中国で出ている『知日』という日本についての専門誌がある。なかなかよく売れているらしい。
次の号が「明治維新特集」ということで、私のところに次のようなアンケートが来た。
日本近代史の専門家に聞けばいいと思うような質問だけれど、せっかくなので知る限りのことをお答えした。
素人考えなので、専門家から見て「それはあきらかに間違い」という点があれば、ご叱正を請う。
1.黒船来航は明治維新の始まりと見られています。どうしてアメリカは黒船4隻だけで、鎖国200年以上の日本の国門を簡単に開けたのか?中国人は国門を開くアヘン戦争に対する屈辱と違って、日本人は黒船来航に対する感情は積極的な方が多いと感じられます。それについての記念活動も多い、それはなぜでしょうか?
最初にお断りしておきますけれど、私は近代史の専門家ではありませんし、明治維新に特に詳しいわけでもありません。私がこれから答えるのは、あくまで非専門家の個人的な見解であって、学会の常識でも、日本人の多数の意見でもないことをご承知おきください。
アメリカの黒船四隻「だけ」と質問にはありますけれど、二隻の蒸気船だけでペリー提督たちは彼我の軍事力と科学技術の圧倒的な差を見せつけました。このとき沿岸防衛に召集された武士たちの中には戦国時代の甲冑や槍で武装したものもいたくらいですから。アヘン戦争の情報はすでに日本に伝わっていましたので、アメリカの開国要求を丸のみする以外に選択肢はないということについては、幕府内では覚悟はできていたと思います。
清朝の中国と徳川幕府の日本、いずれも公式には海禁、鎖国政策を採用して、一般の人々とが海外の情報に接触することは禁じられていましたけれど、実際にはかなり大量に海外の書物が流入しておりました。ですから、この時点で日本の近代化が致命的に遅れていることについてはすでに指導層と知識層には知られていたはずです。
幕閣たちに決断力がなく、無能であることについては幕府内外においてすでに不満が募っておりましたから、ここで将軍や幕閣を押したてて、国民一丸となってアメリカと一戦交えるというような気分は醸成されようがなかったのではないかと思います。
また当時の日本は原則として自給自足している300の国(藩)に分かれており、藩を超えた政治単位としての「国民国家日本」というような概念はまだリアリティーを持っておりませんでした。
日本人が黒船来航をそれほど屈辱的に感じなかったように見えるのは、外交が徳川幕府の専管事項であって、それ以外の300諸侯やその家臣団には、さしあたり「自分の問題」だとは思われていなかったということがあったからだと思います。
むしろ、黒船来航で彼我の科学技術の差が可視化されたことを好機として、いくつかの藩では近代化をめざす派閥が勢力を増し、技術開発や兵制の刷新に向かいました。彼らは黒船来航を日本の近代化の契機として肯定的に捉えたはずです。
けれども、黒船来航を肯定的にとらえる最大の理由は現代日本人の対米意識だと思います。
日本は「黒船」によって文明開化に向かい、「GHQの日本占領」によって民主化に向かった。アメリカによる二度の「外圧」が日本にもたらしたものは総じて「善きもの」であったというのは、対米従属体制で生きることになった戦後日本人にとっては受け入れざるを得ない「総括」でした。
隣国中国から見て、「どうして砲艦外交を肯定的に評価するのか?」と疑問に思われるのは当然ですけれど、それは現代日本人の「対米意識」が歴史の評価に投影されているからだというのが私の解釈です。
2.日米和親条約は近代日本の初めての不平等条約と呼ばれています。「片務的最恵国待遇」の内容に「関税自主権」と「領事裁判権」のないのは日本後の発展を妨げていました。イギリス・フランス・オランダ・ロシアともアメリカと同じ日本と不平等条約を結びました。日本はどのような努力をして、「関税自主権」と「領事裁判権」を取り戻しましたか?
