大統領が就任したときの日本人

2017-02-04 samedi

8年前のオバマ大統領の就任式のあとに書いた文章が『日本辺境論』に含まれている。
模試に使われたので、コピーが送られてきた。読んだら、なんだか今になると身につまされる話だったので、その部分を再録しておく。

オバマ大統領の就任演説のあと、感想を求められたわが国の総理大臣は「世界一位と二位の経済大国が協力してゆくことが必要だ」というコメントを出しました。これは典型的に「日本人」的な発言だと言ってよいでしょう。「日本は世界の中でどのような国であるか」ということを言おうとしたとき、首相の脳裏にまず浮かんだのが「経済力ランキング表」のイメージであったというのはまことに徴候的です。もし、日本が軍事力でもいい順位にあれば、あるいはODAや国際学力テストの得点でいい順位にあれば、首相はその「ランキング表」をまず頭に浮かべ、それをもって日本の国際社会における役割を言い表そうとしたでしょう。
ある国の国民性格は、そのGDPや軍事予算の額やノーベル賞受賞者の数などとは無関係に本態的に定まっているという発想がここにはありません。私たちにとって、国民性格の問題は「誰それに比べたときに、どの順位にいるか。“トップ”とどれくらい離れているか」というかたちでしか立てられない。
ぼくはこのようなもっぱら他国との劣等比較を通じてしか国民性格を規定することのできない不能こそが日本人のもっともきわだった国民性格ではないかと思っています。
日本人の国民性格は実体として存在するのではない。それは宿命的に失敗する仕方として顕在化する。先ほどそのように仮説を立てました。その仮説をもう少し別の言葉で言い換えるとこうなります。
日本人の国民性格は非日本人との比較を通じてしか自己の性格を特定できないという他者依存のうちに存する
「日本人はイエスとノーをはっきり言わない」とよく言われます。
たぶん、その理由は、日本人は「誰が何と言おうと言いたいこと、言わなければならないこと」を持っていないからだとぼくは思います。「自分が言いたいこと」よりも、「相手が聞きたいこと」「相手が聞きたくないこと」の方が気になる。だから、そちらをまず優先的に配慮する。相手との関係の中で、相手に好かれるか嫌われるか、尊敬されるか軽蔑されるか、そのことが最初に意識される。相手が自分をどう思おうと、「私は言いたいことを言う」ということがない。コンテンツの整合性や論理性よりも、「それを言ったら相手にどう思われるだろうか」という気遣いの方が優先する。
それは巷間にあふれる「アメリカ論」「中国論」「韓国論」などなどすべての国民論に共通しています。
オバマ大統領就任の後、あらゆる新聞の社説は「新大統領は日本に対して、親和的だろうか、それとも威圧的だろうか。日本の要求に耳を貸してくれるだろうか、日本を軽視するだろうか」ということをまず論じました。アメリカの東アジア戦略が「何であるか」よりも、それを物質化する際に「どういう口調で、どういう表情で、どういう物腰で」日本に触れてくるのか優先的に論じられた。
これはまことに徴候的な態度であるとぼくは思います。これがまことに徴候的な態度であるということにメディアの当事者が誰も気づいていないという点で際だって徴候的であると思います
相手の出方が宥和的であれば、ある程度言いたいことを言える。相手の出方が非妥協的であれば、不本意でも黙るしかない。要は相手の出方次第である。相手はどう出るか。それをどうかわし、どう防ぎ、どう反撃するか。
相手がまず仕掛けてきたことにどう効果的に反応するかという発想のことを武道の術語では「後手に回る」と言います。日本は外交において、決して「先手を取る」ということがない。進んで「場を主宰する」ということがない。つねに誰かが主宰した場に後から出向いて、相手の出方をまず見て、とりあえずもっともフリクションの少ない対応をする、というのが日本外交の基本姿勢です。
日米関係でもそうですね。アメリカの外交戦略の「コンテンツ」よりも、それを差し出す「マナー」の方に日本人は関心がある。「何をしたいのか」よりもなそれを日本に対して「どういう態度で要求してくるのか」の方を重視する。
ですから、外交通を任じる人たちは「政策の中身」ではなく「それを差し出す態度」を選択的に論じます。彼らはまず例外なしに口を揃えて「日米同盟が日本外交の基軸である」と言います。でも、彼らが言っているのは、アメリカと日本の国益は一致しているという意味ではありません。アメリカは日本の国益を他国よりも優先的に配慮しているという意味でもありません。当然ながら、アメリカはアメリカの国益のことしか考えていない。
そんなことは実は誰でもわかっている。でも、アメリカが自国の国益を最大化するために日本を相手にあれこれと注文をつけてくるときの「出方」はいろいろと変化があります。
これについては、日本側は長年の蓄積がある。居酒屋でなじみの客がカウンターに座って「おやじ、いつものね」と言うと「はいよ」と「いつもの」を差し出す呼吸と同じです。アメリカが自己利益を追求するときの「出方」はもう経験を積んでいるからよくわかっている。「こういうこと」を言うときは何を言いたいのかという外交的シグナルの「暗号解読表」が整っている。日本に向かって何を要求をしてきても、「それ以上でもそれ以下でもない正味の要求」をぴたりと言い当てることができる。「アメリカとはコミュニケーションが成立している」というその安心感が、アメリカが日本の国益を損なう要求をしてくる場合でさえ、「やはり日米同盟しかない」という確証を「外交通」に与えている。ぼくはそう見ています。
中国や韓国に対するほとんどヒステリックな「嫌中国」「嫌韓国」言説の理由も同じロジックで説明できます。それは彼らが「そう言うことによって、ほんとうは何を言いたいのか」をうまく言い当てることができないからです。先方が日本の国益にかないそうな提案をしてきても、真意が測れない。「それを言うことによって、あなたは何を言いたいのか」という問いに誰も答えてくれない。でも、日本の国益を損なう提案についてだけは、真意がわかる(と信じている)。だから、中国や韓国と誤解の余地のないコミュニケーションが成立するのは、彼らが日本の国益を損なうような要求をしてくる場合だけです。彼らが国境問題や防衛問題や経済問題で日本に不利な要求をしてくると不思議なことに日本人は「ほっ」とする。「これなら、わかる」と思えるからです。外交交渉で国益が損なわれたことの損失を、コミュニケーションの相手が「何を言いたいのか、わかった」ことのもたらす安心感が上回ることがある。ナショナリストはどこの国でも同様の傾向(病態)を示しますけれど、日本の場合はとくに顕著だとぼくは思っています。