「ローカリズム宣言」まえがき

2017-12-05 mardi

みなさん、こんにちは。内田樹です。
今回は「ローカリズム宣言」というタイトルで、地方移住、定常経済などにかかわる文章をまとめて本を一つ作りました。本の素材になったのは、この本の出版社が出している『TURNS』という雑誌で二年ほどにわたって連載したインタビュー記事です。
『TURNS』というのはUターン(生まれ故郷へ帰還する)、Jターン(生まれ故郷とちょっと違う土地に住み着く)、Iターン(都会に住んでいる人がぜんぜん縁のない土地へ移住する)という三種類の「ターン」のことです。この雑誌はそういうふうに「ターン」して、地方移住をめざす人たちのための情報誌です。
最初に『TURNS』から取材のオッファーがあったときには、この世にそんな特殊な読者を対象にした特殊な雑誌があるなんて知りませんでした。どこにも広告も出していない、名前も知らなかった雑誌にそれなりのニーズがあるということにまず驚きました。実際に地方移住するかどうかはさておき、「地方移住という選択肢を検討する気になっている人たち」は僕が考えているよりもはるかに多いらしい。
それを聞いて、まず「ああ、日本人もけっこう健全なんだな」と僕は思いました。
それは2011年の東日本大震災で露呈した都市文明の脆さと、とりわけ原発のメルトダウンによる環境破壊に対するごく自然な反応のように思えたからです。そういう動きが出てこなければ、むしろおかしい。
資本主義の終焉が近づき、今までのような都市生活はいずれ継続が困難になる、そういうふうに思う人が少しずつではありますけれど、しだいに増えてきました。もちろん、まだ圧倒的に少数派です。
そもそも資本主義経済がもうすぐ終わるかも知れないなんてことは新聞やテレビのようなマスメディアは絶対報道しません(だって、それは「そのうちわが社は消滅するかも知れません」という話なんですから)。ネットは速報性・拡散性優位のメディアですので、こんな複雑な話は扱えない。
ですから、「資本主義経済はもうすぐ終わるかも」というのはごく少数の学者やエコノミストの書くあまり読まれない本をたまたま手に取る機会がなかった人を除くと、「なんか、ふっとそんな気がしてきた」という直感以外には根拠のないアイディアなんです。でも、そういう直感を信じて、生き方を変える人たちが日本列島全土に同時多発的に登場してきた。たぶん、その数はこれからどんどん増えてくるでしょう。これはもう後戻りすることのない、歴史的必然だと思います。
でも、どうして経済システムのようなある意味で価値中立的で、誰も人為的に操作することのできない自律的な仕組みが「命数が尽きかけている」ということが直感的にわかるんでしょうか。
株式市場における投資家の行動は予測不能です。市場における消費者の購買動向も予測不能です。為替の仕組みや中央銀行の動きも変数が多すぎて予測不能です。要するに、経済体制が明日どうなるかということについては、これを一元的に管理している人も機関も存在しないので、「誰も知らない」ということです。ときどき啓明結社とかフリーメーソンとかユダヤの国際資本とか、そういう秘密組織がすべての経済的できごとを陰で操作しているという「陰謀論」を語る人がいますけれど、残念ながら、そういう理論は「世界のすべてのできごとの背後には神の摂理がひそんでいる。すべては神の意思だ」というのと同じく、今日の魂の安らぎを与えてはくれますけれど、明日何が起きるかについては何も教えてくれません。
ところがなぜか人間は直感的にこのような予測不能の、複雑怪奇な事象の本質が「わかる」ことがある。少なくともこのままの事態が続くと、自分にとって「よいこと」が起きるか、「よくないこと」が起きるのか、それがひらめくことがある。

