道徳の本(予告編)

2019-02-27 mercredi

「道徳の本」を書いた。(『道徳って何?』かもがわ出版)
 学校図書館向けの本なので、たぶんふつうの書店には配架されないような気がする(単価が高いのは、何年もにわたって、子どもたちから乱暴に扱われることを想定して、かなり頑丈な製本にしてあるから)。子ども向けに書いたのだけれど、大人が読んでもなかなか面白い本だと思うので、機会があったら手に取って欲しいと思う。
 冒頭の一部を紹介しておく。こんな感じ。

 みなさん、こんにちは。内田樹です。
 道徳の本を書くように頼まれました。
 何を書いたらよいのかわからないままに、「うん、いいよ」と引き受けてしまいました。ふつうは何を書くか決まっているから引き受けるんでしょうけれど、このときは何を書けばいいかわからないのに、引き受けてしまいました。書きながら考えてみようと思ったからです。
 この本はそういう本です。道徳について書かなければいけないのですけれど、何を書いていいかよくわからない。だから、「道徳について何を書いていいかわからないのはなぜか?」というところから書き始めることにします。
 どうして「何を書いていいかわからない」のか。
 それは「道徳」ということばの意味が僕にはよくわかっていないからです。
 いや、ある程度はわかっているのでしょうけれど、あくまで「ある程度」です。ちゃんとわかっているわけじゃない。だから、人に向かって「そもそも道徳とは・・・」というような説教ができる気がしない。
 でも、それって変ですよね。
 だって、「道徳」って、ごくごくふつうの、誰でも日常的に使うことばだからです。そういう「誰でも日常的に使うことば」の意味がよくわからないということがあるんでしょうか?
 あるんです。
 道徳ということばを僕も使います。まるで、その意味がよくわかっているかのような顔をして使います。
 でも、こうして改めて「道徳の本を書いてほしい」と言われると、自分がいったい道徳について何を知っているのか、どのようなことを言いたいのか、よくわからない。
 ふだんふつうに使っていることばなのに、改めて「それはほんとうのところ、どういう意味なんですか?」ときかれると、とっさには答えられない。
 きっとそれは、道徳というのがそれだけ手ごわいことばだからだと思います。
 簡単に扱うことを許さないこの「手ごわいことば」について、これから考えてみることにします。
 
 これからあと僕が書くのは、あらかじめ用意していた話ではありません。書きながら考えたことです。だから、あまりまとまっていないでしょうし、読み終わったあとに「なるほど、そうか」とすっきり気持ちがかたづくこともないと思います。
 でも、それでいいんじゃないですか。
 僕くらい長く生きてきた人間が、あらためて「道徳とは何か?」を考えたときに、うまく説明できないということそのものが、とてもたいせつな情報だと思うからです。

 世の中には、よく使われているのだけれど、実はそのことばのほんとうの意味をだれもよく知らないということばがあります。「あります」どころか、見渡すと、そんなことばばかりです。
でも、意味についてみんなが合意していないと話が先に進まないということはありません。
 たとえば「神さま」というのは、それがほんとうは何を意味することばなのか、誰も知りません。だって、誰も見たことがないんですから(「私は見た」という人がときどきいますけれど、それはちょっとわきに置いて)。そもそも「神さま」というのは「人知を超えたもの、人間の感覚や知力をもってしては感知することも理解することもできないもの」なんですから、「神さまというのは、これこれこういうものだよ」と人間に説明できるはずがない。
でも、「神さま」ということばが何を意味するかよくわからないから、そういうことばは使ってはいけないということになるとむしろ困ったことになります(「『神さま』ということばって、何を意味するか、よくわからないですね」ということさえ言えなくなりますから)。
 だから、意味がよくわからないけれど、使う。意味がよくわからないけれど、教会に行ってお祈りしたり、お寺でお参りしたり、神社で柏手を打ったりすることが僕たちにはできます。そういうときには、自分がなにをしているのか、なんとなくわかっている。なんとなくわかっているなら、正確なことばの定義なんかできなくても、それでいいと思っている。僕もそれでいいと思います。なんとなくにしても、こどもの考える「神さま」と大人の考える「神さま」はたぶんずいぶん違うものです。いろいろなふしぎな経験をしたり、つらいことやたのしいことを経験したあとになると、大人たちは「神さま」について、ことばの意味はよくわからないままに、子どものころよりは深い考え方をするようになります。ひとによって「神さまはたしかにいる」と確信を深めたり、「神も仏もあるものか」とふてくされたり、さまざまですけれど、それらのことばには経験のうらづけがある。だから、深い実感がこめられる。
 意味は定義しがたいけれど、いろいろな経験を積んでくるうちに、「個人的にはこういうふうに理解することにした。私はこういう意味で使う」ということばがあります。ほかのひととそのまま共有することはできません。でも、ひとりひとりの個人が、自分自身の経験から引き出してきた「ことばの意味」はそれなりにずしりとした重さやたしかさがある。よく意味がわからないままに、使われることばというのは、たぶんそういうものではないかと僕は思います。

 道徳もそれと似ています。
 何を意味するのかよくわからないけれど、ひとりひとりなんとなく自分なりに「だいたいこういう意味かな」と思っているものがある。だから、ひとりひとりの個人的な経験によって、ことばの厚みや奥行きや手ざわりがずいぶん違ったものになる。
 
もちろん、道徳にも辞書的な定義はあります。たとえば、手元の新明解国語辞典にはこうあります。
「社会生活の秩序を保つために、一人ひとりが守るべき、行為の規準」。
 なるほど、その通りですね。
 でも、ここにも書いてありますね、「一人ひとりが」って。一人ひとりが守ることであって、「みんないっしょに」守るべきものではない。
 ということは、僕たちの一人ひとりが、自分で、自分の責任で、その「行為の規準」を定めるわけで、どこかにいる誰かが僕たちに代わって定めてくれるものじゃないということになります。誰かが僕たちに代わって定めてくれる、一般的な「行為の規準」であるなら、それは「みんなで守る」べきものであって、「一人ひとりが守る」という限定は不要です。あえて「一人ひとりが」と書いてあるのは、決めるのも自分、守るのも自分、ということです。
「こういう考え方が道徳にかなっている。こういうふるまいが道徳的である」と自分で判断して、自分で行う。他人に判断してもらうことも、他人に押し付けることも、できない。もし、誰かが皆さんに「こういうふうにふるまうのが道徳的なのだから、そうしろ」と命令してきたら、(たとえ、その命令がなかなか正しそうに思えても)「そういうことは、やめてほしい。自分で決めるから」と言ってよい。そういうことです。
 
 ですから、「道徳的であること」とはどういうことかは、先ほどあげた「神さま」の場合と同じように、一人ひとりの経験の差によって、ずいぶん違ったものになります。
 それでいい、と僕は思います。
 こう言ってよければ、人によって、薄っぺらな道徳と厚みのある道徳がある。底の薄い道徳と奥行きの深い道徳がある。手触りの冷たい道徳と手触りのやさしい道徳がある。軽い道徳とずしりと重たい道徳がある。でも、正しい道徳と間違った道徳があるわけではない。
 どれもそれぞれの仕方で「正しい道徳」なのです。ただ、そこには程度の差がある。その程度の差をもたらすのは、こう言ってよければ、一人ひとりの成熟の差です。
 成熟した人の道徳は深く、厚みがあって、手触りがやさしくて、ずしりと重い。未熟な人の道徳は、そうではない。それだけのことです。そして、できることなら、成熟した人間になって、成熟した道徳にしたがって生きてゆきたい。僕はそう思います。