村上春樹の系譜と構造

2017-05-14 dimanche

最初にお断りしておきますけれど、僕は村上春樹の研究者ではありません。批評家でもない。一読者です。僕の関心事はもっぱら「村上春樹の作品からいかに多くの快楽を引き出すか」にあります。ですから、僕が村上春樹の作品を解釈し、あれこれと仮説を立てるのは、そうした方が読んでいてより愉しいからです。どういうふうに解釈すると「もっと愉しくなるか」を基準に僕の仮説は立てられています。ですから、そこに学術的厳密性のようなものをあまり期待されても困ります。とはいえ、学術的厳密性がまったくない「でたらめ」ですと、それはそれで解釈のもたらす愉悦は減じる。このあたりのさじ加減が難しいです。どの程度の厳密性が読解のもたらす愉悦を最大化するか。ふつうの研究者はそんなことに頭を使いませんけれど、僕の場合は、そこが力の入れどころです。
いずれにせよ、僕が仮説を提示するのは、みなさんからの「真偽」や「正否」の判断を求めてではありません。自分の「思いついたこと」をみなさんにお話しして、それに触発されて、「今の話を聞いて、私も『こんなこと』を思いついた」という人が一人でもいれば、僕はそれで十分です。
今回は二つのトピックを巡ってお話しします。一つは村上文学の「系譜」についてです。この「系譜」には「横の系譜」と「縦の系譜」の二つがあると僕は考えています。それについてお話しします。もう一つは「構造」についてです。村上文学の構造は、系譜と絡み合っています。系譜と構造は村上文学に取りかかる時の二つの「登山口」のようなものです。たぶんどちらから登っても結局は「同じところ」に行き着くはずです。まずは分かりやすい「系譜」の話からいたします。

村上春樹は『風の歌を聴け』(1979年)、『1973年のピンボール』(1980年)という初期の2作品を書いた時は「兼業作家」でした。20代の7年間をジャズバーを経営し、作家自身の言葉を借りれば「肉体労働」をして過ごしていた。29歳の時に、神宮球場でヤクルトスワローズの開幕戦を外野席で冷たいビールを飲みながら観戦していたときに、天啓のように「そうだ、小説を書こう」という気分になった、とご本人が回想しています。
初期の2作品は深夜に仕事が終わったあと、台所のテーブルの上で書かれました。1日の肉体労働が終わったあとに、クールダウンをするような感じで原稿用紙を文字で埋めていった。寝る時間を削って書いているわけですから、それほど長時間集中することはできない。せいぜい2〜3時間でしょう。ですから、この2作は細かいセグメントの組み合わせになりました。アフォリズム的な作品といってもいい。短いエピソードや断片的な描写が繋ぎ合わされている。それが独特のドライでクールな味わいをこの2作品に与えています。それを「スマート」とか「都会的」というふうに感じた読者もいたと思います。でも、それは作家の選んだスタイルであったというだけではなく、たぶんに執筆事情が要請したものでした。
村上春樹が自分のスタイルを「発見」したのは第三作の『羊をめぐる冒険』(1982年)においてです。この前にジャズバーの経営を譲って、専業作家になった。これまでとは違って、長時間にわたって集中的に書く環境が整った。それによってスタイルが変わります。「深く掘る」ことができるようになった。そのあたりの事情を作家自身はこう回想しています。
「この小説を書き上げたとき、自分なりの小説スタイルを作りあげることができたという手応えがあった。また時間を気にせずに好きなだけ机に向かい、毎日集中して物語を書けるというのがどれくらい素晴らしいことなのか(そして大変なことなのか)、身体全体で会得できた。自分の中にまだ手つかずの鉱脈のようなものが眠っているという感触も得たし、『これなら、この先も小説家としてやっていけるだろう』という見通しも生まれた。」(『走ることについて語るときに僕の語ること』、文藝春秋、2007年、51頁)
ここに出て来た「鉱脈」という言葉にご注意ください。村上春樹は書くという行為をつねに「坑夫が穴を掘る」というメタファーで語ります。これは書いている時の彼の身体的実感なんだろうと思います。もし「創造する」ということを比喩的に言いたいのなら、他にもいくつも言い方はあるはずです。「家を建てる」でも「橋を架ける」でも「野菜を育てる」でもいい。でも、そういうメタファーを村上春樹は一度も使ったことがない。つねに「穴を掘る」です。
作家は毎日日課として小説を書きます。小説制作の現場に「出勤」し、そこで一定時間、「穴を掘る」。金脈を探す鉱夫と同じです。日々穴は掘った分だけ深くなるけれど、鉱脈にはなかなか堀り当たらない。でも、いつか鉱脈に当たると信じて掘り続ける。
このスタイルを村上春樹はレイモンド・チャンドラーに学んだと書いています。チャンドラーのルールは次のようなものでした。1日決まった時間だけデスクのタイプライターの前に座る。そこで物語を書く。それ以外のことはしてはいけない。手紙を書いたり、本を読んだりしてはいけない。ただ、書く。書くことが思いつかなくても、そのままじっとタイプライターの前に座っている。一定時間が経ったら、切り上げる。続きはまた明日。
