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能楽と武道

鎌田東二先生の肝いりで上智大学で行われた国際シンポジウム「世阿弥とスタニスラフスキー」で、「世阿弥の心身変容技法と武道のかかわりについて」という演題での発表を求められた。
そのときのテープ起こしが届いたので、若干加筆して採録しておく。「いつもの話」なので新味はないけれど、「こういう話」をする人が私の他にいないので、しつこく語るのである。

アカデミックな発表が続きましたけれども、僕の発表は全然アカデミックなものではありません。自分自身の経験に基づいて、中世日本人の身体観とコスモロジーに関してお話をしたいと思います。
私は合気道という武道を今年で41年続けております。大学を退職した後、神戸に1階が道場、2階が自宅という凱風館という建物をつくりまして、そこで自分も稽古し、門人にも教授もしています。能楽は今から20年前に稽古を始めました。なぜ能楽の稽古を始めたのかというところからお話ししたいと思います。
それまで、長く合気道の他、杖道や居合などの武術を稽古してきて、どうしても越えられない技術上の壁に突き当たりました。それは、武道というのは、鎌倉時代から室町時代にかけて成立した日本固有の身体技法体系なわけです。ですから、その時代の日本人がどういう身体を持っていたのか、どういうふうに自分の身体を感じ、操作していたのか、その身体を通じて世界をどう見ていたのか、それがわからないと、武道の本質には理解が届かないのではないかと考えました。
身体運用というのはひとつの歴史的形成物です。地域が変われば、身体の使い方は変わりますし、同じ土地でも時代が変われば身体の使い方は変わる。ですから、僕が現代日本人の日常的な身体の使い方をしている限り、中世日本人の身体運用をベースにして体系化された武道の身体感覚や身体操作には理解が及ばない。
武道はさまざまな型があります。その中には現代日本人がふだん絶対にしないような動きがいくつも含まれています。その型がどういう技術を要求しているのか、どの身体部位をどう操作することを要求しているのか、それはどのような能力開発のためのものなのか、それは自分自身が中世の日本人の身体に想像的に入り込んでみないと分からないのではないか、そう思いました。
中世日本人の身体運用について学びたいと思ったときに、思いついた候補が三つあります。一つが能、一つが禅、もう一つが茶道です。この三つはいずれも鎌倉時代・室町時代に発生し、体系化されました。これを修業すれば、中世日本人が、どんなふうに身体を使っていたのか、あるいはどんな体感を持っていたのかが少しはわかるだろうと考えました。

僕は、90年に神戸に赴任してきました。それまで東京に40年暮しておりましたが、一度も能楽堂というところに足を運んだことがありませんでした。引っ越してきたら、阪神間というのは能楽が盛んなところでした。震災前の阪神間はそこここに能楽の舞台があり、頻繁に公演が行われていました。たまたま僕のゼミの学生に2代続けて能楽部の部長がおり、彼女たちが僕にときどき能のチケットをくれました。最初に見たのは能楽部の自演会でしたが、そのうちに玄人の公演も「チケットが余っていますから先生どうぞ」とよく誘われるようになりました。暇だったせいもあって、週末ごとに能楽堂に通うような人間になりました。
ですから、何か中世日本人の身体技法を学ぼうかと思うようになった時にも、せっかくご縁が出来たのだから、能を習おうということに決めました。そして、1997年に観世流の下川宜長先生のところに弟子入りし、以後、20年間稽古をしております。
僕は、何ごとも始めたことはやめないたちなので、能の稽古もずいぶん一生懸命やりました。能はこれまで三番やっております。最初が『土蜘蛛』、次が『羽衣』、今年の6月は、観世のお家元に後見をしていただいて『敦盛』を舞いました。
能の舞台に出るというのは素人にとってはたいへん苛酷な試練です。曲が決まると、まる1年間、それだけ稽古をします。シテとして舞台に出るのはせいぜい1時間ほどですが、その1時間の舞台のために1年間稽古をするわけです。一挙手一投足を注意され、謡を直され、家でも暇さえあれば謡と舞の稽古をしました。そのストレスフルな1年間を過ごして、当日を迎えるわけですが、舞台に出ると、あっという間に終わる。でも、そのわずか1時間の舞台で、詞章を忘れたり、道順を間違えるたりしたら、1年間の努力が水泡に帰してしまう。まして今回の『敦盛』は、後ろにお家元が座っていらっしゃる。その緊張感は生半可なものではありませんでした。
でも、やっぱり、そういうところに追い詰められないとお稽古はする甲斐がない。ふだん先生の家に通ってお稽古をつけてもらっているのと、一人で舞台に上がり、周りは全員玄人、見所の方たちがじっと見つめている状況では経験の質が違います。本番前は胃が痛むほど緊張するわけですけれども、それでも終わるとやってよかったと思いました。
能舞台で能を舞うというところに行く過程で、素人がどのような技術的な困難に遭遇するか、そして、実際に能舞台に立ったときに何を経験するか。そういうことからお話ししたいと思います。

