能楽と武道

2019-02-24 dimanche

標記のようなタイトルで、ある文化団体のパンフレットに短文を寄せた。
昨日、大槻能楽堂で話した「海民と騎馬武者のコスモロジー」の原型はこちらである。
昨日は口頭発表だったので、あまり文献的な根拠を示すことができなかったが、こちらはテクストなので、典拠が示されている。
武道と能楽の関係についての私の基本的はここにある通りである。

武道と芸能

 合気道という武道を40年、観世流の能楽20年稽古してきた。いずれも「日暮れて道遠し」だが、この二つの技芸の連関をそれぞれの実践者という立場から語る人があまりいない。この立ち位置を奇貨として、二つの領域の「あわい」から見えるものについて一言書きとめておきたい。
 
 武道と能楽の間には深い繋がりがある。
 今でも私たちが容易に手に取るこのできる最古の武道の伝書の一つ、柳生宗矩の『兵法家伝書』は能楽の比喩がたいへんに多い。代表的な箇所を引く。

「あふ拍子はあしゝ、あはぬ拍子をよしとす。拍子にあへば、敵の太刀つかひよく成る也。拍子ちがへば、敵の太刀つかはれぬ也。敵の太刀のつかひにき様に打つべし。つくるもこすも、無拍子にうつべし。惣別のる拍子は悪しき也。」(柳生宗矩、『兵法家伝書』、岩波文庫、43頁)

「たとへば、上手のうたひはのらずしてあひをゆく程に、下手鼓はうちかぬる也。上手のうたひに下手鼓、上手の鼓に下手うたひの様に、うたひにくゝ、打ちにくき様にしかくるを、大拍子小拍子、小拍子大拍子と云ふ也。」(同書、43-44頁)

 いずれも能楽用語が剣の遣い方について用いられている。私のように能楽を稽古しているものにとっては、こういう喩はたいへんわかりやすいが、これは宗矩が能楽好きだったのでたまたま能楽の比喩を選好したということではないと思う。というのは、『兵法家伝書』そのものは家伝とはいいながら、柳生新陰流の「パブリックドメイン」として修業者たちに共用されることを意図して書かれたものだからである。個人的趣味の芸能の比喩を頻用することは家伝の継承という点からすれば有害無益なことである。しかし、宗矩はあえて、執拗なほどに、能楽の比喩を用いた。ということは、この時代の剣客たちが、能楽修業が求める技術や心得が剣術と深く通じるものであることを知っていたということである。逆から言えば、能楽が武士階級のもの以外には観ることも、演じることも禁止されていた時代において、能楽の喩えを用いて剣術の蘊奥を語ることは、暗号によって秘伝を語っていたということを意味している。能楽の比喩を用いて語る限り、武士階級以外のものにはそこで何が語られているのかわからなかったからである。

 囃子と謡の拍子がずれると、能楽は物理的に成り立たない。これは能楽を稽古する者には熟知されていることである。
 能楽を扱った珍しい小説に泉鏡花の『歌行燈』があるが、この中で天才能楽師恩地喜多八が宗山という伊勢の天狗連を訪れて、その謡を聞きながら、膝を打つ拍子だけで絶息させる印象的な場面がある。

「この膝を丁(ちょう)と叩いて、黙って二ツ三ツ拍子を取ると、この拍子が尋常(ただ)んじゃない。親なり師匠の叔父きの膝に、小児の時から、抱かれて習った相伝だ。対手(あいて)の節の隙間を切って、伸縮を緊(し)めつ、緩めつ、声の重味を刎(はね)上(あ)げて、咽喉の呼吸を突崩す。(...)いささか心得のある対手だと、トンと一つ打たれただけで、もう声が引掛って、節が不状(ぶざま)に蹴躓(けつまず)く。(...)あわれや宗山。見る内に、額にたらたらと衝(つ)と汗を流し、死声(しにごえ)を振絞ると、頤(あご)から胸へ膏(あぶら)を絞った......ものの本をまだ一枚とうたわぬ前、ピシリとそこへ高拍子を打込んだのが、下腹へ響いて、ドン底から節が抜けたものらしい。はっと火のような呼吸を吐く、トタンに真俯向まうつむけに突伏す時、長々と舌を吐いて、犬のように畳を嘗(な)めた。」

「うたひにくゝ」鼓を打てば、素人は知らず、ある程度稽古を積んだものは息ができなくなる。それほどに拍子というのはきびしいものだ。その消息をこれほど鮮やかに伝えたものは珍しい。