同じことを作曲家の久石譲さんからも聴いたことがあります。作曲家の場合は毎日まずピアノの前に座る。そして決まった練習曲を何度か弾いて、指の訓練をする。それが終わったら「曲想が降りてくる」のを待つ。降りて来たらそれを記譜する。降りてこない日はそのままじっと待っていて、決められた時間が来たら、ピアノの蓋をして立ち去る。そういうもののようです。
村上春樹はこの聖務日課的な作業についてこう書いています。
「生まれつき才能に恵まれた小説家は、何をしなくても(あるいは何をしても)自由自在に小説を書くことができる。泉から水がこんこんと湧き出すように、文章が自然に湧き出し、作品ができあがっていく。努力する必要なんてない。そういう人がたまにいる。しかし残念ながら僕はそういうタイプではない。自慢するわけではないが、まわりをどれだけ見わたしても、泉なんて見あたらない。鑿(のみ)を手にこつこつと岩盤を割り、穴を深くうがっていかないと、創作の水源にたどり着くことができない。小説を書くためには、体力を酷使し、時間と手間をかけなくてはならない。作品を書こうとするたびに、いちいち新たに深い穴をあけていかなくてはならない。しかしそのような生活を長い歳月にわたって続けているうちに、新たな水脈を探り当て、固い岩盤に穴をあけていくことが、技術的にも体力的にもけっこう効率よくできるようになっていく。」(同書、64-65頁)
「穴を深くうがって」ゆくと、作家は「創作の水源」にたどり着く。村上春樹はそう書いています。さて、ここで言う「創作の水源」とはどのようなもののことなのでしょうか。長時間集中的に「物語を書く」という行為に没頭しているうちに鑿が「固い岩盤」を突き抜けて穴を穿った。いったい、そのときに作家は何に触れたのでしょう。それを村上春樹は「ある種の基層」と言い表しています。
「書くことによって、多数の地層からなる地面を掘り下げているんです。僕はいつでももっと深くまで行きたい。ある人たちは、それはあまりに個人的な試みだと言います。僕はそうは思いません。この深みに達することができれば、みんなと共通の基層に触れ、読者と交流することができるんですから。つながりが生まれるんです。もし十分遠くまで行かないとしたら、何も起こらないでしょう。」(「夢を見るために毎朝僕はめざめるのです」文藝春秋、2010年、155頁、強調は内田)
『羊めぐる冒険』を書いた時に、村上春樹はある「共通の基層」に触れた。それは世界文学の水脈のようなものだったのではないかと僕は思います。時代を超え、国境を越えて、滔々と流れている地下水流がある。それがさまざまな時代の、さまざまな作家たちを駆り立てて、物語を書かせてきた。それと同じ「水脈」を『羊をめぐる冒険』を書きつつある作家の鑿は掘り当てた。
というのは、『羊をめぐる冒険』を書かせた水脈は、それより前に、別の国で、別の作家に、別の物語を書かせていたからです。日本の文学の用語では「本歌取り」と言う技法があります。営みとしてはあるいはそれに似ているのかも知れません。でも、和歌の場合と違うのは、作家は意識して「本歌取り」をしたわけではないということです。水脈に身を委ねて書いているうちにいつのまにか「そういう物語」を書いてしまっていた。『羊をめぐる冒険』の直前に同じ水脈から生まれた物語とは何か。直近の「本歌」はレイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ(The Long Goodbye)』(1953年)です。
私立探偵フィリップ・マーロウがミステリアスでチャーミングな飲み友達であるテリー・レノックスが彼の前にから消えたときに託された「依頼」を果たすためにさまざまな危険を冒し、それを果たし終えたときに、テリー・レノックスとの決定的な別離が訪れる。そういう物語です。
話型の構造で言えば、マーロウは「僕」で、レノックスは「鼠」です。レノックスと「鼠」は主人公の分身、アルターエゴです。このアルターエゴの特徴は、弱さ、無垢、邪悪なものに対する無防備、それらの複合的な効果としての不思議な魅力です。それはこう言ってよければ、主人公が「今のような自分」になるために切り捨ててきたものです。主人公たちを特徴づける資質は、自己規律、節度、邪悪なものに対する非寛容といった資質です。タフでハードな世界を、誰にも頼らずに生き抜くためには、それなしではいられないような資質です。
対照的な二人ですけれど、主人公とアルターエゴには共通する資質もあります。それは、無私と礼儀正しさです。女性に対するある種の魅力も主人公には備わっていますが、それはアルターエゴのそれほど劇的なものではありません。特に「礼儀正しさ」(decency)は二人を結びつける決定的な共通点です。絶妙な距離感といったらよいのでしょうか。親しみ深く接してくれるし、必要な時には必ず手を貸してくれることはわかっているけれど、決してある境界線を超えて接近して来ない。そういう両者の距離が二人を結びつけています。決して必要以上に近づいてこないことがわかっているので、安心して近くにいることができる。そういう関係です。ですから、適切な距離を取ることができなくなったとき、つまり一方が他方に依存したり、何かを依頼したとき、彼らの関係は終わります。『ロング・グッドバイ』では、テリー・レノックスがマーロウに殺人事件の事後従犯となりかねない危険な仕事を依頼し、マーロウがそれを引き受けることで二人の友情は事実上終わります。『羊をめぐる冒険』では「鼠」が最後に主人公にある仕事を依頼して、主人公がそれを果したときにふたりの友情は終わります。
