役に立つ学問

2017-03-30 jeudi

『大学出版』という媒体の「役に立つ学問?」という特集に寄稿した。わりと特殊なメディアなので、ブログでも紹介しておく。

役に立つ学問とは何か。
    
「役に立つ学問」とは何のことなのだろう。
そもそも学問は役に立つとか立たないとかいう言葉づかいで語れるものなのか。
正直に申し上げて、私はこういう問いにまともに取り合う気になれない。というのは、こういう設問形式で問う人は、一般解を求めているようなふりをしているけれど、実際には「その学問は私の自己利益の増大に役に立つのか?」を問うているからである。
だから、にべもない答えを許してもらえるなら、私の答えは「そんなの知るかよ」である。何を学ぶかは自分で判断して、判断の正否についての全責任は自分で取るしかない。「役に立つ」ということには原理的に一般性がないからである。

すべての学問やテクノロジーの有用性は地域限定的・期間限定的である。ある空間的閉域を離れれば、あるいはある歴史的環境を離れたら、それはもう有用ではなくなる。空間の広狭、期間の長短に多少の差はあるけれど、結局は「程度問題」である。
それどころか、ある人にとっての「有用」はしばしば別の人にとっての「無用」や「有害」でさえある。例えば、兵器産業は有用か。この問いに即答できる人がどれだけいるだろうか。兵器を開発し、市場に投じ、それによって大きな収益を上げた企業や、その会社の株を買って儲けた投資家や、その企業から法人税を徴収して国庫に収めた国家や、その企業で雇用された従業員にとって兵器産業はたしかに有用であるだろう。けれども、そうやって兵器の機能が向上し、手際のよい営業活動によって、廉価で高性能の兵器が世界中に広くゆきわたったせいで「殺されやすくなった」人たちが他方にはいる。家を焼かれ、家族を殺された人に向かって「兵器産業は有用でしょうか」と訊いても肯定的な答えは得られないだろう。
原子力発電事業は有用か。これも難問だ。この先日本列島でまったく地震も津波もテロもなく、早い段階で放射性廃棄物の完全な処理技術が確立し、かつ電力需要がこのまま高い水準で推移するという条件がすべて満たされた場合、原子力発電事業は有用であるだろう。けれども、そのどれか一つの条件でも満たされない場合、この事業は「無用」から「非常に有害」の間のどこかに位置づけられることになる。現段階では予測できない条件によって有用物がいきなり有害物に転化するようなものについて現段階でその「有用性」や「価値」を論じることにはたぶん意味がない。
もっと穏当な喩えでもよい。英語教育は有用か。簡単そうだが、これも即答することはむずかしい。外国語教育の有用性もまた歴史的条件の関数だからである。
現在、英語教育が有用であるのは過去2世紀以上にわたって英米という英語話者の国が世界の覇権国家だったからである。それ以外の理由はない。現代の世界で生き延びる上で重要かつ有用なテクストの多くが英語で書かれているのは事実だが、それは英語圏に例外的に優秀な人々が生まれたからではなく、英語が覇権国家の言語だからである。
アメリカはこれからもしばらくは軍事的にも経済的にも大国であり続けるだろう。だが、「パクス・アメリカーナ」の時代もいずれ終わる。その後にどの国が指導的な地位を占めることになるのかは誰にも予想がつかない。ロシアかも知れない。中国かも知れない。ドイツかも知れない。その場合、私たちはどれかの強国の国語を新たな「リンガフランカ」として学ぶことをたぶん強いられる。
私が学生だった頃、理系の学生たちの多くが第二外国語にロシア語を履修していた。それは1960年代まで、自然科学のいくつかの分野ではソ連が欧米に拮抗ないし凌駕していたからである。しばらくして、ソ連の学術的没落とともにロシア語履修者は地を払った。そういうときの学生たちの見限り方の非情ぶりに私は少し感動した。同じことが英語について起こるかも知れないと私は思っている。いずれロシア語や中国語やドイツ語やアラビア語に熟達している人たちがその「希少価値」ゆえに英語話者より重用されるという日が来るかも知れない。その可能性は高い。現にもうすでに、一部の若者たちの間ではアラビア語やトルコ語学習が静かなブームになっている。彼らは独自の嗅覚で手持ち資源を効果的に投ずべき先を手探りしているのである。そして、彼らの予測が外れたとしても、彼らは失った時間と手間の返還を誰に対しても求めることはできない。
そもそも私たち日本人こそ「リンガ・フランカ」の脆さを骨身にしみて経験しているはずである。漢文の読み書きができることは古代から日本人の知識人にとって大陸渡来の新しい学問を学ぶための必須の知的ツールであった。それは遣隋使小野妹子の時代から、朝鮮通信使を対馬に迎えた雨森芳州の時代まで変わらない。漢文は日本ばかりか、東アジア全域において基礎的なコミュニケーション・ツールであった。だから、どこの国を旅しても、知識人同士は、懐から矢立てと懐紙を取り出して、さらさらと文を認めれば互いに意を通じることができたのである。漢文運用能力はとりわけ近代以降にその威力を発揮した。中江兆民はルソーの『民約論』を日本語訳すると同時に漢訳もした。だから、多くの中国人知識人は兆民を介してフランスの啓蒙思想に触れることができた。樽井藤吉は日本と朝鮮の対等合併を説いた『大東合邦論』を漢語で書いたが、それは彼が日本・朝鮮二国のみならず広く東アジア全域の読者を想定していたからである。宮﨑滔天も北一輝も内田良平もかの「アジア主義者」たちは、中国・朝鮮の政治闘争に直接コミットしていったが、おそらく彼らの多くはオーラル・コミュニケーションではなく「筆談」によってそれぞれの国での組織や運動にかかわったはずである。こういう姿勢のことをこそ私は「グローバル」と呼びたいと思う。
近代まで漢文は東アジア地域限定・知識人限定の「リンガフランカ」であった。それを最初に棄てたのは日本人である。こつこつ国際共通語を学ぶよりも、占領地人民に日本語を勉強させるほうがコミュニケーション上効率的だと考えた「知恵者」が出てきたせいである。自国語の使用を占領地住民に強要するのは世界中どこの国でもしていることだから日本だけを責めることはできないが、いずれにせよ自国語を他者に押し付けることの利便性を優先させたことによって、それまで東アジア全域のコミュニケーション・ツールであった漢文はその地位を失った。日本人は自分の手で、有史以来変わることなく「有用」であった学問を自らの手で「無用」なものに変えてしまったのである。
戦後日本の学校教育も戦前と同じく「コミュニケーション・ツールとしての漢文リテラシーの涵養」に何の関心も示さなかった。さらに韓国が(日本の占領期に日本語を強要されたことへの反発もあって)漢字使用を廃してハングルに一元化し、さらに中国が簡体字を導入するに及んで、漢文はその国際共通性を失ってしまった。千年以上にわたって「有用」とされた学問がいくつかの歴史的条件(そのうちいくつかはイデオロギー的な)によって、短期間のうちにその有用性を失った好個の適例として私は「漢文の無用化」を挙げたいと思う。
私が言いたいのは、ある学問が有用であるかどうかを決するのは、学問そのものの内在的価値ではなく、またその経験的に確証された有用性でもなく、多くの場合、パワーゲームにおいて、その時点で力を持っているプレイヤーの利害だということである。それ以外の要素はおしなべて副次的なものに過ぎない。