不平等条約が締結されたのは、開国時点では、日本が貿易についての国際ルールを理解しておらず、西欧的な意味での法による統治が行われていなかったからです。日本の後進性を徳川幕府自身が認めていたのです。
不平等条約はそれ以後、貿易や外交で日本にさまざまな不利益をもたらしたわけですけれど、具体的な不利益以上に「日本は後進国である」ということを日本人が自らが認めたことがトラウマ的経験となりました。
ですから、日本の場合、不平等条約改定の運動は「欧米列強に押し付けられたアンフェアな条約を平等な条約に改定したい」という公平性の要求というよりはむしろ「欧米列強から先進国として認定されたい」という承認願望に駆動されたものでした。
明治政府は中国や朝鮮を相手には、自分たちが欧米に押し付けられたのと同じ不平等条約を押し付けました(日朝修好条規、下関条約)。不平等条約そのものが「アンフェア」であると考えていたら、そのような条約を中国や朝鮮に押し付けるわけがありません。中国朝鮮を相手にした締結した不平等条約は、それによって日本の国益を増大するという実利以上に、欧米列強に対して「日本は後進国に対しては不平等条約を強要することができるような近代的帝国主義国家になった」というみずからの「近代性」をアピールするためのものだったと思います。
それゆえ、明治政府による不平等条約の改定のための努力は、相手国を説得するとか、国際世論に訴えるとかいうことではなく、シンプルに「日本を近代的な帝国主義国家にする」という方向に集中されることになりました。
日本が不平等条約の改定に成功したのは1902年に日英同盟を締結したことが大きく与っています。同盟を結んだということは、英国から「イーブンパートナーとして承認された」ということですから、これは日本の悲願が達成されたということです。
その日英同盟締結の直接のきっかけは義和団事件(1900年)でした。義和団蜂起に際して、欧米諸国の外交官たちや中国人キリスト教徒が北京に籠城しました。英米独露など八ヵ国軍の事実上の指揮官は英国公使クロード・マクドナルドでしたが、柴五郎中佐が率いた陸戦隊が兵の練度、士気、統制においては八ヵ国軍の中で際立っていました。マクドナルドはこれを高く評価し、柴はこの功績でヴィクトリア女王より勲章を受けました。この事件がきっかけとなって英国はそれまでの「名誉ある孤立」戦略を変更して、東アジアにおける盟邦として日本を選択することになったのです。
論理的な説得や忍耐強い外交努力よりも要するに「戦争に強いかどうか」で国際社会はその国を認知する。日本人は義和団事件と日英同盟の歴史的経験からそのような教訓を引き出しました。この「成功体験」によって、日本人は外交に成功しようと思ったら、まず軍事的成功を、と考えるようになりました。国際社会において重きをなしたいと思ったら、指南力のあるメッセージを発信し、あるいは広々としたヴィジョンを提示することより、端的に軍事的に強いことが最優先するのだと日本人は信じた。この信憑はその後の日本外交に暗い影を落とすことになりました。
3.幕末から明治まで、日本の外交面に大きな変化がありますか?外国に対する態度、外交戦略など。中国、朝鮮、東南アジアとロシアと欧米列強を分けてみますか?
上に述べた通り、幕末の日本には「外交戦略」と呼べるようなものはありません。それらしきものができるのは明治以降であり、それは「近代的帝国主義化」という一言に尽くされます。具体的には富国強兵、殖産興業です。欧米列強に伍すことのできる「近代的帝国主義国家」建設にすべての国民的リソースを集中する。この国策に反対するものは国内にはほとんどいませんでした。
ただし、近代化には法治主義の徹底、学制の整備、海外の学術や芸術の受け入れといった要素も含まれています。優先順位は軍事・科学技術にははるかに遅れますが、それでも明治の日本人がわずかな期間のうちにあらゆる領域で近代国家らしき外見を整えることに成功したことは事実です。
欧米列強に対する外交戦略と、アジア諸国に対する外交戦略は違うかというご質問ですけれど、本質的には違いはないと思います。違うとしたら、欧米列強に対しては「日本はあなたがたと同じ近代的な帝国主義国家である」という「同質性」をアピールし、アジア諸国に対しては「日本はあなたがたとは違う近代的な帝国主義国家である」という「異質性」をアピールしたということでしょう。福沢諭吉の『脱亜論』はその好個の例です。
4.安政の大獄に対する意見をお聞かせください。なぜ数多くの維新志士を育てた吉田松陰を殺されましたか?