『羊をめぐる冒険』の「本歌」は『ロング・グッドバイ』です。勘違いして欲しくないのですが、それは村上春樹がレイモンド・チャンドラーを「模倣した」ということではありません。物語を書いているうちに、登場人物たちがそのつどの状況で語るべき言葉を語り、なすべきことをなすという物語の必然性に従っていたら「そういう話」になってしまった。それだけこの物語構造は強い指南力を持っていたということです。
村上春樹は物語を書くときに、どういう話にするのか、何も決めずに書き始めると語っています。この言明はそのまま信じてよいと思います。物語には必然的な流れがある。ある「ピース」が次の「ピース」を呼び出す。そうやってピースとピースを繋いでいるうちに、形状記憶が再生されるように、ひとまとまりの物語が立ち上がってくる。書いている時には「次に何が起こるか、書く前には決してわからないのですか?」というインタビュアーの問いに村上春樹はこう答えています。
「わかりませんね。僕は即興性を大事にします。もし、物語の結末がわかっているなら、わざわざ書くには及びませんね。僕が知りたいのはまさに、あとにつづくことであり、これから起こるできごとなんです。ある種の物語は、ページをめくるたびごとにたえず進化しつづけるものですが、そんな本を僕は書きたいんです。」(同書、159頁)
作家が知りたいのは「あとにつづくこと」であり、「これから起こるできごと」である。作家はあらかじめ物語の結末を知っているわけではありません。作家はそれを知らないけれど、物語はそれを知っている。作家は物語に導かれるのです。そうしたら、『羊をめぐる冒険』は『ロング・グッドバイ』と「同じ話」になった。
でも、僕が知る限り、小説の発表時点で、そのことを指摘した人はいませんでした。もちろん、「同じ」なのは、二つの物語が結びつく、ある「基層」においてだけのことであって、それ以外のすべての層において二つはまるで別の物語です。でも、この「基層」において、『羊をめぐる冒険』は世界文学の「水源」に触れたのでした。というのは、『ザ・ロング・グッドバイ』にもまた「本歌」があったからです。それはスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』(The Great Gatsby, 1925)です。
『ギャツビイ』の語り手ニック・キャラウェイとジェイ・ギャツビーの関係はフィリップ・マーロウとテリー・レノックスの関係と同じです。マーロウに比べて、ニックがあまりに弱々しく凡庸なので、この二つの「ペア」の相同性は見落とされがちですが、ニックはギャツビーの無垢、純粋さ、密やかな邪悪さ、自己規律の弱さを際立たせるために配されています。不実な恋人の犯した殺人の罪をかぶって「死ぬ」という奇妙な役どころをテリー・レノックスとジェイ・ギャツビーは共有しています。これほどの相似が偶然のものであるはずがありません。ただ、チャンドラーがフィッツジェラルドを意識的に模倣したのかどうか、それは僕にはわかりません。たぶん違うだろうと思います。この物語原型には作家たちを呼び寄せるそれだけの力があるのだという解釈の方を僕は選びたいと思います。
なぜ「この種の物語」は「複製」を生み出す力を持つのか。その問いに答える前に、もう一つ『グレート・ギャツビー』にも「本歌」があったということを指摘しておかなければなりません。それはアラン・フルニエの『グラン・モーヌ』です。
語り手のフランソワ・スレルは15歳、彼を魅了するオギュスタン・モーヌは17歳。オギュスタンはフランソワのアルターエゴです。純粋で、無謀で、情熱的で、破滅的な弱さを隠し持っている魅力的な少年です。彼は一瞬の恋に燃え上がって、そのまま燃え尽きるようにフランソワの前から姿を消してしまいます。Le grand Meaulnesを英語で表記すれば The great Meaulnes となります。タイトルの相似からだけでも、二つの作品の関係を想定することができます。『グラン・モーヌ』がフランスでベストセラーになっていた時期にフィッツジェラルドはパリに滞在していました。フィッツジェラルドがフルニエのこの小説について何も知らなかったということはありえません。
『グラン・モーヌ』が1913年、『グレート・ギャツビー』が1925年、『ロング・グッドバイ』が1953年、そして『羊をめぐる冒険』が1982年。70年の間に「世界文学の傑作」に数えられる作品が4つ書かれました。ご存知の通り、村上春樹は『ロング・グッドバイ』と『グレート・ギャツビー』は自分でのちに翻訳を出しています。『グレート・ギャツビー』の「訳者あとがき」に村上春樹はこう書いています。