「そういうこと」ってあるよな、と思ったのは、去年の春にイギリスに行ったときのことです。これは「マルクスのゆかりの地を訪ねる」という変わった企画のツァーで、その中で、マルクスが『資本論』を書いた時代のイギリスの工場労働がどういうものだったかを知るためにリヴァプールの産業博物館を訪れたことがありました。この産業博物館には産業革命のときの紡織機械がずらりと並んでいて、ときどきガイドさんが工場の仕組みを説明しながら、その機械を作動して見せてくれるのです。これがすごかった。
何十メートルもある紡織機械が一斉に作動して、それをわずかな人数で操作する。子どもたちが機械の下に潜り込んで、素早くを掃除する。少しでも気を抜くと機械に巻き込まれて手足が切断される。そういう非人間的な機械なんです。ところが、そういう機械にはあきらかに表情があるんです。機械を設計した人間がその機械がどういう本質のものであるかを知って、それを表情として与えてしまった。意識的であったか無意識的であったかはわかりません。でも、あきらかにそれらの機械には表情があった。
H・R・ギーガーという画家が『エイリアン』というSF映画のクリーチャーのデザインをしたことがあります。「バイオメカノイド」というのがその怪物のコンセプトでした。機械と生物の合体したものです。きわめておぞましい造形で、映画を見たときに僕はギーガーという人の作家的独創性にほとほと感服しました。でも、リヴァプールで紡織機械を見たときに、それらの機械がエイリアンの造形の原型だということがわかりました。人々を休みなく働かせ、生気を奪い、収奪し、場合によっては殺す機械にはそれにふさわしい醜悪で禍々しい「顔」があるべきだと考えた技師たちがいたのです。
「ラッダイト(luddite)」をご存じでしょうか。19世紀はじめのイギリスに登場した産業革命に反対した労働者たちのことです。彼らは機械によって職を奪われたことを恨んで、工場に乱入してさまざまな機械を叩き壊しました。イギリス政府は工場の機械を破壊したものは死刑に処するという過酷な政策でこれに応じましたが、ラッダイトの運動はそれにもかかわらず全土に広がりました。僕は高校の世界史でラッダイトのことを知ったときに「変なことをする人たちだ」と思いました。機械なんか壊してもしょうがないじゃないかと思ったからです。機械は価値中立的で、何の感情も意思も持たない、ただの道具です。機械の発明は、人間知性の発達の成果であって、それを憎むという心性がまるで無意味なものに思えました。でも、リヴァプールでほんものの紡織機械を見たときに、ラッダイトの気持ちがふっとわかりました。それはまさに「禍々しい顔」をした機械だったからです。システムを停止させるだけなら、資本家たちのオフィスに乱入して、帳簿や書類を破り捨てれば済む。あるいは工場法制定運動を通じて労働者を保護する法整備をすればいい。でも、ラッダイトたちはまず機械に憎しみを向けました。それは機械が生き物の顔をしていたからです。おそらく技師たちは「憎しみを向けることができるほどに擬人化した機械」を無意識のうちに設計してしまったのです。

今僕たちは爛熟した後期資本主義社会にいます。経済システムは想像を絶するほど複雑になり、いったい何のためにこれらのシステムが作動していて、いま何をしているのか、もう僕たちには全然わからなくなってしまった。だから、多くの人はそれを自然過程だと思って黙って受け入れている。気象と同じように、降ったり照ったりする。たまに地震があったり、津波があったりして、そのつど人が傷つき、死ぬ。でも、そこには何の人間的意味もないと思っている。
ところが、この経済システムに「顔」を見た人たちが出て来た。19世紀イギリスのラッダイトたちと同じように、科学技術や金融工学の自然な発展過程、個人の善意も悪意も関与する余地のない自然過程と思われたこの経済システムが「禍々しい顔」をしていることに気づいた人たちが出て来た。人間をただ疲弊させるためだけに働かせ、その労働の果実を収奪し、心と体を傷つけ、ついには殺す「邪悪な本性」を見たと信じた人たちが、このシステムが吐き出す「瘴気」が届かない場所へ逃れ始めた。それが今起きている「地方移住」という動きの文明史的な意味ではないかと僕は思います。
この動きの先駆者たちが何をしようとしているのか、なかなか理解が届かないだろうと僕は思います。あるいはかのラッダイトたちのように、政府や資本主義システムによって、あるいはメディアによっていわれなき非難を受けることがあるかも知れません。でも、イギリスでは、ラッダイトたちの戦いをきっかけにして工場法制定と婦人少年労働の規制のための運動が始まり、それがやがて普通選挙権を求める政治運動につながりました。バイロンとシェリーは、ラッダイト運動を人間を収奪するシステムに対する人間の尊厳と自立を追求するものとみなして、それを讃える詩を残しました。
現代日本の地方移住の運動を僕は「資本主義システムの顔を見てしまった人たち」の逃れの旅のようなものと理解しています。彼らの旅が無事なものでありますように。彼らがいつか約束の土地にたどりつけますように。God speed you