家庭科教育について

2018-07-07 samedi

日本家庭科教育学会というところから講演を頼まれた。
家庭科教育というのはきっと今日の学校教育のなかでは「冷や飯を食わされている」のだろうなと想像した(現実はどうなのかよく知らないけれど、「スーパーグローバル」とかいうような看板を欲しがる中高一貫校で家庭科の先生の発言が優先的に傾聴されるということは考えにくい)。
でも、家庭科というのは、とても大切な教科だと私は思う。
だから、二つ返事で引き受けた。
学会では「皆さんのなされている教育は子どもたちの『生きる知恵と力』を高めるためには必須のものです」とエールを送るつもりでいた。
でも、数十年ぶりの大雨で西日本の鉄道ダイヤが大幅に乱れ、JRからも「鉄道旅行を見合わせるように」と勧告があったので、今回は学会出席を断念した。
欠席の知らせをしたら、座長の先生から「メッセージを代読するから、何か書いて送って欲しい」と頼まれたので、話すつもりだったことのマクラのあたりを3000字ほど書いて送った。
せっかくなので、事前に送った「抄録」と代読してもらった「メッセージ」をここに録しておく。
まず抄録。

僕が家庭科がだいじだと思ったわけ

子どもが6歳のときから18歳の時まで父子家庭だった。その間にはよく家事をした。
「父子家庭」という大義名分があったので、日々エプロンをして楽しく働いた。
でも、娘が大きくなって家を出て、男一人暮らしになったら、ぱたりと家事を止めてしまった。手の込んだ料理も作らないし、縫物をすることも間遠になった。能を稽古しているので、紋付の半襟を縫い付けるくらいのことはたまにやるけれど、どうせ自分の着物だと思っているせいで仕事がぞんざいになる。とても娘の体操着に名札を縫い付けた時の集中力には及ばない。

私はもともと家事仕事が好きだし、けっこう得意だけれど、いつでも時間を忘れて熱中できるというわけではない。「誰かに尽くす」とか「誰かを守る」というマインドセットにならないとこういう仕事にはうまく集中できないのかも知れない。
自分のためだけだと今ひとつやる気にならない。
友人に父親の介護をしている時、料理が好きになった男がいる。それまで料理なんかほとんど作ったことがなかったのだけれど、父がなぜか彼の作る料理を「美味しい美味しい」といって食べてくれるのでうれしくなって、料理本を買い、毎日新しい料理に挑戦しているうちに、すっかり料理好きになってしまった。包丁や鍋釜も各種調えた。でも、父親が亡くなったとたんに料理を作る意欲がぱたりとなくなってしまったそうである。
自分自身のためには凝った料理を作る気がしないのだと言っていた。その気持ちはよくわかる。

家事というのは、本質的に他人の身体を配慮する技術なのだと思う。
清潔な部屋の、乾いた布団に寝かせ、着心地のよい服を着せて、栄養のある美味しい食事を食べさせる。
どれも他者の身体が経験する生理的な快適さを想像的に先取りする能力を要求する。
家事においては、具体的な技術以上に、その想像力がたいせつなのだと思う。
 
私はいま武道を教えて生計を立てているが、武道の要諦もまた他人の内部で起きていることに感覚の触手を伸ばすことにある。
武道の場合は、そのようにして自他の心身の間の対立を取り去り、自他の境界線を消し、「眼前に敵はいるが、心中に敵はいない」「敵我を見ず、我敵を見ず」という「活殺自在」の境地に至ることをめざすわけであるが、その能力はまた他者との共生のためには必須のものだと私は思う。
だが、家庭科も武道も現在の学校教育では基礎科目とはみなされていない。
たぶん他者との共生には特別の技術など要らない、あるいは有限の資源を奪い合うラットレースの競争相手の心身の状態など配慮するに及ばない思っている人たちが教育制度を設計しているからだろう。

