『難しさ』とは何か?

2017-01-15 dimanche

『転換期を生きるきみたちへ』の読者である都内の公立中学の先生から晶文社の安藤さんのところにこんな手紙が来たそうです。
考えさせられる内容でしたので、ご紹介します。

「安藤さまが担当された『転換期を生きるきみたちへ』を購入して、拝読しました。どの文章も大変素晴らしく、大人にとっても勉強になる内容でした。(…) そこで早速、本校の図書館にも購入しました。しかしながら、借りる生徒がいません。これでは宝の持ち腐れだと思ったので、生徒会長、生徒会役員、学級委員の三名の男子生徒(全員二年生)に順番に読んでもらいました。彼ら全員の感想は共通しており、『難しすぎる』というものでした。彼らは決して勉強ができない生徒ではありません。成績は上位の生徒たちです。その生徒たちが『難しすぎる』と言っているのです。内田先生はまえがきの中で『理解できなくても、共感できなくても、別に僕はいいです』と書かれていますが、それでは『中高生に伝えておきたいたいせつなこと』がもったいなさすぎると思いました。」

この手紙を安藤さんから転送されて、僕もいろいろ考えてしまいました。
つい先日も若手ジャーナリストの集まりで、視聴者の知的レベルをどの程度に設定すればいいのか、ということについて議論がありました。
若い作り手たちの作品に対して上司がしばしばつけるクレームは「難しすぎる」というものだそうです。それでは視聴者・読者がついてきてくれない。「ひとりよがりになるんじゃないよ」というのが定型的な叱責の言葉だそうです。
「じゃあ、僕らはいったいどんなものを作ればいいんですか?」という悩みを伺いながら、この「難しすぎるものは商品としてダメ」という考え方が日本のメディアの現場を萎縮させ、同時にコンテンツの質を劣化させているということを感じたので、そのようにお答えしました。
でも、その直後に「難しいから読めなかった」という中学生からの反応をうかがったわけで、また考え込んでしまいました。
どうすればいいんだろう。
ちなみに僕は新聞や雑誌に寄稿したときに「難しいから書き直せ」と言われた場合には「じゃあ、いいです」と言ってそれきり書かないということにしております。15年前にメディアに書き出したからずっとそうです。
それはメディアの人たちが「難しい」というのがいったい何を基準にしているのか、僕にはよくわからなかったからのです。
もしそれが読者の中で「最低のリテラシーのもの」でもすらすら分かるように書くというのだったら、新聞も雑誌もひたすらレベルを下げるしかありません。それも一つの「サービス」だと言えるかも知れませんが、リテラシーがいくら低くても情報収集に支障がないという情報環境を作り上げることで社会の知的活動が一層活発になるという見通しに僕はまったく同意することができません。
「標準的なリテラシーを基準にしてくれ、と言っているんだよ」と反論する人もいるでしょう。
でも、何か「標準的」であるかに客観的・汎通的な基準なんかありません。その人の頭の中にある「普通の人」とか「世間の人」とか「大衆」とかいうイメージは主観的なもの、その人の願望に過ぎない。
僕は難しい言葉を使います。わからない言葉があったら辞書を引けばいい。ネットで検索すれば一瞬で調べがつく時代なんだから、そんなことで手間を惜しまない読者を想定して僕は書いています。
でも、そうい「手間暇」を読者に求める以上、それなりの身銭を切らないといけない。
辞書を引かせるためには、「辞書を引いても理解したい」という気分になってもらわないといけない。
目の前にドアがある。ドアノブを回せばドアの向こうの景色が見える。ドアノブを回してほしければ「ドアの向こうが見たい」という気になってもらうしかない。理屈は簡単です。
辞書を引くのも、少し前から読み返して論脈をたどり直すのも、「ドアノブを回す手間」だと僕は思います。
「難しい話」を読んでもらうというのは読者に「手間暇をかけてもらう」ということです。そうしてもらうためには、こちらもそれなりの手間暇をかけないといけない。
だから、僕は何より論理的に書くことを心がけます。手に入る限りは論拠をあげる。できるだけ喩え話を駆使して話をカラフルに表象する。何よりも、音読に耐えるようにリズミカルに書く。これはすごく大事なことで、リズムがよいと「勢いで読んじゃう」ということが起きます。
それを総称して「情理を尽くして書く」というふに僕は呼んでいます。
それは「やさしく書く」ということとは違います。
むずかしい話を「それでもわかってもらえるように書く」ということです。
この二つは全然違うことです。
「わかってもらえるように書く」手間暇をかけることができるのは、読者の知性を対する信頼があるからです。それが読者に伝われば、僕は読者はかなり難しい話でもついてきてくれると信じています。