「もし『これまでの人生で巡り会ったもっとも重要な本を三冊あげろ』と言われたら、考えるまでもなく答えは決まっている。この『グレート・ギャツビー』と、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』と、レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』である。」(スコット・フィッツジェラルド、『グレート・ギャッビー』、村上春樹訳、中央公論新社、2006年、333頁)
『ロング・グッドバイ』の「訳者あとがき」では、この二作品の相似について村上春樹は言及しています。
「僕はある時期から、この『ロング・グッドバイ』という作品は、ひょっとしてスコット・フィッツジェラルドの『グレード・ギャッビー』を下敷きにしているのではあるまいかという考えを抱き始めた。」(レイモンド・チャンドラー、『ロング・グッドバイ』、村上春樹訳、早川書房、2007年、547頁)
村上はこの二人の作家の共通点として、アイルランド系であること、アルコールの問題を抱えていたこと、生計を立てるために映画ビジネスにかかわったこと、「どちらも自らの確かな文体を持った、優れた文章家だった。何はなくとも文章を書かずにはいられないというタイプの、生来の文筆家だった。いくぶん破滅的で、いくぶん感傷的な、そしてある場合には自己愛に向かいがちな傾向も持ち合わせており、どちらもやたらたくさん手紙を書き残した。そして何よりも、彼らはロマンスというものの力を信じていた。」(同書、547-548頁)といった気質的なものを列挙していますが、もちろんそれだけのはずがない。二つの物語には共通の構造があることも指摘しています。
「そのような仮説を頭に置いて『ロング・グッドバイ』を読んでいくと、その小説には『グレート・ギャツビー』と重なり合う部分が少なからず認められる。テリー・レノックスをジェイ・ギャッビーとすれば、マーロウは言うまでもな語り手のニック・キャラウェイに相当する。(…)ギャッビーもレノックスも、どちらもすでに生命をなくした美しい純粋な夢を(それらの死は結果的に、大きな血なまぐさい戦争によってもたらされたものだ)自らの中に抱え込んでいる。彼らの人生はその重い喪失感によって支配され、本来の流れを変えられてしまっている。そして結局は女の身代わりとなって死んでいくことになる。あるいは疑似的な死を迎えることになる。
 マーロウはテリー・レノックスの人格的な弱さを、その奥にある闇と、徳義的退廃をじゅうぶん承知の上で、それでも彼と友情を結ぶ。そして知らず知らずのうちに、彼の心はテリー・レノックスの心と深いところで結びついてしまう。」(同書、550-551頁)
「主人公(語り手)はとくに求めもしないまま、一種の偶然の蓄積によって、いやおうなく宿命的にその深みにからめとられていくのだ。それではなぜ彼らはそのような深い思いに行き着くことになったのだろう? 言うまでもなく、彼ら(語り手たち)はそれぞれの対象(ギャツビーとテリー・レノックス)の中に、自らの分身を見出しているからだ。まるで微妙に歪んだ鏡の中に映った自分の像を見つめるように。そこには身をねじられるような種類の同一化があり、激しい嫌悪があり、そしてまた抗しがたい憧憬がある。」(同書、553頁)
この解釈に僕は付け加えることはありません。でも、村上春樹はこの「語り手」と「対象」の鏡像関係がそのまま『羊をめぐる冒険』の「僕」と「鼠」のそれであることについては言及していません。故意の言い落としなのか、それとも気づいていないのか。たぶん、気づいていないのだと思います。でも、どちらであれ、それは『羊をめぐる冒険』という作品が世界文学の鉱脈に連なるものであるという文学史的事実を揺がすことではありません。
むしろ重要なのは、なぜこの物語的原型がさまざまな作家たちに「同じ物語」を書かせるのかというより本質的な問いの方です。
これについての僕の解釈は、これらはどれも「少年期との訣別」を扱っているというものです。
男たちは誰も人生のある時点で少年期との訣別を経験します。「通過儀礼」と呼ばれるそのプロセスを通り過ぎたあとに、男たちは自分がもう「少年」ではないこと、自分の中にかつてあった無垢で純良なもの、傷つきやすさ、信じやすさ、優しさ、無思慮といった資質が決定的に失われたことを知ります。それを切り捨てないと「大人の男」になれない。そういう決まりなのです。けれども、それは確かに自分の中にあった自分の生命の一部分です。それを切除した傷口からは血が流れ続け、傷跡の痛みは長く消えることがありません。ですから、男子の通過儀礼を持つ社会集団は「アドレッセンスの喪失」がもたらす苦痛を癒すための物語を用意しなければならない。それは「もう一人の自分」との訣別の物語です。弱く、透明で、はかなく、無垢で、傷つきやすい「もう一人の自分」と過ごした短く、輝かしく、心ときめく「夏休み」の後に、不意に永遠の訣別のときが到来する。それは外形的には友情とその終わりの物語ですけれど、本質的にはおのれ自身の穏やかで満ち足りた少年期と訣別し、成熟への階梯を登り始めた「元少年」たちの悔いと喪失感を癒すための自分自身との訣別の物語なのです。