安政の大獄は幕末の徳川幕府の機能不全を象徴する事件だと思います。
国難的事態に遭遇した時には、「どのようにして国論を統一するか」が緊急の課題ですけれど、井伊直弼はそれを「反対派を殲滅する」恐怖政治として実行しようとしました。「衆知を集めて議論して、国論の統一をはかる」という選択肢も理論的にはありえたはずですが、それができなかった。幕府内部で、問題点を明らかにし、基本的な情報を共有し、取りうるさまざまな選択肢を吟味し、その中で最も利益が多く、損害の少なそうな解を選び取るという合理的な政策決定プロセスが機能していなかったからです。
もちろん、それが幕府の後進性ということの実相であるわけですけれども、「急いでことを決めない」ということが久しく日本社会では合理的な意思決定プロセスとみなされていたということでもあります。
たしかに、議論をだらだら引き伸ばして、何も決めないでいるうちに、想定外のことが起きて、「こうなったら、もうこれしかない」という解に全会一致で雪崩れ込んでゆく・・・というのが、一番「角の立たない」合意形成ではあるわけです。それでうまくゆくこともあります。けれども、この意思決定プロセスの弱点は限られた時間内には意思決定をすることができないということです。手をつかねて合意形成の機が熟すのを待つというやり方は黒船来航とか、外交条約締結とかいう「待ったなし」という局面には対応できない。現に、そういう局面に遭遇した時も、幕閣たちはその伝統的な「だらだら引き延ばす」戦術を採用したのですが、欧米にはその手が通じなかった。
「だらだらしているうちに、落ち着くところに落ち着く」という意思決定ができない場合は「合意形成を待たず、誰かに全権を一任して、失敗した場合には責任を取らせる」というのが日本における意思決定の「プランB」です。
安政の大獄は、この局面を打開するうまい方法を誰も思いつかなかったので、井伊直弼という一人の幕臣に独裁的な権限を丸投げして、失敗した場合(たぶん失敗するだろうとみんな予測していたと思います)には腹を切って責任を取らせるという「プランB」を採用したのだと思います。
井伊直弼が吉田松陰ほかの有為の人士を組織的に殺害したのは、別に彼らの個別的な思想信条を問題にしたというよりは、単に独裁制の強権性・非寛容性をアピールするためだったと思います。井伊直弼自身は吉田松陰がどんな人物なのかよく知らなかったのではないでしょうか。
5.坂本龍馬という人物の意見をお聞かせください。彼は維新活動の中どのような貢献をしましたか?
坂本龍馬は幕末の人士のうちで最も人気のある人です。
作家司馬遼太郎が『竜馬がゆく』(1962~66年)という小説を通じて、きわめて魅力的な人物を造型したことがその原因の一つです。名前の表記から分かるように、司馬が造型した「坂本竜馬」は現実の「坂本龍馬」とは別人ですが、読者はそうは解しませんでした。
坂崎紫瀾の『汗血千里の駒 坂本龍馬君之伝』を除くと、龍馬についての情報はそれほど多くはありません。それでも、薩長同盟を成し遂げたこと、海援隊という日本最初の商社=海軍を創立したことは歴史的事実ですし、勝海舟の『氷川清話』や幸徳秋水の『兆民先生』などから断片的に知れる限りでも、闊達で海洋的な気風の人物だったと思われます。
龍馬の献策とされる「船中八策」には、上下院による議会政治・有能な人材の登用・不平等条約の改定・憲法の制定・常備軍の設置など、当時としては画期的に近代的・共和的な政体構想が描かれておりました。ですから、龍馬が生き延びて、明治政府に影響力を持ちうる立場にいた場合には、それから後の日本の近代化はずいぶん変わったもの(もっとずっと民主的で開放的なシステム)になっただろうと想像する日本人は私の他にもたくさんいるはずです。
6.歴史から見れば、新選組は幕府を保護する旧勢力で、非進歩な逆流ですが、なぜ彼らは日本人に愛させていますか?文化的な原因はありますか?
