寺子屋ゼミのみなさん
こんにちは。内田樹です。
2018年度の寺子屋ゼミ無事に終了しました。1年間、興味深い論件を提示し、議論を深めてくださったゼミ生のみなさんにお礼申し上げます。今年もゼミの発表を聞いているうちに「むらむら」とアイディアが浮かんできて、それが次の研究主題に繋がった・・・ということが何度かありました。みなさんのご協力に心から感謝申し上げます。
2019年度の寺子屋ゼミの通年テーマは予告した通り「比較敗戦論」です。
比較敗戦論というのがどういう学的関心に発する領域であるかについては、2015年に姜尚中さんとのトークセッションで「比較敗戦論について」という割と長い講演をしました。そのときの講演録をブログに再録しておきましたので、時間のあるときに、それをご覧ください。http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html
僕たちが経験しているのはとりあえず日本の敗戦だけです。それでも、現代日本が苦しんでいる問題のほとんどすべてはこの敗戦を受け止め損なったことに起因していると僕は思っています。同じようなことは多かれ少なかれ他のすべての「敗戦を経験した集団」で起きているのではないか、というのが「比較敗戦論」のアイディアの始まりでした。
僕が「比較敗戦論について」で提示した仮説は、自国史の暗部にまっすぐ向き合うことができた国は、その歴史的経験からそれほど有害な影響を受けることがなく、そこから目をそらしたり、隠蔽したり、抑圧したりした国は結局それが原因で別のより深刻な症状を呈するようになる、というものです。
ここで敗戦というのは、必ずしも古典的な意味での国家間の戦争とその敗戦には限定されません。それに、敗戦を経験する主体は、必ずしも国民国家の国民には限定されない。
例えば、日本でも、何度も「内戦」(Civil war)がありました。そのつどの敗者がおりました。ですから、源平合戦も、南北朝の争乱も、戊辰戦争も、西南戦争でも、敗戦主体として集団は存在した。ですから、彼らがその敗北をどう受け止めたかは「比較敗戦論」の主題になり得ます。
あるいは自由民権運動、戦前のマルクス主義運動、全共闘運動も「反体制運動の連続的敗北」というかたちでカテゴライズすれば、「権力に抗う人たちの持続的敗北」もまた敗戦論の主題になり得る。
敗戦を経験したことのないアメリカの場合でも、南北戦争における敗者は主題になり得るし、戦闘や戦争には勝ったけれど、そこで見聞きしたことが深いトラウマ的経験となり、その結果集団的に「狂った」という実例はいくらもあります。
「比較敗戦論について」に書いた通り、戦勝国として国際社会に登場したフランスでも、「ほんとうは敗戦国だった」という歴史的事実を隠蔽したことが戦後社会に深いトラウマを残しました。
「敗戦」にはさまざまなかたちがあるし、敗戦を受け止める集団主体にもさまざまな種類のものがあるということです。ですから、どのようなケースを選んで頂いても結構です。みんさんが、どんな「敗戦」を選ぶことになるのか、楽しみにしてます。
それから、ゼミ発表の基本的なルールをもう一度確認します。
ゼミ発表は「学会発表」です。「レポート」ではありません。
レポートというのは先生に「自分がどれだけ勉強したのか」を伝えることが主たる目的です。ですから、とにかく「あれも読んだ、これも調べた」とただ羅列しても、それなりのスコアが期待できます。「レポート」を読むのは先生一人ですし、査定するのも先生一人です。その先生に評価されたら、それでおしまいです。点数のついたレポートが返却されたのをそのままゴミ箱に捨てても誰も困らない。
でも、「学会発表」は違います。原理的に言えば、発表を聞いてもらう相手は「自分以外の地球上のすべての人」です。学術情報というのは、本質的には「贈り物」です。
世界と人間の成り立ちについての有用な情報は全面的かつ無条件に開示されなければならないという知についての基本原則に照らせば、学術発表こそが知的活動の「本来のかたち」であって、学生たちに課されたレポートは「その派生物」に過ぎません。
知的活動の本来の目的は、自分が見出した「世界と人間の成り立ちについての有用な情報」を全面的かつ無条件に全世界の人たちに「贈る」ことです。だから、学術論文は一人でも多くの人に届き、一人でも多くの人を納得させ、一人でも多くの人によって語り継がれることを目指して書かれなければならない。「情理を尽くして語る」というのはそのことです。
というのはいささか青臭い理想論ですけれども、「レポートは査定者ひとりに向けて書かれる」「学会発表は『みんな』のために書かれる」という根本的な違いだけは忘れないで下さい。
ゼミ発表もそうです。これはゼミの仲間たちに対する「贈り物」です。「発表を聞いたことでゼミ生たちが世界と人間の成り立ちについて有用な知見をひとつ手に入れ、それがきっかけで知性が発動する」というのがみなさんが発表によってゼミの仲間たちに差し出すことのできる最良の贈り物です。どうか、それをお忘れなく。
少し具体的なことも書いておきます。
通常の学会発表は20分(長くて30分)です。読みあげると400字一枚が1分ですから、20枚から30枚ということです。時間が短いのは、それがmonograph だからです。
学術論文のことを英語ではそう言います。monoは「ひとつの」と、graphは「書かれたもの」という意味です。ひとつの主題だけを扱うからそう呼ぶのです。
「レポート」を書く時に、「勉強したことを全部書き込む」ことでよい成績を得たという「成功」体験をうっかり身に着けてしまった人は話を絞り込むことが苦手です。
でも、「自分がこの発表を通じて、どうしてもみんなに理解して欲しいことはほんとうのところ何だろう?」と自問すれば、自分にとっての単一の論点が何かはわかるはずです。そして、論点一つに焦点を合わせることができれば、みなさんの研究は一気に「深み」を獲得することになります。
情報の羅列には「広がり」だけしかありません。でも、研究には「深み」が必須です。
そのためには「穴を掘る」必要があります。垂直方向に進む必要がある。「穴を掘る」ことではじめて研究は個性的なものになる。
「どうしたら研究に深みが出るのでしょうか?」という問いがすぐに出てきそうなので、これもお答えしておきますね。
先日のゼミ打ち上げでした話ですけれど、問いに対して答えではなく、「どうしてあなたはそんなことを問うのか?」という問いで返すのがユダヤ人の風儀です。研究が深みを増すきっかけは「どうして私は『こんなこと』に興味を抱くのか?」と自分に問うことです。これは先ほどの「自分がこの発表を通じて、どうしてもみんなに理解して欲しいことはほんとうのところ何だろう?」という問いと実は同じものです。
勘違いしないでくださいね。それはその問いを主題にして論文を書くということではないんですよ。その問いに導かれて論文を書くということです。その問いをいつも頭の隅のどこかに置いておいて研究をするということです。
僕の場合についてたいへん正直に語ったものが『最終講義』に収録されています(「日本人はどうしてユダヤ人に関心をもつのか」)。「蟹は甲羅に合わせて穴を掘る」とはよく言ったもので、40年近く学術研究に携わってきて、「ああ、これがオレの甲羅なのか・・・」とため息が出た経験が書かれています。でも、これはたぶん誰でも似たようなものだと思います。みなさんも深い縦穴を掘ったときに、その穴の形を見て、はじめて自分がほんとうはどんな人間であるかがわかるのです。
なんだかとりとめのない話になってしまいましたが、寺子屋ゼミは評点なんかつけませんから、別に「レポート」になってしまっても、怒ったりしませんし、「堀りが浅い」とケチをつけたりはしませんので、安心してください。
では、みなさんのご健闘を祈っております。
(2019-03-25 14:58)