もちろんすべての男たちがそのような物語を切望しているわけではありません。そのような物語をとくに必要としない男たちもいます。「成熟しなければならない」という断固たる決意を持つことのなかった男たちはおのれの幼児性をそのままにひきずって外形的にだけ大人になります。私たちのまわりにもたくさんいます。外側は脂ぎった中年男であったり、不機嫌そうな老人であったりするけれど、中身は幼児のままという男はいくらでもいます。彼らは「アドレッセンスの喪失」を経験していないので、その喪失感を癒すための物語を別に必要とはしていません。
たぶん現代の世界ではもうどこの国でも「男は成熟しなければならない」という成熟への加圧は十分には働いていないのでしょう。ですから、このような物語に対する社会的需要がいつまで持続するかは予測がつきません。あるいはもうこの先このような物語は書かれないかも知れません。少なくとも日本語で書かれたものを徴する限りでは、『羊をめぐる冒険』からあと、これを「本歌」とする物語が書かれたことを僕は寡聞にして知りません。

系譜の話は以上です。次に構造の話をします。そして、先ほども申し上げたように、この二つは実は同じことを別のアプローチで述べるものです。
村上春樹は小説を書くという行為についてほとんど排他的に「穴を掘る」という比喩を使うとさきほど申し上げました。でも、別の比喩も使います。それは「地下二階」あるいは「井戸の底」におりるという比喩です。地下室の下に別の地下室がある。
「人間の存在というのは、二階建ての家だと僕は思っているわけです。一階は人がみんなで集まってごはん食べたり、テレビ見たり、話したりするところです。二階は個室や寝室があって、そこに行って一人になって本を読んだり、一人で音楽聴いたりする。そして、地下室というのがあって、ここは特別な場所でいろんなものが置いてある。(…)その地下室の下にはまた別の地下室があるというのが僕の意見なんんです。それは非常に特殊な扉があってわかりにくいので普通はなかなか入れないし、入らないで終わってしまう人もいる。ただ何か拍子にフッと入ってしまうと、そこには暗がりがあるんです。(…) その中入っていって、暗闇の中をめぐって、普通の家の中では見られないものを人は体験するんです。それは自分の過去と結びついていたりする、それは自分の魂の中に入っていくことだから。でも、そこからまた帰ってくるわけですね。あっちに行っちゃったままだと現実に復帰できないです。」(『夢を見るために・・・』、98頁)
作家とは地下二階に降りて、そこからまた帰ってくることのできる特殊な技能を具えた職能民であるというのが村上春樹の考え方です。「そういうこと」ができるのは別に物語を書く人に限られません。「自分の過去」に遡り、「自分の魂の中に」入り、そこで見聞きしたことを物語ることを本務とした人はたくさんいます。すべてのシャーマンたちがそうです。稗田阿礼のように口碑を口伝する人たちもそうですし、ホメロスのように叙事詩を暗誦する吟遊詩人たちもそうですし、「民族精神(フォルクスガイスト)」を称揚する作家たちもそうです。彼らがしていることは一言で言えば、死者たちと出会うことです。死者たちからの「贈り物」を受け取ることです。それは必ずしも心安らぐ経験ではありません。
「たとえば、『海辺のカフカ』における悪というものは、やはり、地下二階の部分。彼が父親から遺伝子として血として引き継いできた地下二階の部分、これは引き継ぐものだと僕は思うんです。多かれ少なかれ子どもというのは親からそういうものを引き継いでいくものです。呪いであれ、祝福であれ、それはもう血の中に入っているものだし、それは古代まで遡っていけるものだというふうに僕は考えているわけです。(…)そこには古代の闇みたいなものがあり、そこで人が感じた恐怖とか、怒りとか、悲しみとかいうものは綿々と続いているものだと思うんです。(…)根源的な記憶として。カフカ君が引き継いでいるのもそれなんです。それを引き継ぎたくなくても、彼には選べないんです。」(同書、115頁)
地下二階に降りた人々はそこで「古代の闇」のうちに踏み入ることになります。そして、それを「引き継ぐ」。その闇から戻ってきて、それを物語る。そこでの経験は学術的な説明を受け付けるものではありませんし、主題的に論じることもできません。ただ物語るしかない。「そこで人々が感じた恐怖とか、怒りとか、悲しみとかいうもの」は、いまも連綿と引き継がれて、現に私たちの感情生活を形成し、私たちのコスモロジーの梁をかたちづくり、私が世界を見る仕方そのものを規定しているからです。「古代の闇」はそのまままっすぐ「現代の闇」に繋がっています。闇の中に踏み入った者はそこで何を見ることになるのか。