新選組の人気もフィクションによるところが多いと思います。
私が子どもの頃は大佛次郎の『鞍馬天狗』シリーズが次々と映画化されて大人気でしたが、主人公は勤王の志士鞍馬天狗(演じたのは嵐寛寿郎)で、新選組は敵役でしたので、決して「日本人に愛されている」ということはありませんでした。
新選組への好悪の評価が逆転したのは、これもフィクションの力が大きいと思います。子母澤寛の『新選組物語』(1955年)や司馬遼太郎の『燃えよ剣』(1962~64年)は新選組の人々を単なる記号的な悪役ではなく、ひとりひとりの相貌をリアルに描き出しました。その後、これらを原作にして無数の映画やテレビドラマが制作されました。
新選組人気を決定づけたのは1970年に放映され、土方歳三を栗塚旭が、沖田総司を島田順司が演じたテレビドラマ『燃えよ剣』でした。役を演じた俳優と歴史上の人物の境があいまいになったという点では、このドラマが画期的だったと思います。
坂本龍馬の場合も、あるいは西郷隆盛や大久保利通や木戸孝允のような維新の元勲たちにしても、それぞれの歴史的評価は、学術的に確定された歴史的な史料以上に、「彼らについてどのような物語が創作されたか」に依存します。後世にすぐれた物語の書き手を得た歴史的人物は末長く記憶される。これは世界どこでも、もちろん中国でも変わらないと思います。
子母澤寛の祖父はもと御家人で、箱館戦争で旧新選組隊士たちと共に官軍と戦った人でした。子母澤は子どもの頃にその祖父から新選組の人々の思い出話を聞かされて育ち、明治維新以来「朝敵」とされ、憎まれてきた新選組の「名誉回復」をめざして作家活動を始めた人ですから、その個人的な「復讐」はみごとに果たされたわけです。
7.岩倉使節団の各国歴訪は明治維新の政策提出にどんな影響を与えましたか?
岩倉使節団の歴史的意義は私にはわかりませんが、そのメンバー表を見ると驚くことが二つあります。
一つは、明治維新という政治革命が終わった直後(わずか4年後)に、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らの政府中枢部がごっそり抜けて2年間の外遊に出かけたことです。よくこんな大胆な決断が下せたと思います。留守中に国内で何か起きても、通信手段もないし、戻るための交通手段だって整っていないわけですから。
「政府中枢部が2年間留守をしても政体は安定する」という保証を誰がどういうかたちで行ったのか、むしろそれに興味があります。現に、彼らが戻った翌年(1874年)に佐賀の乱、3年後(1876年)には萩の乱、神風連の乱が起き、4年後(1877年)には西南戦争が勃発しているわけです。あるいは、「岩倉使節団が戻って来て、これから先の日本の統治システムについて答申を行うまで、国内の対立はペンディング」という暗黙の合意が(のちに反乱を企てる不平士族を含めて)国内的にはなされていたのでしょうか。私の方が専門家に質問したいくらいです。
もう一つの驚きは、帯同した留学生・随員の名簿のうちに、中江兆民、金子堅太郎、團琢磨、牧野伸顕、津田梅子、山川捨松、新島襄、牧野伸顕ら、その後の日本のさまざまな分野でリーダーとなる若者たちが含まれていたことです。新島襄が28歳、中江兆民が24歳、團琢磨が13歳、津田梅子に至っては6歳。短期間に人選を行って、まだ海のものとも山のものともつかぬ人たちの中からこれだけ優秀な人材を集め得たということは、明治の人々に「人を見る目があった」という以外に説明のしようがありません。いや、たいしたものです。
8.明治維新には暗の一面はありますか?封建主義の名残、先進ではない文化要素(男尊女卑など)、軍国主義の道への伏線など
明治維新の評価についてはここまでに述べた通りです。プラスの面もあるし、マイナスの面もある。それはあらゆる政治的事件の場合と同じです。ただ、さきほどから書いている通り、歴史的事件の評価は、最終的には、それについて語られた無数の物語の集積によって決まると私は思っています。豊かな物語、深みのある物語を生み出した歴史的事件は長く記憶され、人々はそこから歴史的教訓を引き出し、その事件を基準にして現在の出来事の適否を判断したりする。それは「生きた歴史的事件」となります。逆に、どれほどその時点では大きな社会的変動をもたらした事件でも、それについて語り継ぐ人がおらず、そこにかかわった人々の名をあるいは懐かしげに、あるいは敬意をこめて口にするということがなく、その出来事を「ことのよしあし」の判断基準にするという習慣が定着しなかったとしたら、それは「死んだ歴史的事件」だということになる。
明治維新についての物語はいまも語り続けられています。それはそれが「ほんとうはどういう出来事だったのか」について、まだ日本人の中でも、世界史の中でも、意味が確定していないということもあります(だからこそ、『知日』がこういう特集を組んだりもするのでしょう)。でも、それだけでなく、明治維新が日本人にとっては「まだ生きている政治的事件」だからだと私は思います。
(2018-08-11 08:25)