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大学の株式会社化について

科学技術白書がようやく日本の学術的発信力の低下を認めた。
それについて『サンデー毎日』に所見を寄稿した。もう2週間前なので、採録。

先日発表された科学技術白書がようやく「わが国の国際的な地位の趨勢は低下していると言わざるを得ない」ことを認めた。
「引用回数の多い論文の国際比較で日本は10年前の4位から9位に転落した。論文数も減って2位から4位になったが、4倍に増えた中国はじめ主要国は軒並み増加している。」(毎日新聞、6月14日)
各国の政府の科学技術関係予算の伸び具合を00年と比べると、中国が13.48倍(2016年)、韓国が5.1倍(同)、日本は1.15倍(2018年)。博士課程への進学者はピークの03年度を100とすると2016年度は83。海外派遣研究者の数も00年を100とすると2015年度で57にまで減った。注目度の高い研究分野への参画度合い(14年)では、米国91%、英国63%、ドイツ55%に対し、日本は32%。科学研究の全分野で壊滅的な劣化が進行している。
しかし、白書は遅きに失した。
日本の学術的発信力の低下が指摘され始めたのは2002年のことである。一国の科学研究のアクティヴィティの高さの最もわかりやすい指標である「人口当たり論文数」は2015年に世界37位(すなわち先進国中最低)をマークした。高等教育機関への公的研究資金の投入と論文数生産は相関するが、日本はこの対GDP公的支出ランキングでここ数年、先進国最下位を定位置としてキープしている(一度ハンガリーに「負けた」が、翌年すぐにめでたく最下位に復帰した)。
日本の学術論文の80%は高等教育機関が生産しており、そのさらに60%は国公立大学が生産している。国公立大学からの論文生産の停滞が日本の学術研究の停滞を招いていることは久しく指摘され続けていた。特に2004年の独立行政法人化以後の国立大学の学術的生産力の劣化が顕著である。
先日京都大学の山極壽一総長が「法人化は失敗だった」と断言して、話題を呼んだ。法人化以後、研究費と研究者数と研究時間が減らされているのだから、それで研究成果が上昇したら奇跡である。まことに愚かなことをしたものである。
国立大学の独立行政法人化は21世紀の初め頃から日本社会を覆い尽くした怒涛のような「株式会社化」趨勢の中で決定された。
「株式会社化」というのは、「すべての社会制度の中で株式会社が最も効率的な組織であるので、あらゆる社会制度は株式会社に準拠して制度改革されねばならない」というどこから出て来たか知れない怪しげな「信憑」のことである。いかなる統計的エビデンスも実証データもないままに、その頃羽振りのよかった新自由主義者たちが教育・医療・行政・・・あらゆる分野で「改革」を断行せねばならじと獅子吼したのである。
彼らの考えるた「株式会社化」はおおよそ次のような原理に基づいている。
(1)トップに全権を集約して、トップが独断専行する(上意下達)。
(2)トップの下す経営判断の適否は、組織内の民主的討議によって「事前」に査定されるのではなく、マーケットに選好されるかどうかで「事後」に評価される(市場原理主義)。
(3)組織のメンバーではトップの示すアジェンダに同意するものが選択的に重用され、トップの方針に非協力的なものはキャリアパスから排除される。公共的資源もこの「トップのお気に入り度」に基づいて傾斜配分される。(イエスマンシップと縁故主義)。
上意下達・市場原理主義・イエスマンシップ・縁故主義・・・と並べると、「今の日本の組織って、全部そうじゃないか・・・」と深く頷かれることと思うが、この四つが21世紀日本社会を覆い尽くした「株式会社化」運動の基本綱領である。
営利企業が株式会社という形態を選択することに別に異論はない。好きにされればよい。けれども、医療や教育や行政のような「社会的共通資本」を株式会社に準拠して改革されては困る。それらの制度は営利目的で設立されたものではないからである。
「社会的共通資本」とは「それなしでは人間が集団として生きてゆくことのできない制度」のことであり、専門家によって、専門的知見に基づいて、定常的に管理運営されるべきものである。収益を上げたり、株主への配当金を増やしたり、あるいは特定の政治イデオロギーを宣布するために存在するわけではない。そのことをまったく理解していない人が少なくない(どころではない)。だから、同じことを何度も言わねばならない。
前に地方自治のありようを見て、「民間ではありえない」と言って罵倒した政治家がいた。彼が「民間ではありえない」と言ったのは、行政が「株式会社のように運営されていない」ということだった。だが、少し考えればわかることだが、地方自治は決められた行政サービスを安定的・恒常的に供給するためにあるわけで、売り上げを増やしたり、存在しないニーズを創り出したり、納期に合わせて仕様を変えたりする必要がないし、何よりも政策の当否が「マーケット」の評価で事後的に決まるのを待つということをしない。事前に熟議して、さまざまなリスクを全部書き出して、それぞれについて対策を講じておいて、その上で「まあ、これなら大丈夫」だという政策をそろそろと実施するのが、地方自治であれ、医療であれ、教育であれ、そういう制度を管理する上での要諦である。当たり前である。「止まってしまったら、それでおしまい」なんだから。
「社運を賭けて起死回生の大バクチを打つ」ということは株式会社であればいくらでもおやりになればいい。失敗したって倒産して、株券が紙くずになるだけである。けれども、行政や医療や教育でそんなことをされては困る。取返しがつかない。水道が出なくなったとか、交通網が途絶したとか、病院が閉鎖されて医療機会がなくなったとか、学校が廃校になって子どもたちが行き場を失ったとかいうことと、市場である商品が流通しなくなるというのはまるでレベルの違う話である(ある商品がなくなってもあっというまに代替商品が市場を席捲するだけのことである)。
そんな簡単なことさえ理解できない人たちが「人間が集団として生きてゆくためにほんとうに必須のもの」と「(あってもなくてもよい)商品」を混同して、商品の開発・製造・流通と同じ要領で社会的共通資本も管理できると思い込んだ。そのせいで、今の日本は「こんなざま」になってしまったのである。
断言させてもらうが、大学の学術的生産力の劇的低下は大学の株式会社化の必然の帰結である
文科省の指示によって、大学はトップ(学長・理事長)に全権を集約して、大学教授会は諮問機関に格下げれた(もう人事や予算の決定どころか入学・卒業の判定さえできなくなった)。教育内容は卒業生の「買い手」たる産業界から要望された「グローバル人材」なるもの(英語でタフな交渉ができて、辞令一本で翌日から海外に赴任できて、安い賃金で無限に働き続けられるサラリーマン)の育成に偏することとなった。換金性の高い研究・成果がすぐに出る研究ばかりが選好され、海のものとも山のものともつかぬ先行きの不透明な研究(ほとんどのイノヴェーティヴな研究はそうやって始まる)には資源が分配されない。若い研究者たちは不安定な任期制の身分に置かれているため、プロジェクトのボスのやり方に疑義を呈することはただちに失職のリスクを伴う。このような息苦しい研究環境で、いったいどうすれば創造的な研究が生まれると言うのか。
日本の学校教育が「もうダメ」だということはすでに一昨年秋にForeign Affairs Magazineが伝えていた。日本の教育システムは「社会秩序の維持・産業戦士の育成・政治的な安定の確保」のために設計された「前期産業時代に最適化した時代遅れのもの」であり、それゆえ、教員も学生もそこにいるだけで「息苦しさ」「閉塞感」を感じている。文科省が主導してこれまで大学の差別化と「選択と集中」のためにいくつものプロジェクトが行われたが(COE、RU11、Global30など)、どれも単発の、思い付き的な計画に過ぎず、見るべき成果を上げていないというのが同誌の診断であった。
私がなによりも問題だと思うのは、このような海外メディアからの指摘に対して文科省が無言を貫いたことである。
文科省の過去四半世紀におよぶ教育行政の適切性に疑義を呈したのである。それを不当だと思うなら、正面から反論すべきだった。同誌に抗議して、記事の撤回や訂正を求めても罰は当たるまい。
けれども、文科省はこの記事を無視した。何もしなかった。文科省の教育政策をこれまで支持してきた大学人や教育学者もこの記事を無視した。日本の学校教育が失敗しているということを海外メディアから指摘されているという事実そのものを隠蔽したのである。
不誠実な対応だったと思う。
たしかに、英語の外交専門誌を手に取る日本人など数千人もいない。99・9%の国民は文科省とメディアが黙っていればそんな記事の存在を知らずに終わる。だから、黙っていたのである。反論したら、教育行政の失敗が海外メディアで指摘されているという事実が国内メディアでも取り上げられる。文科科省はそれを忌避したのである。
自分たちの政策の正当性・適切性を学的な手続きによって論証することそれ自体を放棄した人々が日本の教育行政を司っているのである。学術的発信力が急坂を転げ落ちるように劣化するのも当然である。
この趨勢はもう止まらないだろう。