「暗闇に侵入したあなたはそのとき恐ろしくなるでしょうが、また別のときにはとても心地よく感じるでしょう。そこでは、奇妙なものをたくさん目撃できます。目の前に形而上学的な記号やイメージがつぎつぎに現れるんですから。それはちょうど夢のようなものです。無意識の世界の形態のようなね。けれどもいつか、あなたは現実世界に帰らなければならない。そのときは部屋から出て、扉を閉じ、階段を昇るんです。(…)僕にとって、この空間の中にいるのはとても自然なことで、それらのものはむしろ自然なものとして目に映ります。こうした要素が物語をかくのをたすけてくれます。作家にとって書くことは、ちょうど目覚めながら夢を見るようなものです。それは、論理をいつ介入させられるとはかぎらない。法外な経験なんです。夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです。」(同書、156-157頁)
この箇所を読んだときに、多くの読者は『騎士団長殺し』の後半で「私」が雨田具彦のいる老人養護施設の床に穿たれた穴から潜り込んでいった「メタファー通路」での経験を思い出すことでしょう。あるいは『海辺のカフカ』でカフカ少年が踏み込んでゆく「森の中核」での経験を。そこに描かれている一連の説明不能のものは、作家が文学的効果を狙って技巧的にしつらえた装飾的なミスティフィケーションではなく、おそらく作家「目覚めながら見た夢」なのだと思います。それが何を意味するのかは書いている作家自身わからない。それが何を意味するのかを知りたいからこそ作家は書いている。そういうことだと思います。
この闇の中に下ってゆき、また戻ってくる物語、「冥界下り」という物語もまた、人類の歴史と同じだけ長い系譜を有するものです。でも、ここでは日本の近世文学以降に時代を限って、その系譜をたどってみたいと思います。
先の引用中で「古代の闇」と言われたものを別のところで村上春樹は「前近代の闇」と言い換えています。日本の近代文学が否定し去ったものです。そして、自分自身はその闇を語るという点で上田秋成の直系に連なるということを認めています。
「『雨月物語』なんかにあるように、現実と非現実がぴたりときびすを接するように存在している。そしてその境界を超えることに人はそれほどの違和感を持たない。これは日本人の一種のメンタリティーの中に元来あったことじゃないかと思うんですよ。それをいわゆる近代小説が、自然主義リアリズムということで、近代的自我の独立に向けてむりやり引っぱがしちゃったわけです。個別的なものとして、『精神的総合風景』とでもいうべきものから抜き取ってしまった。」(同書、93-94頁)
近現代の文学においてももちろん「非現実」は描かれます。けれどもそれはあくまで現実から切り離された、一種の文学的意匠であり、作中で登場人物が見る夢とか幻想とかあるいは劇中劇とか誰かが書いたファンタジーというような「額縁」がつけられており、現実と非現実が境界を越えて、同じ次元で混ざり合うことには厳重な方法的抑制が課されています。しかし、村上春樹は自由にこの境界線を行き来することこそが日本文学の骨法ではないかという大胆な仮説を語ります。
『海辺のカフカ』の中の「非現実的」な登場人物について村上春樹はそれは「存在する」と書いています。
「僕が読者に伝えたかったのは、カーネル・サンダースみたいなものは実在するんだということなんです。彼は必要に応じて、どこからともなくあなたの前にすっと出て来るんだ、ということ。それこそタンジブルなものとして、そこにあるんです。手を延ばせば届くんです。僕は彼を立ち上げて、彼について書くことを通して、そういう事実を読者に伝えたいわけです。」(同書、127―8頁)
「僕の場合は、(…)そういう現実と非現実の境界のあり方みたいなところにいちばん惹かれるわけです。日本の近代というか明治以前の世界ですね。(…)日本の場合は自然にすっと、こっち行ったりあっち行ったり、場合に応じて通り抜けができるんだけれど、ギリシャ神話なんかの場合は、本当に自分の考え方とか存在の在り方の組成をガラッと変換させないと向こう側の世界に行けない。」(同書、94頁)
東洋と西洋では現実と非現実を隔てる「壁の厚さ」が違う。このことに村上春樹の自らの文学的的立場についての自覚が現れます。
「日本や中国では、並行する二つの世界があって、そのあいだにある架け橋が、一方の世界から他方の世界への移動を難しくしすぎないようにしている、と考えられています。西洋ではそんなわけにはいきませんよね。この世界はこの世界、あの世界はあの世界、といった具合になっています。分離は厳格です。乗り越えるにしては、壁はあまりにも高すぎ、あまりにもしっかりしています。しかしアジア文化は違うんです。僕が思うに、〈もののあわれ〉が描いているのは、こうした状況です。」(同書、157-158頁)
村上春樹はここで唐突に「もののあはれ」という古典文学の美的概念を持ち出してきました。僕はこれは直接には『源氏物語』のことを指しているのだと思います。『源氏物語』というのは「こうした状況」、つまり二つの世界の間にかなり自由な行き来がなされる状況の物語ではないか。そして、それこそが日本文学の正系につらなる物語ではないのか。
村上春樹はかつて河合隼雄にこんな質問を向けたことがありました。
「村上 あの源氏物語の中にある超自然性というのは、現実の一部として存在したものなんでしょうかね。
河合 どういう超自然性ですか?
村上 つまり怨霊とか…
河合 あんなのはまったく現実だとぼくは思います。
村上 物語の装置としてではなく、もう完全に現実の一部としてあった?