 能楽と武道の「出会い」について書かれた文献としては松浦静山の『甲子(かっし)夜話(やわ)』が知られている。
 徳川家光が将軍家御指南版であった柳生宗矩に、シテ方観世大夫の所作について「若(も)し彼が心に透間(すきま)ありて、こゝを斬るべき所と思はゞ申すべし」と告げたことがあった。舞台を見終えたあとに、宗矩は家光にこう述べた。

「始(はじめ)より心をつけゐ候に、少しも斬るべき際(あひ)だなく候。しかし舞の中、大臣柱の方にて隅(すみ)をとり候とき少しく透間の候。あの所にて斬り候はゞ斬りおほすべく候半と言上す。」(松浦静山、『甲子夜話6』、平凡社、1978年、174頁)

 観世大夫の方は楽屋に戻ってから、傍らの人にこう訊いた。「今日見物の中に一人、わが所作を見ゐたる男あり。何者か」。あれは柳生但馬守だと教えると、観世大夫はこう言った。

「されば社(こそ)我が所作を目も離さず観ゐられしが、舞の中に隅をとりし所にて少し気を抜きてあるとき、莞(かん)爾(じ)と咲(わら)はれつつが心得ざることよと思ひゐしに、果たして剣術の達人にぞ坐(ま)しけれと云ける。」(同書、174頁)
 
 達人の境位がどういうものかを教えてくれる稀有の逸話である。

 武道における「隙(すき)」というのは文字通り空間的・時間的な「隙」のことであり、また「心の隙」のことである。身体の隙も心の隙も、居着きによってもたらされる。身体の一部の過緊張は他のどこかの部位の過弛緩をもたらし、思念の一点への居着きも隙を作る。居着くというのは、点としての入力に点として「反応」することであり、これは自他を含む場全体を平らかに「観察」することを妨げる。観察とは時間の流れ、場の布置におけるおのれの位置を鳥瞰的に把持することである。これは武道において最も重要な能力である。どれほど凄まじい攻撃であっても、その一瞬前にその場を通り過ぎていれば、その一寸遠くに身をかわしていれば、人を害することができない。
 それゆえ、武道では「機」と「座」を重く見る。
 「機」とは「しかるべきとき」のことであり、「座」とは「しかるべき場所」のことである。その時以外にありえないような必然的な時に、その場以外にはありえない必然的な場において、果たすべきことを果す。それが兵法修業のめざすところである。宗矩は機と座についてこう書いている。

「一座の人の交(まじわ)りも、機を見る心、皆兵法也。機を見ざればあるまじき座に永く居て、故なきとがをかふゞり、人の機を見ずしてものを云ひ、口論をしいだして、身を果す事、皆機を見ると見ざるにかゝれり。座敷に諸道具をつらぬるも、其の所々のよろしきにつかふまつる事、是も其の座を見る事、兵法の心なきにあらず。」(柳生宗矩、前掲書、25頁) 

「機を見ず」して、「あるまじき座」にいることによって人はしばしば身を滅する。自分がいるべき場にいるのかを配慮するのが「機を見る」であり、必要なものを然るべきところに配置することを「座を見る」と言う。これもまた「兵法の心」なしにはありえない。
「機を見る」「座を見る」これはそのまま武道のみならず、能楽の心得に通じる。 

 能楽では「我見を去る」といい、また「離見の見」と言う。これも要は「機を見る」「座を見る」ということである。自分が何をしたいのかではなく、いつ、どこで、何をすることに必然性があるか、それを知ることである。
 実際に稽古を積むとわかってくることの一つは、三間四方の能舞台はシテに対して、いつ、どこにいて、何をなすべきかについて、かなりはっきりとした「シグナル」を発信しているということである。
 例えば、視覚的なシグナルとしては、目付柱というものがある。これが能舞台の中心であり、能舞台空間に一つの秩序を与えている。その対極に切戸口がある。陽極に対する陰極である。小さく、暗い穴が目付柱の対角線上に穿たれている。目付柱がファロスであるとすれば、切戸口は子宮口をかたちづくっている。この二つの装置が、陰陽、天地、男女、表裏、さらには生死の二項対立的な構造を象徴する。
 目付柱は陽のエネルギーを発して、舞台空間を活性化する。切戸口は陰のエネルギーの極として働く。陽のエネルギーが枯渇すると、水が低きに流れるように、舞台上のものは切戸口に吸い込まれてゆく。この陰陽の拮抗が舞台に一つの緊張をもたらし、秩序を与え、舞台をコスモロジカルに調える。そこにさらに地謡と囃子方がいて、ワキがいて、ツレがいて、作り物があり、それらがすべて能舞台空間にあるべき「座」のありようを指示する。
 だから、シテが能舞台空間へ踏み出し、それらのシグナルに身を委ねると、ある方向へ引きつけられ、押し戻され、回転させられ、またある所作をするように誘われるということが起きる。地謡も囃子もワキの謡も作り物も、それぞれがシグナルを発信する。だから三間四方の舞台のどこに、いつ立ちかでシテが感知する気圧が変わり、空気の密度が変わり、粘り気が変わり、風向きが変わる。シテはこの無数のシグナルが行き交う空間に立つ。もちろん、決められた道順を歩んで、決められた位置で、決められた動作をし、決められた詞章を謡うのだが、それは中立的で無機的な空間で、決められた振り付け通りに動くのとは違う。その時、そこにいて、その所作をする以外に選択肢がありえないという必然的な動きでなければならない。刻一刻と変容していく能舞台の空間の中で、歩むべき動線、なすべき所作、語るべき詞章の必然性を感じとること、それは武道における「機を見る」「座を見る」にそのまま通じている。