僕は『転換期を生きるきみたちへ』の「まえがき」に「理解されなくても、共感されなくても、別に構わない」と書いているとこの先生は書かれていますけれど、これだけ読むと、「言ってることが違うじゃないか」と言われそうですけれど、これは引用がちょっと言葉足らずです。
僕は実際にはこう書いたのです。ちょっと長いけれど引用します。「理解されなくても・・」というのは引用の一番最後に出て来ます。
まず最初に寄稿者への「お願い」を掲げておきます。僕が寄稿者のみなさんにお願いしたときの手紙です。

「今回のアンソロジーは晶文社の安藤聡さんからご提案頂いたものですが、読者を中高生に特定して、これからこの転換期を生きてゆかなければならない少年少女たちに、彼らが生き延びるために少しでも役に立ちそうな知見を贈ることを編集目的にしています。その趣旨をうかがって私もそれに深く同意しました。
何より、中高生対象というふうに読者の年齢と知的経験値を限定して書くというアイディアが気に入りました。そういう条件だと、どうしても話が根源的にならざるを得ないからです。「大人」同士であれば通じている(つもりでいる)符牒が若い人たち相手には通じないということがあります。「国家とは何か」、「貨幣とは何か」、「市場とは何か」、「家族とは何か」・・・「大人」たちはそういう根源的な問いを回避したまま、それについて語っていますけれども、それらの術語について、あらためて子どもにでもわかるように解説してくださいと言われると、「大人」たちのおおかたは絶句してしまう。
例えば、今の日本の政治家たちに向って、「国民国家とは何か、その成立要件は何か、それはどのような歴史的条件の下で成立し、どのような条件下で消滅するのか」を問うても即答できる人はほとんどいないと思います。でも、転換期というのは、まさしくそのようなあって当たり前の制度文物が安定的な基礎を失って、あるいは瓦解し、あるいは状況に適応すべく劇的に変貌する局面のことです。
転換期には、ものごとを根源的に考えることが要請されます。
そして、いつの時代でも、若い人たちにものごとの成り立ちを誠実に説明しようとしたら、根源的な問いを忌避することは許されない。つまり、転換期において、若い人たちに向って、今起きていることを説明し、生き延びる道筋を示唆するという仕事は、私たちに二重に根源的であることを要請するということです。これはそう考えると、ずいぶんやりがいのある仕事ではないかと私は思います。
寄稿をお願いしたみなさんは、それぞれのご専門の立場にあって、転換期を若い人が生き延びるための知恵と技術について有用な経験的知見をお持ちだと思います。それをぜひ彼らに贈り物として差し出して頂きたい。それが今回の企画意図です。
どなたもたいへんにご多用であることは私も重々承知しております。しかし、私たちの知っている日本という国が『何か別のもの」』なるリスクが指呼の間に迫っている、今はそういう危機的局面だと私は理解しています。だからこそ、少年少女たちが見晴らしのよい視座から、ひろびろとものを見ることができるように一臂の支援をしたいと願うのです。拝して寄稿のご協力をお願いする次第です。」