ここまでが抄録。代読して頂いたメッセージは以下の通り。

みなさん、こんにちは。内田樹です。
学会で講演とシンポジウムに出席する予定でしたが、西日本の大雨で、鉄道ダイヤが大幅に乱れ、「鉄道での旅行は見合わせるように」というJRからの勧告を受けて、今日の学会出席を諦めることにしました。
一年以上前からご準備頂いたのに、申し訳ありません。
座長の荒井先生から代読するから、何かメッセージを送って欲しいという依頼がさきほどありましたので、今日の講演で申し上げたかったことをすこし短くまとめて申し上げます。
抄録にも書きましたように、私は家事というのは、本質的には、「他人の身体を配慮する技術」であると思っています。
ともに生活するひとたちに清潔な住環境を提供し、着心地のよい服を着せて、栄養のある美味しい食事を食べさせる・・・。それらの作業はどれも他者の身体が経験する生理的な快適さを想像的に先取りする能力を要求します。
私は家事においては、料理や裁縫といった個々の具体的な技術以上に、他者の身体が経験していることについて想像力を働かせることがたいせつだと考えています。
そういう発想法は私がいま武道を教えて生計を立てているということと関係があるのかも知れません。
武道の要諦は何よりも「他人の身体の内部で起きていること」へ感覚の触手を伸ばすことにあります。
というような説明では理解しにくいと思いますので具体的な例を挙げます。
伝統的な技芸には「内弟子」というシステムがあることはご存じだと思います。
内弟子というのは、師匠のそばについて、起居を共にし、稽古を手伝い、旅のお供をしたりするものです。その内弟子について一番必要な能力は「師匠の生理過程に同期できることだ」と以前、観世流のお家元、観世清和先生からうかがったことがあります。
かたわらにいる師匠がどれくらい空腹か、どれくらい疲れているか、どれくらい眠いのか、それが察知できないものには内弟子は務まりません。
内弟子には、師匠が「あれ」と言ったら、それだけで師匠が求めているものを過たず差し出すような「勘の良さ」が求められます。
そのような能力は人に教えてもらって身につけるものではありません。文字通り「起居を共にし、常住坐臥かたわらにあって、師匠の生理過程に同期する訓練をする」ことでしか身につきません。
内弟子というのは、師匠から直接お稽古をつけてもらうということがありません。師匠が他人につけている稽古を横で見て、そのアシスタントをするだけです。けれども、10年なり15年なり内弟子として師匠の傍らにあった後、修業が終わったから家に戻ってよいと言われて、そこで舞台に立つと、まるで師匠そっくりの芸風になっていると言います。
呼吸の仕方、立ち方歩き方、発声法、着付け・・・そういうものがいつの間にか師匠に酷似している。
そのようにして伝統的な技芸は何百年にわたって継承されてきたのです。

いまあげたのは技芸の伝承における生理過程の同調の実例ですけれど、これに限らず、他者の生理過程への想像的な同期というのは人間が集団的に生きてゆくためには必要不可欠のものだと私は考えています。
私の友人である津田塾大学教授の三砂ちづる先生は「おむつなし育児」というものを進めています。
これは幼児が尿意を催したときに、母親がそれを事前に察知して、排尿させられるような敏感な身体感覚の育成をめざすものです。
前にこんなエピソードをうかがいました。
三砂先生がアフリカでフィールドワークに携わっていたときに、現地の女性が背負っていた赤ちゃんを抱きおろして排尿させているのを見て、「どうして子どもがおしっこがしたいとわかるんですか?」と聞いたら、逆に「どうして、わからないの?」と驚かれたそうです。
僕も父子家庭で娘と毎日起居をともにしていた時期に、それに似た経験をしたことがあります。
朝から頭の中で、ずいぶん昔の「CMソング」がなぜか繰り返し聞こえてくるということがありました。声に出して歌っていたわけではありませんが、頭の中で同じメロディがリフレインする。
食事が終わって、台所で皿洗いをしているときに、またその「CMソング」が頭のなかで鳴り出しました。「またかよ」と思っていたら、少し離れたところにいた娘がその歌の「続き」を鼻歌で歌い出しました。
これにはびっくりしました。
皿洗いの手を止めて、「いま、どうしてその歌うたったの?」ときいたら、不思議な顔をして、「なんとなく」と答えました。
僕の頭の中で鳴っていたのは、娘が生まれるはるか前の1950年代のテレビドラマで使われていたCMソングでした。娘は知るはずのない歌を歌っていたのです。