河合 ええ、もう全部あったことだと思いますね。だから、装置として書いたのではないと思います。」(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』、岩波書店、1996年、123-124頁)
この対談があった時点(1995年)では村上春樹は自分の作品の中で、境界を越えて非現実が侵入してくることは、一種の「装置」、一種の文学的技巧ではないのか(でも、そんなはずはない)という揺らぎのうちにあったことが言葉づかいからは窺えます。でも、このときの「あんなのはまったく現実だとぼくは思います」という河合隼雄の断定でふっきれた。
それは『源氏物語』の中の怨霊の物語が、それからのちに村上春樹のいくつかの作品に意匠を換えて繰り返し登場してくることからも知れます。六条の御息所の生霊が葵上を祟り殺すというのは『源氏物語』の中で最もカラフルな怨霊物語ですけれど、これは六条の御息所という高貴な女性が「嫉妬」という筋目の悪い感情を抱くことを拒絶したことから起こる惨劇です。
これに物語的にもっとも近いのは短編集『女のいない男たち』に収録されている「木野」です。
木野は「会社でいちばん親しくしていた同僚と妻が関係を持っていたことがわかった」ときにひとり家を出て、会社も辞めます。そして伯母から青山の小さな喫茶店を譲り受けて、オーディオ装置に凝ったジャズバーを始めます。
「別れた妻や、彼女と寝ていたかつての同僚に対する怒りや恨みの気持ちはなぜか湧いてこなかった。もちろん最初のうちは強い衝撃を受けたし、うまくものが考えられないような状態がしばらく続いたが、やがて『これもまあ仕方ないことだろう』と思うようになった。結局のところ、そんな目に遭うようにできていたのだ。」(「木野」、『女のいない男たち』、文藝春秋、2014年、221頁)
木野は「怒りや恨み」を感じません。「痛みとか怒りとか、失望とか諦観とか、そういう感覚も今ひとつ明瞭に知覚できない」(同書、221頁)まま日を過ごすうちに、木野のまわりに異変が起こり始めます。客同士の陰惨なトラブルがあり、体中に煙草の焼け跡のある女と交わり、開店のときに「良い流れ」を運んできてくれたように思えた猫が姿を消し、邪気を帯びた蛇たちが姿を見せ始めます。そして、ある日店の「守護者」の役割を果たしていたカミタという客から店を閉めるように忠告されます。木野はその忠告をこう解釈します。
「カミタさんが言うのは、私が何か正しくないことをしたからではなく、正しいことをしなかったから、重大な問題が生じたということなのでしょうか? この店に関して、あるいは私自身に関して」(同書、248頁、強調は村上)
木野はカミタの忠告に従って旅に出ますが、「カミタに固く禁じられていた」私信をしたためるという禁忌を犯したせいで深夜のホテルの部屋に執拗なノックの音を呼び寄せてしまいます。そのとき木野は自分が何を招き寄せたのかを知ります。
「『傷ついたんでしょう、少しくらいは?』と妻は僕に尋ねた。『僕もやはり人間だから、傷つくことは傷つく』と木野は答えた。でもそれは本当ではない。少なくとも半分は嘘だ。おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ、と木野は認めた。本物の痛みを感じるべきときに、おれは肝心の感覚を押し殺してしまった。痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続けることになった。」(同書、256-257頁、強調は村上)
物語は木野が「そう、おれは傷ついている、それもとても深く」(同書、261頁)と認めたところで救いの予感のうちに終わります。
傷つくべきときに十分に傷つき、痛切なものを引き受けること。それが怨霊を解き放たないためには必要なことだったのでした。六条の御息所がその引き受けを拒絶した「妬心」は人一人を殺すほどの現実的な力を持ちました。木野がその引き受けを拒絶した「妬心」は彼自身に戻ってきます。
この物語を書きながら村上春樹は自分が『源氏物語』の世界と地続きの文学的風土のうちにいることに十分に自覚的だったと僕は思います。
村上春樹が過去の日本人作家としてはっきりとした「地続き」感を持っているのは上田秋成です。そのことは作家自身がいくどか書いています。
そして、まったく別の文脈においてですが、江藤淳は、上田秋成の文学の本質は「闇」のうちにあるという指摘をしています。
秋成もまた現実と非現実の境界を行き来する経験を書き続けた作家でした。秋成は現実にはそこに存在しないにもかかわらず、濃密な実在感をたたえ、人間の生き死ににかかわるもののことをかつて「狐」と呼びました。狐憑きの狐、人をたぶらかす妖獣です。そういうものが秋成の時代の人々の日常生活のうちにはたしかなリアリティを持って存在していた。けれども、当時でも、知識人たちは妖怪狐狸についての物語を荒唐無稽と一蹴しました。彼らの見るところ「狐憑き」はただの精神病に過ぎません。その中にあって、秋成はあえて「狐」を擁護する立場を貫きました。その秋成の立ち位置について江藤淳はこう書いています。
「儒者の眼に見えるのは、病気という概念であって、『狐』という非現実の現存がもたらす圧力ではない。しかし、いったんアカデミイの門を出てみれば、『うきよ』に顔をのぞかせるのはつねに概念ではなくて、『狐』に憑かれた人間の奇怪な、しかし秩序の拘束のなかにいる『精神(ココロモチ)平常』なときにはたえてみられないほど濃い実在感に満ちた姿態である。あるいはまた、どうしても認めざるを得ない非現実の世界からのさまざまな信号である。」(江藤淳、『近代以前』、文藝春秋、1985年、238頁)
秋成自身はありありと「狐」の実在を感じました。学者や常識人がどれほど否定しても、市井の人々が現にその切迫を感じ、「非実在の現存がもたらす圧力」を受け止めたり、それから身をかわしながら現に日々の生活を送っているという事実は揺るぎません。