 中世の日本人が能楽を通じて習得しようとしていたのは、この能力ではないかと私は思っている。この能力が前景化するようになったのは、鎌倉時代から始まったある種の宗教的なパラダイムシフトの中においてである。
 鈴木大拙によれば、平安時代までの仏教というのは外来のもので、また都市のものであった。鎌倉仏教になって初めて、仏教は日本化する。日本に土着する。日本人に固有の宗教性を帯びるようになる。
 鎌倉期に、時代の主人公は都市に暮らす貴族から田園に暮らす武士たちに変わる。坂東武者たちは地面に近い暮らしをしている。武士たちもまた農耕に関わり、馬や牛を牧している。地面に近いその生活者の身体感覚に基づいた宗教が鎌倉仏教である。この時期に禅宗や浄土真宗や日蓮宗などが一斉に登場し、日本人の宗教的感受性は成熟の階梯を一段上がることになった。
 その時の基本的な構えが「大地を踏みしめて立つ」ことである。これは平安時代の殿上人がついに経験したことのないことである。田畑の泥濘を踏みしめ、その足裏から大地の霊が立ち上ってきて、全身を満たすのを感じる。そのときに初めて日本的霊性なるものが発動する。大拙はそう考えた。

「平安文化はどうしても大地からの文化に置き換えられねばならなかった。その大地を代表したものは、地方に地盤をもつ、直接農民と交渉していた武士である。それゆえ大宮人は、どうしても武家の門前に屈伏すべきであった。武家に武力という物理的・勢力的なものがあったがためでない。彼らの脚跟(きゃっこん)が、深く地中に食い込んでいたからである。歴史家は、これを経済力と物質力(または腕力)と言うかも知れぬ。しかし自分は、大地の霊と言う。」(鈴木大拙、『日本的霊性』、岩波文庫、49頁)

 足裏から「大地の霊」を吸い上げるという言葉は能楽の稽古における「すり足」の感覚に通じるものがあるように私には思われる。すり足の稽古を長くしていると、足裏と舞台の檜の板目の間に、ある種の親密さが生まれる。足と床板の間でやり取りがある。
 すり足という動作は発生的にはおそらく宗教的なものである。足拍子を踏むという動作は古代中国にもある。地祇に対する「挨拶」である。強く足を踏むことで地祇を呼び起こし、その神に祈りを捧げ、酒肴を捧げ、恵みに感謝し、災厄を祓う。
 足を強く踏むと神気が発動する。ならば、そっと音を立てずに進むすり足は神気をむやみに発動させないための気遣いと解釈することができる。すり足はおそらくは地面の下にうごめいている「大地の霊」を感知しつつ、それに対する感謝と畏怖の念を表現したものである。足裏で大地と交感するという所作は、巨大な力を持つものが大地の下に潜んでいるという信憑があってはじめて生まれる。「大地の霊」の切迫を感じることのできない文化からはすり足はおそらく生まれることはないだろう。