先ほど、松岡先生がご指摘されましたように、素人はまず「歩く」ということができません。ふだん現代人が歩いているような歩き方では、どうやっても型にならない。何とか能舞台で歩けるようになるまで10年間ぐらいかかりました。歩いても、歩いても、先生から、「それでいい」と言われることはありません。「歩けていない」と言われ続けて、10年目ぐらいに少し薄目が開いてきた。そのきっかけは舞囃子を舞うようになったことでした。
能では仕舞という地謡だけで舞うものの他に、舞囃子というものがあります。これは地謡の他にお囃子がつきます。その分だけ技術的難度は高いのですが、やってみると、実は舞囃子の方がむしろ舞い易いということがわかりました。それは囃子が入ることで、能舞台の上に厚み、奥行きのある音響空間ができあがるからです。
先ほど、「我見」と「離見」というお話をされましたけれども、たしかに、我見がある限り能は舞えない。これはその通りなんです。自我とか主体性とかが出しゃばって、「うまく舞ってやろう」、「見所にいいところを見せよう」と思って舞台を踏むと、ぎくしゃくして、ただ道順通り歩くという動作さえできなくなる。
どうすれば「我見を去る」ことができるのか。それは別に哲学的な話ではなく、能の稽古では純粋に技術的な身体運用上の課題であるわけです。
稽古というのはありがたいもので、ひたすら稽古しているうちにだんだんわかってくる。それは三間四方の能舞台には、強度も厚みも手触りも違う無数のシグナルが行き交っているということです。
例えば、目付柱というものがある。能舞台のいわば中心です。目付柱が能舞台空間に一つの秩序を与えている。非常に強い吸引力を持っているので、能舞台に立つと、自然に目付柱の方にこちらの身体が吸い寄せられてゆく。
その対極に切戸口があります。陽極に対する陰極です。小さく、暗い穴が目付柱の対角線上に穿たれている。目付柱がファロスであるとすれば、切戸口は子宮口です。この二つの舞台装置が、陰と陽、天と地、男と女、あるいは生と死、そういう二項対立的な仕方で能舞台を構造化している。
目付柱は陽のエネルギーを発散して、舞台空間を活性化する強い磁力を発揮しています。切戸口もやはり陰のエネルギーの極として働いて、水が低い方に流れるように、人はそこに引き込まれてゆく。その陰陽の拮抗が舞台に一つの緊張をもたらし、秩序を与え、舞台をコスモロジカルに調えているわけです。そこにさらに地謡と囃子方が加わり、ワキがいて、ツレがいて、作り物があり、それらがすべて能舞台空間にそれぞれの仕方で関与してくる。
そういういくつものファクターによって形成されている能舞台空間へ踏み出すと、物理的な手触りのあるシグナルが、そこを行き交っているということが身体実感としてわかります。身体がある方向へ引きつけられたり、ある方向へ押し戻されたり、回転力を与えられたり、ある型をするように誘われたり、そういうことが起きるわけです。
地謡の地鳴りをするような謡が始まってくると、その波動がシテの身体にたしかに触れてくる。囃子方が囃子で激しく煽ってくると、そのリズムにこちらの身体が反応する。ワキ方が謡い出すと今度はワキ方に吸い寄せられる。そういう無数のシグナルが舞台上にひしめいています。三間四方の舞台であるにもかかわらず、立ち位置によって気圧が変わり、空気の密度が変わり、粘り気が変わり、風向きが変わる。
ですから、舞台上でシテがすることは、その無数シグナルが行き交う空間に立って、自分がいるべきところに、いるべき時に立ち、なすべきことをなすということに尽くされるわけです。自分の意思で動くのではありません。もちろん、決められた道順を歩んで、決められた位置で、決められた動作をするのですけれども、それは中立的な、何もない空間で決められた振り付け通りに動いているのではなく、その時、そこにいて、その動作をする以外に選択肢がありえないという必然的な動きでなければならない。刻一刻と変容していく能舞台の環境の中で、シテに要求されている動線、要求されている所作、要求されている謡の節が何であるかを適切に感知できれば、極端な話、シテは何も考えなくても能が成立する。そういうつくりになっているんじゃないかなということが始めて10年くらいの時にぼんやりわかってきました。