この手紙を紹介した後に、僕から読者である「中高生」への「まえがき」が始まります。

「以上が、僕から寄稿者の方々への手紙の全文です。
物書き同士でのやりとりなので、中高生の語彙にはなさそうな漢字や熟語が使ってありますけれど、そこはご容赦ください。この手紙を今年(2106年)の1月に出しました。ほとんどの方が「書きます」とすぐにご返事下さいました。
寄稿者の方々にどういう主題について書いて頂くのか、事前には何も決めませんでした。「あなたにはこれについて書いて欲しい」というようにあらかじめ決めておけば、編集の仕事は効率的に運びますし、同じ主題が重複することもないでしょうが、僕がお願いしたのは、「今中高生に言いたいこと」が何か頭に浮かんだら、それをそのまま書いてくださいということだけでした。
選んで頂く主題は、政治の話でも構わないし、市場や貨幣の話でも、文学や音楽や映画の話でも構わない。家族や性の問題でも構わない。あるいは、「どうして君たちは姿勢が悪いのか」とか「どうして君たちはまわりの友人の学習意欲を殺ぐことについては異常に熱心なのか」とか(これは僕「書こうかな」と一瞬思った主題です)、どんなことについて書いてもらっても構わない。できるだけ、主題の選択が水平方向にも、垂直方向にも「ばらけている」論集になったらいいな、と思っていました。
幸い、集まった論考を読んだら、憲法について、国家について、科学について、人口について、中年の危機について、空気について、消費者マインドについて、弱さや不便さに基づいた生き方について、言葉について・・・などなど、実に多様な主題が選択されていました。
寄稿者の方々から送られてきた原稿を通読して僕が個人的に興味を持ったのは、書き手が「読者の理解度」をどのレベルに設定しているのかが微妙に違っているということでした。「中高生というのは、どの程度までの難度のものなら理解できるのか?」についての判断にはひとりひとりかなりの差があります。そう言われてみれば当たり前のことですけれども、それでも、そのばらつきに僕は軽い衝撃を受けました。そして、ちょっとうれしくなりました。
とにかく分かりやすさを心がけて、語彙や事例も「中高生になじみ深いもの」を選ぼうと努めている書き手もいるし、「中高生ならこれくらいのことは理解できていいはずだから、ふだん通りにやらせてもらうよ」というちょっと突き放したスタイルの書き手もいる。ですから、このアンソロジーは多様性ということについてはかなりよい点を与えられる出来になったと編者としては思っています。こちらには朗々と演説している人がいて、こちらでは小声で語り聴かせている人がいて、こちらでは独り言を言っている人がいて・・・というような「ばらつき」は僕の偏愛するところなのですが、それは長く学校の先生をやってきて、しみじみと身にしみたことです。「まえがき」の場を借りて、「ばらつきの効用」について一言だけ思うところを書き記しておきたいと思います。
この世に「最低の学校」というのがあるとすれば、それは教員全員が同じ教育理念を信じ、同じ教育方法で、同じ教育目標のために授業をしている学校だと思います(独裁者が支配している国の学校はたぶんそういうものになるでしょう)。でも、そういう学校からは「よきもの」は何も生まれません。これは断言できます。とりあえず、僕は、そんな学校に入れられたら、すぐに病気になってしまうでしょう(病気になる前に、窓を破っても、床に穴を掘っても、脱走するとは思いますが)。僕はそういう「閉所的」な空間に耐えることができません。どんな場所であれ、そこで公式に信じられていることに対して「それ、違うような気がするんですけど」という意思表示ができる権利が確保されていること、それが僕にとっては、呼吸して、生きていけるぎりぎり唯一の条件です。
勘違いしないで欲しいのですが、「僕の言うことが正しい」と認めて欲しいわけではないのです。僕が間違っている可能性だってある(だってあるどころかたいていの場合、僕は間違っています)。それでも、みんなが信じている公式見解に対して、「あの、それ、違うような気がするんですけど」と言う権利だけは保証して欲しい。「僕が正しい」とみんなに認めて欲しいのと違うのです。ただ、正しい意見に対して、「それは違うと思う」と言っても処罰されない保証を求めている、それだけです。
教師も生徒も、全員が同じ正しさを信じていて(信じることを強いられていて)、異論の余地が許されていない学校は、知的な生産性という点から言うと、最低の場所になるでしょう。そういう学校から、多様な個性や可能性を備えた若者たちが次々と輩出してくるということは決してないと僕は思います。というのは、知的な生産性というのは「正しい/間違っている」という二項対立とは別のレベルの出来事だからです。
ほんとうに新しいもの、ブレークスルーをもたらすものは、いつだって「思いがけないもの」です。そんなものが存在するとは誰も思っていなかったものです。それが、そんなところから何かが生まれなんて誰も思ってもいなかった場所から生まれ出てくる。そういうものなんです。いつだって、そうなんです。ほんとうに新しいものは、思いもかけないところから生まれてくる。