でも、このような他者の中で起きていることに同期する能力はほんらいすべての人間に潜在的には具わっていると思います。そして、それは人間が共同的に生活するためにたいへんに重要な能力ではないかと私は思います。そのような能力があったからこそ、人類は、単独では、他の野生獣のような強さも敏捷さもない種であるにもかかわらず、地上における支配的な種として生き延びることができた。私はそういうふうに考えています。爪もない、牙もない、空も飛べない、水中でも生きられない。でも、人類は他の野生獣にはできないことができた。それは同種の他の個体と「つながる」ことです。何人も、何十人も、場合によっては何百人、何千人ものの個体が集まって、一つの「共同的な身体」のようなまとまり形成して、まるでひとつの生き物のように感じ、判断し、行動する。
それができたことが人間のきわだった特徴であったと私は考えています。

私はいまは武道の稽古を通じて、この「他者と同化する力」を育てるプログラムを作り上げようと努力しております。でも、それはやればやるほど、日常の家庭生活、共同生活に通じたものであることがわかります。
だからこそ、現代においても武道の修業に必然性があるのです。
現代社会では、よほどのことがなければ、武道の術を用いて誰かを投げたり、抑えたり、関節を決めたりというような機会はありません。私は合気道という武道を40年以上間稽古しておりますけれど、最後に「護身術的」に技を使ったのはもう四半世紀ほど前のことです。
むしろ、私たちは、武道の修業を通じて、術を護身術的に用いなければならないような剣呑な状況に立ち入ることがないように、事前に危険を察知して、危機を回避することができる感受性を洗練させようとして、日々稽古に励んでいるのです。
武道が目指すのは「いるべきところに、いるべき時にいて、なすべきことをなす」ことです。
それは誰かが教えてくれることではありません。マニュアルもガイドラインもありません。
武道のことばでは「座を見る。機を見る」という言い方をすることもあります。いるべき場所、いるべき時、なすべきことを自分で選択し、決断しなければならない。誰も自分に代わって選択し、判断してはくれません。
いるべきところ、いるべき時、なすべきことを決めるのは、私の自由意志ではありません。そうではなくて、私たちに対する他者からの「呼びかけ」です。「呼びかけ」、英語で言えば、vocationとか callingということになるでしょう。これらは「呼びかけ」とともに「天職」「召命」を含意する語です。

他者からの呼びかけに応えて、私たちは自分がいつどこでなにを果たすべきかを知る。
「呼びかけ」のうち、もっとも受信しやすいのは、「救い」を求める声です。
飢餓、寒さ、痛みなどは、どれもそれを放置すると命にかかわる身体感覚ですが、それはいずれも他者の緊急な介入を求めています。ですから、非常に発信力が強い。

人倫の基本は「惻隠の情」ですが、この「惻隠の情」というのは、いささか堅苦しい言い方に言い換えると「緊急な介入を求める他者からの救援信号を感知すること」ということになろうかと思います。
先ほど、家事に必要なのは、他者の身体で起きている出来事に対する想像力だということを申し上げました。
もちろん日々の穏やかな生活において、私たちは共に暮らす人たちからの「生活な住環境」や「着心地のよい衣服」や「美味しい食事」などを求める穏やかな「呼びかけ」を聞き取ることができれば、それで十分です。
でも、その呼びかけを聴き取れる能力は「緊急な介入を求める他者からの救援信号を感知できる能力」と同質のものです。「惻隠の情」と同根のものです。それは人間が他者と共生できるために、必須の能力です。

学校教育とは、子どもたちが「他者と共生できる能力」を身につけることができるように支援することだ、というのが私の個人的な定義です。
この場合の「他者と共生できる能力」の中には、言語によるコミュニケーション能力や、合意形成能力や、「公共意識」など、さまざまなものが含まれますが、どれほど高度な社会的能力にせよ、その基本には、「惻隠の情」すなわち「他者からの緊急な介入を求める呼びかけを聴き取る力」、そのさらに基本には「他者の身体経験、生理過程に想像的に同期できる能力」がなくては済まされません。
家庭科教育はまさにそのような能力の開発にフォーカスした教科であろうと私は考えています。生活をともにする人たちの身体の内側で起きていることに想像的に触手を伸ばすこと。
そのような能力がどれほどたいせつなものであるか、それについての社会的な合意はまだまだ不足しているように私には思われます。

以上、講演でお話しようと思ったことの一部を抜粋しました。
学会のご盛会を祈念しております。

家庭科教育と武道修業の内的なつながりについて、講演ではもっとあれこれ話すつもりだった。また機会があったら、それについても書き残しておきたい。