もうこれで結論は出ているので、これ以上書くことは特にない。でも紙数が大幅に残ったので、あとは余計なことを書く。
現代は世界どこでも英会話能力が「役に立つ学問」の最たるものとされているが、これを果たして「実学」と呼んでいいのかということを論じてみたい。先に述べた通り、英語がリンガフランカであるのは、いくつかの歴史的条件によってそうなっているだけのことであって、いずれそうではなくなる。それがいつかはわからないけれど、いずれ英語はローカルな一言語になる。
そもそも、現在日本で暮している人たちの多くにとって英会話能力はとくに緊急性の高いものではない。ふつうの生活者に英語で話す機会はほとんどない。ときどき、「外国人に道を聞かれたときに、教えられるように」というようなことを言う人がいるが、「外国人に道を聞かれる」というようなことがどの程度の頻度で起きるのか。思い返しても、私が外国人に道を聞かれたことは過去に一度しかない。十年ほど前、芦屋駅の近くで「駅はどこか」と聞かれた。おまけにそれはフランス語であった。私は「その角を右に曲がる」と初級フランス語の三頁目くらいに出てくる文型を以て答えたが、「アシヤ」が聴き取れれば、無言で手を引っ張ってゆけば済んだ話である。
異郷で困惑している人に手を差し出すというのはたいせつなことである。でも、そのためにまず必要なのは「人として」の惻隠の情であって、外国語運用能力ではない。けれども、まことに不思議なことだが、本邦では「困っている人に手を差し伸べること」の重要性を学校で厳しく教えるということはない。人としてのまっとうな態度を社会的格付けに適用するということもない。圧倒的な重要性が付与されているのは英会話能力に対してなのである。
はっきりと英会話能力が求められているのは経済活動の領域においてである。インバウンドの観光客を接待するホテルやレストランや店舗において、あるいは海外市場でセールスを行うビジネスマンや、海外の生産拠点で経営や労務管理を担当する人たちにとって英語は必須のツールであろう。その必要性を私は十分に理解している。けれども、どれほどの能力を持った人間がどれほどの人数必要なのか、その数値目標にどれほどの積算根拠があるのか、私は説得力のある話を聞いたことがない。
文科省が2013年に発表した「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」は小学校三年からの英語教育開始を指示したことで話題になったが、この計画によると中学では英語の授業は英語で行うことを基本とする。高校では「幅広い話題について抽象的な内容を理解できる、英語話者とある程度流暢にやりとりができる能力を養う。授業を英語で行うとともに、言語活動を高度化(発表、討論、交渉等)」することがめざされ、達成目標として「高校卒業段階で英検2級~準1級、TOEFL57点程度以上等」が掲げられている。
日本中の高校生に高校卒業時点で「英検2級から準1級」というのは正直に言ってありえない数値目標だと思う。それがどの程度の英語学力を要するものかを知りたい人はネットで検索すれば過去問がすぐに読めるので、自分で解答を試みられたい。ご覧頂ければわかるが、日常的に英語を浴びるように読み、聴く、理解できない点についてはこまめに辞書を引き、疑問点は先生に質問し・・・という生活をしていないと、ふつうの高校生がこのレベルには達することはできない。
他の教科の場合、そのような真摯な学習態度で高校の授業に臨んでいる生徒はほとんどいないという現実を知った上で、英語についてだけこのような要求をすることを「異常」だと思わないとしたら、その人の方がよほど「異常」である。
「計画」には高校卒業時点での達成として「幅広い話題について抽象的な内容を理解できる、英語話者とある程度流暢にやりとりができる能力を養う」とあるが、そもそも日本語によってでさえ「幅広い話題について抽象的な内容を理解できる」高校生がどれだけいるのか。2016年の調査によれば、10代の新聞閲読率(閲読とは「一日15分以上、チラシや電子版を含めて新聞を読むことをいう)は4%である。わずか4%である。マスメディアに対する不信感が募っている時代にあって、この数字はこの先さらに減少することはあっても、V字回復するとは思われない。
たしかに高校生たちは終日スマホに見入っているが、それは別に電子版のニュースで国際情勢や国会審議を注視しているわけではないし、ツイッターやラインで政治的意見を交換したり、日本経済のゆくえについての懸念を語り合っているわけでもない。日本語でさえ「幅広い話題について抽象的な内容を理解」することに困難を覚えている人たちが外国語でそれができるはずがない。そんなことは誰でもわかる。ではなぜ、日本語での読解能力・対話能力の低下が深刻な問題となっている状況下で、英語で「幅広い話題について抽象的な内容を理解」するというような目標を掲げることに優先性があり、かつその目標が達成可能だと信じられるのか。そういう計画を立てることのできる人々の頭の中身が私にはどうしても理解できない。
私に分かるのは、この計画の起案者たちが高校卒業までに子どもたちが使える教育資源の多くを英会話に投じることの必要性について自分の頭を使って考えたことがないということである。すでに現場から悲鳴が上がっているように、小学校への英語教育の導入・必修化によっては教員の業務が量的にも質的にも増大する。「バーンアウト」寸前の教育現場にさらなる負荷を課し、教員たちも児童たちも疲れ切った状態に追い込んでまでなぜ英語教育を重視するのか。なぜ達成できるはずのない到達目標を掲げてみせるのか。この「実学」への過剰な教育資源の分配の合理的理由を語ってくれる人に私はまだ会ったことがない。
英語運用能力については、その有用性について誰一人異論を口にしない。けれども、その期待される有用性とその学習努力のために投じられる手間暇を「ベネフィット」と「コスト」で計算した場合、帳尻は合うのか。「実学」を論じる人たちの経済合理性に対するこの無関心に私は驚愕するのである。