ですから、知的生産性という点からすると(もう三回目ですけれど、実は僕はこの言葉があまり好きじゃないんです・・・)、学校が多産であるためには、「そんなところから何か価値あるものが生まれて来るとは誰も予測していなかった場所」がたくさんあることが必要だということです。薄暗がりとか、用途のわからない隙間とか、A地点からB地点にゆく場合の最短ルートとは別の迂回ルートとか、坐り込んだら気分よくて立てなくなってしまうソファーとか、意味もなく美しい中庭とか・・・そういう「何の役に立つのかよくわからないもの」たちが群生しているのが知的空間としては極上だと僕は思います。これは僕が長く生きてきて得た経験的確信です。
ですから、この本もまた一つの学校のようなものだと思って読んで頂ければ僕としては、とてもうれしいです。この本には「公式に共有された正しいこと」はありません。書き手たちの唯一の共通了解点は「中高生たちに今すぐ伝えたいことがある」という現状認識だけです。それだけは共通しています(それが共有されなければ、そもそも寄稿してくれません)。でも、「伝えたいこと」は全員ばらばらです。僕はそれでいいと思います。というか、「それがいい」と思います。
この学校では、いろんな先生が、いろんな教科を、いろんな口調で教えています。教育方法も、教育目標も、全員が違います。共通するのは、全員がみなさんの知的な成熟を願っているということです。
タイトルにある「転換期」というのは、世の中の枠組みが大きく変化する時代のことです。みなさんの事情に即して言えば、転換期とは「短期間に成熟することを求められている時代」のことです。すぐ大人にならないと生き延びることが難しい時代のことです。そういう状況にみなさんは投じられています(気の毒ですけど)。
もっと安定的な時代でしたら、大人たちの言うことを、わからないなりに黙って聞いて従っていれば、それほど大きなリスクを背負うことはないのですけれど、転換期は違います。転換期というのは、大人たちの大半が今何が起きているのかを実は理解できていない状況のことです。だから、大人たちが「こうしなさい」「こうすれば大丈夫」と言うことについても、とりあえず全部疑ってかかる必要がある。今は「マジョリティについて行けばとりあえず安心」という時代ではないからです。社会成員の過半数がまっすぐに崖に向かって行進しているということだっておおいにありうるのです。
ですから、この本に書かれていることだって(今僕が書いているこの言葉を含めて)、みなさんは基本的には「全部疑ってかかる」必要があります。「大人の言うことだから信じる」という態度も「大人の言うことだから信じない」という態度も、どちらも単純すぎて、知的成熟にとっては何の役にも立ちません。だから、まず疑ってかかる。でも、疑うというのは「排除する」とか「無視する」ということとは違います。「頭から信じる」でもなく、「頭から信じない」でもなく、信憑性をとりあえず「かっこに入れて」、ひとつひとつの言葉を吟味するということです。そうすればおそらくみなさんは「なんとなく、身にしみ入る言葉」と「なんとなく、違和感がする言葉」を識別できるはずです。それくらいの判断力は生物である限りは備わっています。原生動物だって、「自分を食べに来る捕食者」と「自分が食べる餌」の区別くらいはできます。原生動物に出来ることが人間に出来ないはずはない。まずはそこから始めて欲しいと思います。
本の内容については、とりあえずどうでもいいです。理解できなくても、共感できなくても、別に僕はいいです。それよりも、世の人たちは「中高生に向かって言いたいことがあれば言って下さい」というリクエストにずいぶんいろいろな文体で、いろいろな回答をしてくるものだな、という事実をまずそのまま受け止めて欲しいと思います。そして、この多声的な環境こそが僕たちからみなさんへの「贈り物」なのだということを(いつか、でいいですから)分かってくれたらうれしいです。

以上です。どうですか。「わかりにくい」ですか。そんなにはわかりにくくないと僕は思います。でも、かなり難しいことを書いているという自覚はありました。だって、「こういうこと」を言う大人はたぶん今の中高生の周りにはいないからです。「初めて聞く話」ではある。でも、決して「聞いてもわからない話」じゃない。
僕はこの「まえがき」を書くときに、とにかく読者の知性を信じるという構えを貫きました。もしかするとすこし「高め」に設定したかも知れませんが、再三言うように、僕はそれで構わないと思っています。
僕たちは母語を習得するときに、自分が知らない語が、自分が知らない文法規則に基ついて、自分が再生できない音韻で語られるのを聞いて育ちます。人間というのは「そういうこと」ができる生き物です。知らない言葉を浴びるように聞いているうちに、知らない言葉の意味がわかってくる。
そういう力動的な過程に読者をどうやって巻き込んで行くのか。それが書き手に問われているんじゃないかと僕は思いました。
この手紙を書いてくれた先生によると、「難しい」と言っていた三人の中学生たちが「それでも最後まで読めた」書き手が何人かいたそうです。それが救いです。