 私見によれば、武道の起源は「海部(あまべ)」と「飼部(うまかいべ)」という職能集団に発する
 海部は操船技術によって、飼部は野生獣を御する技術によってそれぞれ天皇に仕えた。いずれも、自然の巨大なエネルギーを人間的に有用なものに変換する技術に通じた職能民である。
 この二つの職能集団は久しく社会の裏面にあったが、平安貴族政治が終わる頃にいずれも巨大な政治勢力として政治の表舞台に登場してくる。海部の末裔が平家、飼部の末裔が源氏である。
 平家は西国の沿海部に知行地を展開し、海民たちをまとめ、清盛の父忠盛の代に伊勢を拠点に宮中に勢力を広げた。源氏は東国内陸に拠点を持ち、騎乗と騎射の妙技によって覇を唱えた。『平家物語』における源平の戦いは図像的には「沖には平家の船、陸には源氏の騎馬武者」という対比的な構造になっているのはそのせいである。
 源氏の武勲はどれも野生獣を制御する技術の成果である。鵯越(ひよどりごえ)では崖を駆け下り、屋島の戦いでは馬で浅瀬を渡り、倶利伽羅(くりから)峠では牛を放つ。源氏が騎馬での戦闘能力を限界まで試みるのは職能民としての矜持ゆえである。
 「逆櫓」というエピソードがある。義経が、梶原景時の進言した船を巧妙に操って平家を倒すという作戦を退ける話である。それがきっかけとなって景時の讒言により、義経は頼朝の不興を買い、逐われる身となる歴史的転機となる論争なのだが、よく考えると、意味がわからない。戦術的には梶原の提案の方が正しいからである。だが、義経はあくまで「騎馬戦で勝つ」という形式にこだわって、操船の利を拒む。これは義経が「飼部」の職能に忠実であることの方を局地戦での勝利より重く見たということだと私は解釈する。
 源平合戦の真の賭け金は単なる政治的ヘゲモニーではない。野生のエネルギーを制御する二つの技術のいずれが日本列島において覇を制するのかを決する、エネルギー戦略の生死を賭した戦いだったのである。だから、相手の技術を借りて勝つのでは、意味がない。義経はそう考えた。「逆櫓」を退けたのは、そのゆえである。
『屋島』における「那須与一の扇の的」も「弓流し」も、義経が平家を追い詰める戦闘のクライマックスはどれも海上においてなお騎射の技術に固執する職能者のこだわりを叙している。
 「弓流し」も「変な話」である。屋島のいくさで義経がその弓を取り落とす。引き潮に乗って弓は沖に流される。義経はそれを取り戻そうと、敵船の近くまで行き、あやうく熊手で絡めとられ一命を失いそうになる。なぜ弓ひとつごときで総大将がそのような危険を冒したのかと部下につよく難じられた義経は「弓を惜しむにあらず」と言う。では、何を惜しんだのか。
「敵に取られ義経は小兵なりと言われんは無念の次第なるべし。よしそれ故に討たれんハ。力なし義経が運乃極めと思ふべし。さらずハ敵に渡さじとて波に引かるる弓取乃。名は末代にあらずやと」
 「身体た小さいと言われたくない」というようなくだらない理由で死にかけるような武将がいるはずがないし、それを聞いて「皆感涙を流しけり」というようなおべっか使いの部下たちばかりでまともないくさができるはずがない。「小兵」云々は源平合戦の本質をあえて表に出すことを憚った世阿弥の「創作」である。
 海に落とした弓を船に拾われるというのは「騎馬武者の技術が海民の技術に屈した」ことを象徴している。それは万死に値すると義経は考えたのである。問題は戦場でのリスクの多寡の問題ではない。いくさの本当の意味にかかわるのだ。「弓流し」は「逆櫓」とまったく同一の説話なのである。だからこそ、源氏の武者たちはそれを聞いて、自分たちの戦いの文明史的ミッションを想起して、「感涙」に咽んだのである。
 
 職能民と職能民のそれぞれの自然制御技術の優劣を競った象徴的な戦闘であるというふうに考えると、「飼部」が「海部」に勝利して、以後幕末まで武家政治体制を維持し続けたという文明史的な流れが見えてくる。そして、源平合戦以後、武道が「弓馬の道」と称されるに至ったことの意味も知れるのである。

 一方、能楽は系譜的には「海民」の芸能に連なっている。能楽が好んで源平合戦を描くこと、能楽には農夫や牧人が出てくることがほとんどなく、諸国一見の僧、山伏、芸能者、漁師、塩汲みといった「遊行系・海民系」の職業が好んで扱われること、海洋の景色や龍神の神威を謡ったものが多いこと(『高砂』、『羽衣』、『弱法師』、『竹生島』、『岩船』など)も能楽が「敗者」である海民文化に深く涵養されたものであることの傍証となるであろう。

 以上、武道と能楽のかかわりについて断片的な知見を記しておいた。いずれも中世における政治的・経済的なパラダイムの変換の中で生まれたものである。一方は「海部」系の文化、他方は「飼部」系の文化という点では同根ながら対比的であること、それが私のこの二つの技芸を稽古してきて得たさしあたりの「気づき」である。いずれも文献的な根拠にはまだ乏しく、これからさらに「肉付け」してゆくことが必要であるが、方向としては大きく外れてはいないと思っている。
(2017年7月)