまうのです。
 でも、それは別に「がっかりする」ということではありません。僕の知らない世界が、そしてついにそれについて僕が死ぬまで知ることのない世界がそれだけ存在するということに、「世界は広い」という当たり前の事実を前にして、ある種の宗教的な感動を覚えるのです
 これらの膨大な書物のうちで、僕が生涯に手に取るものは、ほんとうに限定されたものに過ぎません。でも、僕が読むことになる本はそれだけ「ご縁のある本」だったということになる。そう思って、書棚の間を歩き回っていると、ふとある書物の題名や著者名に目が止まり、手が伸びる。そして、そういう場合には、高い確率で、そこには僕がまさに知りたかったこと、そのとき僕がぜひとも読みたいと思っていた言葉が書かれている。ほんとうに例外的に高い確率で、そうなんです。
 僕のこの確信に、人気のない図書館の中を長い時間あてもなく歩いた経験のある人の多くは同意してくれると思います。そういうものなんです。人間にはそれくらいのことは分かる能力が具わっています。でも、その能力を活性化するためには、いくつかの条件が必要です。
 一つは「無人の時間」が確保されていること。できたら一日の半分以上は閉館されていて欲しい。
 もし、365日、24時間開いている図書館が理想だという人がいたら、その人が求めているものは図書館ではありません。それとは別の情報検索ツールです。そういう人のニーズになら、ネット上のアーカイブで応えることができる。いますぐに調べたいことがある、レポートを仕上げるために明日までに読まなければならない本がある・・・というような人たちは、蔵書がすべてデジタルデータ化されているので、自宅のPCのキーボードを叩くだけで必要な情報が取り出せるということになったら二度と図書館には足を向けないでしょう。僕はそういう人たちのことを話しているのではありません。
 図書館とは、そこに入ると「敬虔な気持ちになる」場所です。世界は未知に満たされているという事実に圧倒されるための場所です。その点では、キリスト教の礼拝堂やイスラムのモスクや仏教寺院や神道の神社とよく似ています。
 そこにはときどき人々がやってきて、祈りの時間を過ごし、また去ってゆきます。特別な宗教的祭祀がない限り、一日のうちほとんどの時間、「聖なる空間」は無人です。美しく整えられた広い空間が、何にも使われずに無人のまま放置されている。そのことを「空間利用の無駄だ」と思う人がいたら、その人は宗教とは全く無縁の人です。僕はそういう人たちのことを話しているのではありません。
 仮に教会の礼拝堂を、「誰も使わない時間に無人なのはもったいない」という理由で、カラオケ教室とか、証券会社の資産運用説明会とか、スーパーの在庫商品一掃セールとかに時間貸ししたらどうなるでしょう。利用者たちが帰った後に、祈りのために礼拝堂に来た人は「おや、なんだか空気が乱れている」と感じるはずです。絶対に感じるはずです。それくらいのことが感じられないような人が自発的に礼拝堂で神に祈る気になるということはありませんから。
 この空気の乱れは、端的に「たくさんの人間がそこで祈り以外のことをしていた」ことによって生じたものです。
 そういう空気の乱れが鎮まるまでには時間がかかります。たぶんまる一日くらい、その場所を無人にしておかないと、空気の乱れは治まらない。
 何を根拠にそんなことを断定できるのかと言われても、僕の方には別に根拠なんかありません。何となく、そんな気がするというだけのことで。
 でも、超越的なもの、外部的なもの、未知のものをある場所に招来するためには、そこをそのために「空けておく」必要があるということはわかってもらえると思います。天井までぎっしり家具什器が詰まっていて、四六時中人が出入りしている礼拝堂が「祈り」に向かないということは誰にもわかります。
 空間的に「何もない」こと、時間的に「何も起きていない」ことがある場所を「調える」ために必要なんです。
 それは道場を持つとよくわかります。
 僕は自宅の一階を武道の道場にしています。朝早くに道場に降りて行って、そこで短い勤行をするのが僕の日課です。神道の祝詞と般若心経と誓いの言葉を唱えます。
 そのお勤めのとき、前日の稽古が終わってから誰も入っていない道場の扉を開けると、空気がひんやりとして、空気の粒子が細かくなっているのが感じられます。まれに二日間誰も道場に入らなかったということがあります。そういう時は扉を開く時、ちょっとどきどきします。場がいつも以上に深く調っているということが予測されるからです。
 武道の道場はお寺の本堂や教会と同じで、超越的なものを招来するための場所です。一種の宗教施設です。ですから、丁寧に調える必要がある。
 道場は畳が敷いてあるだけの「何もない空間」です。その道場の扉を開ける人間が一日いなければ、何もない空間に、何ごとも起きなかった時間がそれくらい確保されると、場が調うのです。
 ユダヤ教の過ぎ越しの祭の食事儀礼「セデル」では食卓に一つだけ席が空いています。皿があり、カトラリーが並べられ、パンもワインも供されています。それはメシアの先駆者である預言者エリアのための席です。彼が来ないことを人々は熟知しています。過去数千年エリアは食卓に来ませんでした。帰納法的に推理すれば、今年の食卓にもエリアは到来しないでしょう。けれども、それにもかかわらず人々はエリアのために人の来ない食卓を整える。それは「何もない空間・何も起きない時間」が「聖なるもの」を受け入れるために必須の条件だと彼らが知っているからです。
 僕は図書館というのも、本質的には超越的なものを招来する「聖なる場所」の一種だと思っています。だから、空間はできるだけ広々としていて、ものが置かれず、照明は明るすぎず、音は静かで、生活感のある臭気がしたりしないことが必要だと思います。低刺激環境であることが必要だと思う。
 たぶんビジネスマインデッドな人たちはそんな話を聞いたら鼻先で笑うことでしょう。必ず笑うと思う。バカじゃないの、そんな無駄なことができるか、って。彼らは、狭い空間を効率的に使って、LEDで照明して、できるだけたくさんの来館者が館内を合理的な動線で移動して、てきぱきと用事を済ませられるような施設が理想だと言うでしょう。そして、配架する書物は回転率の高いものほど好ましいので、ベストセラーを並べて、貸し出し実績の低い書物とは「市場に選好されていない」がゆえに存在理由のない書物のことなのだから、どんどんゴミとして処分した方がいい、と。
 でも、そういう人たちはたぶん書物というものの本質を何もわかっていない。人間が本を読むというのがどういう経験なのか何もわかっていない。超越についても外部性についても霊性についても他者性についても何もわかっていない。そして、そういう人たちが現代日本では「標準的なタイプ」であるどころか、政治でも経済でも文化でも、あらゆる領域で大声を張り上げて威張り散らしている。
 というような話をしました。
 100人ほどの聴衆はほとんどが図書館の職員たちでしたけれど、しんと聴き入っていました。
 自分でもまさか「図書館には人があまりいない方がいい」というような思いつきの一言で、ここまで話が広がるとは思いませんでした。
 そして、その時の話をこうやって「韓国語版のあとがき」に流用させて頂くことができました。これは僕にとっては一番最近思いついた「どこに転がるのかまだよくわからないアイディア」です。できたてのほやほやですので、これを韓国語版のための「お土産」とすることにいたしました。そんなもの貰っても、別にうれしくないよ、という方もおいででしょうけれど、まあ、そう言わずにひとつご嘉納ください。講演というのは、何が起きるか予測できないのでなかなか止められないという話でした。
 では、また別の本でお会いしましょう。その時にはこのアイディアの「続き」がどうなったかお話できるといいですね。