そもそも実学というのは平たく言えば、「教育投資が短期的かつ確実に回収されるような知識や技術」のことではなかったのか。学習努力という「コスト」がただちに就職率や年収やポストといった「ベネフィット」として回収されるものを私たちの社会では「実学」と呼んでいるはずである。数学や天文学や古生物学や地質学は間違いなくかなり広い範囲で、また長期にわたって有用な学問でありうると私は思うが、これを誰も「実学」とは呼ばない。「金にならない」と思われているからである。学の虚実を格付けしているのは、コンテンツの良否ではなく、「教育投資の短期的かつ確実な回収が可能かどうか」だけである。そして、それは市場における当該知識・技能についての「需給関係」で決まり、学知そのものの価値とは関係がない。
以前私より二十歳ほど年長のビジネスマンと会食したときに、彼が大学在学中最も人気のあった理系学科は何だか知っているかと聞かれた。わからないと答えると「冶金学科」だと教えてもらった。製鉄業が日本経済を牽引していた時代だったのである。今の学生たちは「冶金」という文字さえもう読めないだろうが、冶金についての知識に市場が最高値をつけたのは今からわずか60年ほど前の話なのである。製鉄や造船や建設が日本経済の花形業界であった時代がしばらく続き、それから流通やサービス業が人気業種になり、金融や広告やマスコミに若者が集まるようになり、それからITと創薬と貧困ビジネスと高齢者ビジネスの時代になった。それぞれ人気のある業界で「即戦力」として使用できる知識や技能が「実学」と呼ばれたけれど、その栄枯盛衰はめまぐるしかった。だから、私たちもあと十年後には何が実学になるのか予測することができない。Apple やGoogleが十年後に存在しているかどうかさえ誰にもわからない時代なのだから、十年後の「実学」が予測できるはずがない。

