金沢の能楽美術館で加賀の前田斉泰公の著した「申楽免廃論」をめぐって、お二人の能楽師(安田登・藪克典)と「武道と能楽」について鼎談する機会があった(2018年11月3日)。その時に事前に読んでおくように「申楽免廃論」を一読して、あまりに不思議な本なので一驚を喫して、一文を草して、当日の資料とした。
それを採録しておく。
『申楽免廃論』について
合気道という武道を多田宏九段に就いて40年あまり稽古している。
7年前に大学を退職したのを機に神戸市内に専用道場を建てた。一階が道場で、その二階に暮らしている。究極の職住近接である。能楽の方は20年前に観世流シテ方の下川宜長先生の社中に加えて頂いた。その後、縁あって大倉流小鼓方の人と結婚することになった。そこで道場を建てるとき、正面の壁に可動式の「老松」を作り付け、畳を上げると三間四方の檜舞台が出来上がるようにした。というわけで、「武道と能楽」というのは、改めて主題的に思量するまでもなく、私の全生活とまでは言わずとも、「半生活」くらいには当る。
長く武道と能楽に浸って暮らしてきた経験から私が言えるのは「武道と能楽は相性がよい」ということである。別に力んで言うほどのこともなく、みなさん先刻ご案内の通りである。『申楽免廃論』にもおそらくそのことが書いてあるのだろうと思ったが、一読して驚いたのは、前田斉泰がこの著作のうちで武道についても、能楽についても、もっぱらそれらを健康法として論じていたことである。ふつう、武士はそんなことは(心に思っていても)口に出しては言わない。能楽師も言わない。もっと「おごそか」なことを言う。もちろん、斉泰も「おごそか」なことを言っていないわけではない。武術と能楽の本質的な相同性について斉泰はたしかにこう書いている。
「心術ノ極ニ至リテハ相手ドル所ノ囃子方ナリ脇キ方ナリ地方ナリ相互ノカケヒキ双方ニ先ン手後手ノ争ヒ等スベテ精神ヲコラシ心気ヲコムル所ハ恰モ武術ノ勝負アルニ異ナラズ。」
その通りだと思う。でも、こう言っては失礼だが、これは武道と能楽を併せて論じる人なら誰でも言いそうなことである。柳生宗矩の『兵法家伝書』にも宮本武蔵の『五輪書』にも書いてある。これは武道と能楽を語るときの「定型句」である。もちろん、間違っているわけではない(ものすごく正しい)。でも、斉泰はそんな「誰でも言いそうなこと」を言うためにこれほど長い文章を書いたわけではないように私には思われる。
能楽修業がいかに健康に資するかをこれほど熱く論じた人は『免廃論』が書かれた幕末にも明治以降にもたぶんいない。
ふつう能楽について語る人は、それが武人でも政治家でも、「幽玄」とか「花」とかの美的玄妙さについて何ごとかは語る。ところが、『免廃論』には、能楽のそのような美的価値については一言の言及もないのである。そういう美的なものを論述に一切混入させないように斉泰は精密な配慮を行っている。これはかなり異常なことと言わねばならない。
『申楽免廃論』は、一読しただけだと、常識的過ぎるほど常識的な本に思える。なにしろ「能楽を稽古すると脚気を防げる」という恐ろしく散文的なことが中心的な論点なのだから。しかし、私はこれを「異常な本」だと感じた。というのは、私自身は武道や能楽を健康法だと思ったことが一度もないからである。
と書いておいてすぐに前言撤回するのも心苦しいが、たしかに武道も能楽もすぐれた健康法ではある。ただそれは、この世で人間がすることはすべて「健康法」として実践できるという意味での健康法に過ぎない。歩くことも、眠ることも、飯を食うことも、仕事をすることも、遊ぶことも、この世で人間がすることはすべて健康法として実践することが可能である。けれども、ご案内の通り、なかなかそうもゆかない。というのは、ややもすると人間はそれらの営みにおいて、「度が過ぎる」か「足りない」かいずれかに崩れ、「適度に」にこれを実践することが甚だしく困難だからである。
