『大学ランキング』に教養教育について寄稿した。もう本が出てずいぶん経つから、ブログで公開してもいいだろうと思う。いつもの話ですけど。
教養教育とは何か
教養教育の目的は第一に「自分自身をマップすること」にある。それは、図書館のどの書棚にどんな本が配架されているかを示す案内板や、山歩きするときの地図の働きに似ている。案内板が教えてくれるのは、「自分が知っていること」よりはむしろ「自分が知らないこと」である。地図は「自分のいる場所」よりはるかに多くの情報を「自分がいない場所」について伝えてくれる。それが教養教育の本来の姿だと私は思う。
大学設置基準大綱化のあと、多くの大学が教養教育を止めた。1年生から4年間フルに専門教育を行えば卒業時点で社会が求める「即戦力」が出来上がると信じたのである。でも、しばらくして「即戦力」をうるさく求めた当の産業界から「教養教育をちゃんとやってほしい。教養のない専門家は使い物にならない」という泣訴が届いた。
当然だと思う。専門家というのは他の専門家との協働作業ではじめてその力を発揮する。協働するためには、自分には何ができて、何ができないのか、自分は何を提供できて、何を欠いているのかを言葉にできなければならない。非専門家に自分の専門について手際よく説明することができる人間のことを専門家と呼ぶのである。
それができない人間は特定領域での知識や技術がどれほどあっても他の専門家との協働作業にかかわることができない。専門性とは自分が「地図上のどこにいるのか」を指示できることである。地図の見方を知らない人間にはそれができない。「地図を見る力」を養うこと、それが教養教育である。専門的な知識や技術を身につけることとは別の次元の仕事なのである。
日本の教育史上最も成功した教養教育は旧制高校だと私は思う。そこでは若者たちが起居をともにし、文字通り「同じ釜の飯を食う」生活をした。彼らはその生活を通じて、集団内部での自分の果たすべき役割を学んでいった。のちに大きな仕事をした人たちが高校時代を回顧して、「・・・に出会って、この分野ではこいつには歯が立たないとわかったので、自分は・・・を専門にすることにした」と述懐する言葉を私は何度も読んだことがある。
旧制高校が教育機関として成功したのは、それが同学齢集団の中でどういうふうに「ばらける」と集団としての知的パフォーマンスが最高になるかを十代の頃から熟慮させる仕組みだったからだと私は思っている。
今の学校教育では、学生たちを単一のある「ものさし」を使って格付けして、上位者を優遇し、下位者を処罰するという競争原理が幅をきかせている。けれども、精度の高い格付けを行うためには、それに先立って、できるだけ学生たちを均質化する必要がある。「それ以外の条件をすべて同じにする」ことでしか「ものさし」は当てられないからである。
精度の高い格付けと多様性は共存できない。どちらかをあきらめるしかない。日本の大学は格付けを優先して、多様性を捨てた。21世紀に入ってからの日本の大学の学術的アウトカムの劇的な劣化はそれが原因で起きたと私は思っている。
学生ひとりひとりの「学力」を査定して、点数化して格付けすることにはそれなりの意味はあるが、「それなりの意味」以上のものはない。むしろそれがいま私たちの社会と学校教育の場に及ぼしている害毒についてもっと自覚的でなければならないと私は思う。教育の成果は最終的には個人ではなく、集団単位で考量すべきものだからである。
私たちは学校教育を通じて、私たちの共同体の未来を担うことのできる次世代の成員たちを育てている。彼らの知性的・感性的な成熟を支援することによって、私たちの共同体が存続できるようにすることが学校教育の第一目的である。それ以外のことはどれも副次的なことに過ぎない。
『七人の侍』でも『スパイ大作戦』でも『ナバロンの要塞』でも(たとえが古くて申し訳ないが)、プロたちははそれぞれの「余人を以ては代えがたい」異能の持ち主である。あるものは変装の、あるものは外国語の、あるものは戦闘技術の才によって集団に参加し、彼らの貢献によって集団は爆発的なパフォーマンスを達成する。そういう英雄譚はおそらく古代から繰り返し語られてきたのだと思う。それは専門分化と協働が集団の存続にとって死活的に重要だということを人々に教えるために物語られてきたのである。
気づいている人もいるはずだが、20年ほど前から日本では「似たような能力を持っている若者たちを一堂に集めて、その優劣を格付けして、それに基づいて資源分配をする」という後味の悪い物語を人々は娯楽として大量に消費するようになった。おそらくは社会の実相をそのまま映し出しているのである。もう一度アカデミアは「多士済々」の場とならねばならない。それが果たせなければ日本に未来はない。
(2017-06-08 16:06)