「誰の眼にも見えぬこの動物ほど濃い実在感をあたえるものを、秋成は外界の現実のなかにひとつもみとめることができなかった。」(同書、240頁) 
「狐」は秋成が彼の地下二階で出会った「奇妙なもの」の別称です。その地下の「闇」のうちで「人が感じた恐怖とか、怒りとか、悲しみ」、その「根源的な記憶」を作品に写し出したときに『雨月物語』という作品が生まれました。それはもしかすると東洋人の作家にしかうまく書くことのできない物語だったのかもしれません。その「闇」には太古からこの地で生き死にした無数の人々の記憶が埋蔵されているからです。
そして、江藤淳は日本語について、こう書いています。
「それは、現在までのところ沖縄方言以外に証明可能な同族語を持たぬとされている特異な孤立言語であり、時代によって、あるいは外来文化の影響をうけてかなりの変化を蒙って来てはいるが、なお一貫した連続性を保って来たものである。しかもそれは虚体であって実体ではない。ということは、私はそれを自分の呼吸のようなものとして、あたかも呼吸が自分の生存と存在の芯に結びついているように自分の存在の核心にあるものとして、信じるほかないということだ。」(同書、23〜24頁)
たしかに私たちは外国語によって対話することはできますし、ある程度リーダブルな文章を書くこともできます。でも、よほど例外的な才能を除いては、外国語によって文学的な「創造」をすることはできません。それは母語によってしかできない。私たちは母語を糧として生きています。その無尽蔵のアーカイブから、私たちは死者たちの脳裏にかつて一度も浮かんだことのない思念や、死者たちの舌にかつて一度も乗ったことのない言葉を掘り起こしてくることができます。母語のアーカイブの深みのうちで、私たちは(レヴィナスの言葉を借りて言えば)「一度も現在になったことのない過去」に出会うのです。
私たちが「新語」を作ることができるのは母語においてだけです。「新語」とはただの新しい単語のことではありません。それを口にしたときに、他の母語話者たちが、はじめて聞くその新しい語の新しい意味とそのニュアンスを瞬時に了解できるという条件を満たさなければなりません。そのような曲芸的なことを私たちは母語においてしか実行できません。どれほど流暢に話せても、外国語で新語を作ったり、その場で思いついた文法的な破格や意図的な誤用や新しい音韻のニュアンスを周囲の人たちに瞬時に理解させることはできません。それは母語においてのみ可能なわざだからです。それが可能なのは、現に用いている言語の基層に、その何万倍もの奥行きと深みを持つ「死者たちと共有する言語」のアーカイブが存在しており、私たちはそれを利用することが許されているからです。こう言ってよければ、死者たちと言語を共有しているからこそ言語による創造が可能になるのです。
村上春樹は長く海外で生活をしており、執筆も海外でしていました。けれども『ねじまき鳥クロニクル』を書き上げたときに日本に帰ることを決意します。
「どうしてだかわからないけれど、『そろそろ日本に帰らなくちゃなあ』と思ったんです。最後はほんとうに帰りたくなりました。とくに何が懐かしいというのでもないし、文化的な日本回帰というのでもないのですが、やっぱり小説家としての自分のあるべき場所は日本なんだな、と思った。
というのは、日本語でものを書くというのは、結局思考システムとしては日本語なんです。日本語自体は日本で生み出されたものだから、日本というものと分離不可能なんですね。そして、どう転んでも、やはり僕は英語では小説は、物語は書けない。それが実感としてひしひしとわかってきた、ということですね。」(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』、37—38頁)
江藤淳はプリンストン大学で日本文学を講じた時期がありました。アメリカでの生活を通じて、英語で話し、英語で書き、英語で考えることに慣れたあとに、江藤は日本語という「沈黙の言語」の外では自分は創造ができないということに気づきます。
思考が形をなす前の淵に澱むものは、私の場合あくまでも日本語でしかない。語学力は習慣と努力によってより完全なものに近づけられるかも知れない。(…)しかし、言葉は、いったんこの『沈黙』から切りはなされてしまえば、厳密には文学の用をなさない。なぜなら、この『沈黙』とは結局、私がそれを通じて現に共生している死者たちの世界-日本語がつくりあげて来た文化の堆積につながる回路だからである。このような言葉の世界に『近代』と『近代以前』の人為的な仕切りを設けることは不可能である。私はむしろ連続を問題にしなければならない。」(江藤淳、前掲書、29-30頁、強調は内田)
この文章を書いたときの江藤淳はその五十年後に「近代と前近代の人為的な仕切り」を軽々と越境する作家が登場して、全世界に読者を獲得することをまだ知りません。でも、まさに「地下二階」の闇のうちに踏み込むことを自らの文学的方法として自覚した作家の登場によって、江藤の文学的直感の正しさは論証されることになったのでした。

以上、村上春樹文学の系譜と構造について、僕自身のアイディアのいくばくかをお話ししました。最初に申し上げた通り、これらのアイディアはとくに学術的に厳密なものではありません。ですから、僕はこれを「定説」として頂きたいというような無法なことを願っているわけではありません。僕の願いは、こういうアイディアを耳にした人たちがそれに触発されて、村上春樹作品の「新しい読み」を思いついてくれること、それによってこの作家の書く物語からできるだけ多くの愉悦と、そしてできることならいくばくかの癒しを引き出すことに尽くされます。
(これは2017年4月14日、淡江大学村上春樹研究センターにおいての講演に大幅な加筆をしたものです)