文科省の最新のスキャンダルは2020年度からの国立大学入試への英語の民間試験の導入である。
これについては大学中学高校のほとんどすべての英語科教員が反対している。この決定は密室で、少人数の関係者による、ごく短期間の議論だけで、実証的根拠も示されず、英語教育専門家の意見を徴することなく下された。実施の困難さや問題漏洩リスクや公正性への疑念や高校教育への負の影響についても何の説明もなされていない。
民間試験導入の旗振り役だった当時の文科相が私塾経営者出身で学習塾業界からの資金援助を受けていたこと、有識者会議で民間試験導入を強く主張した委員の経営する会社が民間試験導入決定後に英語教育事業を立ち上げたことが、のちに報道された。
「私利のために受験者数十万人の試験制度の改変を企てたのではないか」というような疑念はかつて日本の大学入試で呈されたことはない。でも、そういうことが起きても不思議はないほどに日本の教育行政は劣化している。
では、どうしたらいいのかと言われても、私に妙案があるわけではない。手当てができるところから補正修復するしかない。
まずは被害の全容を開示すること。日本の学校教育がどれほど病んでいるのか、どれほど傷つけられたのかを点検してゆく。なによりもまず全国の教職員たちが、現場に侵入してきた「株式会社化趨勢」に対してきっぱりと「ノー」を告げるところから始める他ない。

という記事を寄稿した1週間後に、文部科学省の高級官僚が、「私立大学研究ブランディング事業」で大学側の便宜を図る見返りとして、息子の受験の点数に下駄を履かせてもらっていた受託収賄容疑で逮捕されるという「醜聞」が報道された。
逮捕されたのは科学技術・学術政策局長である。
委ねられた国富の分配を私利のためにさじ加減するようなろくでもない汚吏貪吏が政府部内にいることに驚いてみせるほど私はナイーブではないが、それにしても「そんなことをしたら大学受験の公平性についての信頼のみならず教育行政全体への信頼を致命的に傷つけること」に手を染めたのが「科学技術・学術政策」起案実施のトップであったという事実は重い。
それは文科省が「例外的に不道徳な人物」が異数の出世を遂げることができる組織であるということを意味するだけでなく、「それが暴露されたら教育行政に対する国民の信頼に傷がつくリスク」と私利をてんびんにかけて、私利を優先させるほどに判断力の不調な人物が(平たく言えば「頭の悪い人物」が)日本の科学技術と学術政策を起案していたということを意味するからである。

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2018年07月07日 10:45 に投稿されたエントリーのページです。

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