もう少し身近な話をしよう。私が大学に在職していた頃、「女子大に薬学部を作る」ということがトレンドになったことがあった。ご記憶の方も多いだろうが、コンサルタントがあちこちの大学に学部創設のプロジェクトを持ちかけた。そのときに強調されたのは、薬学部なら6年通うから授業料収入が1.5倍になるという「金目の話」と、女子の「実学志向」と言われるものだった。「当今の女子学生の母親たちは娘が手に職をつけることを強く望んでいる。母親たちは娘たちに経済的自立という自分が果たせなかった夢を託す傾向にある。だから、娘たちには医学部・歯学部・薬学部を狙わせるのだ」という説明にはなかなか説得力があった。そして、その三つの中では薬学部が立ち上げコストが一番安かったので、いくつかの大学がその計画に乗った。
その結果、短期間にそれまで46校で安定していた薬学部が74校に急増し、薬科大学・薬学部の総定員は13000人に達した。不幸なことに、これは市場の「ニーズ」に対して供給過剰であった。結果的に多くの学部が定員割れになった。その一方、出口に当たる薬剤師国家試験の合格率は低いままだった。50%を切った年もあるが(2010年)、ここしばらくは60~70%台で推移している。つまり、薬学部に入ったが卒業できなかった学生、卒業したが国試に通らなかった少なからぬ数の学生が存在するということである。そして、彼ら彼女らにとって、この学問は「教育投資が短期的かつ確実に回収」できなかった以上「実学」ではなかった。誰が考えても薬学は有用な学問である。けれども、言葉の精密な定義に従えば「実学」ではない。一般論としては「役に立つ学問」であるけれど、それを学んだけれど国試に通らなかった学生にとっては個人的には「無用の学問」だったことになる。
だから、「〇〇は実学か」という問いを当該学問の内在的な価値に求めても虚しいことだと先ほどから言っているのである。「実学度」は市場の需要と大学の卒業生供給の関数であり、それ以外のファクターは副次的なものに過ぎない。
その意味では実学の度合いは株価とよく似ている。「株取引は美人投票の高得票者を当てるゲームだ」という言い方がしばしばされる。自分の審美的基準はとりあえず棚に上げておいて、「みんなが誰を美人だと思うか」を推測する。自分の主観を封じて、「世の人々が欲望するもの」を正しく言い当てたものが株の売り買いのゲームの勝者になる。「実学」ゲームもたぶんそれと同じである。自分が何を勉強したいのか、何を知りたいのか、どんな技能を身につけたいのかといったことは「棚に上げて」、「市場ではどういう知識や技能に高値がつくか」を読み当てたものがとりあえず「実学ゲーム」の勝者になる。
ただし、勝者が勝者であり続けられる期間はあまり長くない。だんだん短くなっている。それだけの話である。

私は「役に立つ学問」というものに興味がない。それを識別することに何か意味があると思っている人にも興味がない。それはたぶん「お前のやっていることは何の役にも立たない」と若い頃から言われ続けてきたせいである。自分でも「そうかもしれない」と思っていたから反論もしなかった。でも、自分にはぜひ研究したいことがあったので、大学の片隅で気配をひそめて「したいこと」をさせてもらってきた。私が30年にわたって「何の役にも立たないこと」を研究するのを放置していてくれた二つの大学(東京都立大学と神戸女学院大学)の雅量に私は今も深く感謝している。私が選んだ学問領域は四十年にわたって私に知的高揚をもたら続けてくれた。私はそれ以上のことを学問に望まなかったし、今も望んでいない。