『免廃論』は能楽が健康法としてすぐれているということを論じた本である。だから、斉泰は最初から最後まで「適度に」とはどういうことかを論じることになる。これは能楽についてというよりは、あるいは武術と能楽の関係についてというよりは、端的に適度であるとはどういうことかについての論考なのである。
斉泰によれば、大食漢は大食することが健康法で、小食のものは小食するのが健康法である。女は「針縫ヲ業トシ著坐ヲ常トシ遠足スルヿ年中幾度」だが、それが「天理」であるから病を得ることがない。商人は「終日魚菜ヲ荷ヒ市中ヲ馳走」するから健康を保っている。飲食房事正坐はそれなしでは人は生きてゆけないが、過ぎれば心身を害する。
まことに、その通りである。
あらゆる人間の営みにはその分限ということがあり、適度ということがある。その規矩を踏み外すことなく、「いい加減」のところにおのが身を持していれば、人は「天理」に従って、健康に、その分を全うすることができる。斉泰がこの本で書いているのは、それに尽くされる。
能曲舞踏もまた蹴鞠や放鷹や武術と同じく「脚部運行」の方便に他ならぬ。原理においては帰するところ一つである。しかし、能楽は、他のどれよりも、その「程度」の調整において優れている。蹴鞠は惜しいかな「左右同體」ではない。放鷹は世情視察の政務を兼ねるが「連日出テハ下ノ煩ヒ」となる。武術は病後の弱った身体では「少シ烈シキ動作アレバ早呼吸ニ障リテ為シ難シ」という欠点がある(跋文を寄せた謙山利平は「武門ノ人ハ兎角気血凝滞シテ筋骨ヲ痛ムノ病ヲ生スル人多シ」「却テ衆病ノ害トナル歟」とまで書いているが、斉泰はこういう「原理主義的」な書き方はしない)。
私は斉泰のこの知見を「大人」のものだと思う。天理に従い、規矩を踏み超えず、無理をしないで、「いい加減」のところにわが身を持すというのは言うのは簡単だが、実践することは難しい。非常に難しい。そして、実は武道の極意もまたここに存するのである。
武道ではこれを「機を見る。座を見る」と言う。柳生宗矩はこう書いている。
「一座の人の交りも、機を見る心、皆兵法也。機を見ざればあるまじき座に永く居て、故なきとがをかふゝり、人の機を見ずしてものを云ひ、口論をしいだして、身を果す事、皆機を見ると見ざるにかゝれり。座敷に諸道具をつらぬるも、其の所々のよろしきにつかふまつる事、是も其の座を見る事、兵法の心なきにあらず。」(『兵法家伝書』)
機とは時間、座とは空間のことである。自分がいるべき時に、いるべき所にいて、なすべきことをなす。約めて言えば、それが武道修業の目的である。斉泰が『免廃論』で書き連ねていることもここに帰着する。
宗矩が「機、座」と書いたことを、斉泰は「度、質」と言い換えているのだと私は思う。「度」も「質」もいずれも天賦の資質、その人がこの世において果たすべき「ミッション」を示す語である。世の中には健脚の人もいるし、足弱の者もいる、五合飯でようやく腹が満つるという人もいるし、一合飯で足りる人もいる。健脚の人にわずかな歩行しか許さず、足弱の人に長い遠足を強いれば、どちらも身体を壊す。五合飯の人間に一合飯しか与えず、一合飯の腹に五合を詰め込んだら、どちらも身体を壊す。問題は「いい加減」なのである。それを見極めなければ、人はその分を果たすことはできない。
「何ニ事モ己レ己レノ度ヲ知ルハ只自ラ覚知スルヨリ他ナシ。」
あらゆる人間的営みは健康法として実践することができる。だが、すべての人間に適用できる一般的健康法なるものはこの世には存在しない。唯一の健康法とは「己レノ度ヲ知ル」ことである。前田斉泰のこの知見は時代を超えて傾聴すべきものだと私は思う。
(2019-03-03 17:07)