それまでは、どうしても近代演劇からの連想で、能も一種の「自己表現」だと思っていました。まず頭の中で道順を考える。角へ行って、角取りをして、左に回って、足かけて・・・・と頭の中で次の自分の動きの下絵を描きながら、それをトレースしていった。でも、そういうふうに動きを「先取り」するのを止めました。ある場所に行ったら、「決められた動作」ではなく、そこで「したい」動作をする。そこで「したい」動作が何であるかは、文脈によって決まっているはずなんです。この位置で、こちらを向いて、こう足をかけたら、これ以外の動作はないという必然性のある動作があるはずなんです。だから、それをする。謡にしても、これからこうなって・・・というふうにあらかじめ次の謡の詞章を頭の中に思い浮かべて、それを読み上げるような謡い方をしない。こう謡ったら,次はどうしてもこう続かないと謡にならない。そういう音の流れがあるはずなんです。
そのように身体が自動的に動き、謡が自然に出るようにするためには、とにかくひたすら稽古するしかありません。ですから、舞台に出たら、もう何も考えないで済むように、何十回も何百回も稽古しました。舞台に立ったら、自分が何をすればいいのかを自分で考えるのではなく、舞台から送られてくるシグナルに従って動く。身体感度を上げて、できるだけ受動的になる。すると、何かが後ろから肩を押して、こっちへ曲がれ、ここで止まれ、と指示してくれる。空気感自体が変化して、自分の動きを指示してくれる。
そのことは本当に、仕舞や舞囃子のときにはよくわかりませんでした。装束を着け、面をつけて、その重みと不自由さで、身体が主体的に統御できない状態に身を置くことでわかったことがあります。能が要求しているのは、身体運用の技術を高めて舞台上で審美的なパフォーマンスを達成することではない。そうではなくて、能が要求しているのは、周りから送られる幽かな、ごく曖昧なシグナルを感知できるような高い身体感受性を作ることである、と。能舞台「の上で」何か技巧的に見事なことをして見せるのではなく、能舞台「と共に」舞い、謡う。その所作に必然性があれば、たとえシテが指一本わずかに動かすだけのことであっても、それによって能舞台全体がたわんだり、色調を変えたり、異界に変じたりすることがありうる。
幽玄という言葉はふつうは美学的な意味で理解されていますけれど、「幽玄」というのは、文字通り「幽(かす)か」でかつ「暗い」ということではないかと思います。微細で、輪郭のはっきりしない、アモルファスなシグナルが能舞台の上には渦巻いている。それを、自分の身体感受性のアンテナの感度を最大化することで感知し、それらのシグナルがシテに求めていることを行う。能舞台という宇宙において、「自分が何をしたいか」ではなく、「何をするためにここにいるのか」を問う。他ならぬここで、他ならぬこの時に、他ならぬ私が余人を以ては代え難い唯一無二の行為をする。だとしたら、それはどのような行為でなければならないのか。それを問うわけです。
これがたぶん中世の日本人が能楽を通じて習得しようとしていたことではないかと思います。どう座る、どう立つ、どう歩くといった個々の技術ではなくて、能楽の稽古を通じて僕は中世日本人たちのそのような身体観、世界の片鱗に触れたように思います。

稽古を始めて10年目くらいの時に、ワキ方の安田登さんと対談することがありました。そのときに、舞囃子の稽古を始めるようになってから、どうも空間が「粘る」んですよね、という話をしました。ヒラキをするときに、扇や袖にものが引っ掛かる感じがしてきた。何だかゼリーの中を動いているような感じがする。能舞台にびっしりとゼリー状のものが詰まっていて、そのゼリーの中を歩いていくような感じがする。何もない空間で手が動かすときは、どんな方向に、どう曲げても、空気抵抗なんかないにわけですけれど、舞の中だと、かすかではあるんですが、空気に物質性がある。粘り気が感じられる。だから、「それ」がまとわりつかないような手の動かし方を工夫するようになる。一番空気抵抗のない、体幹の筋肉とつながった強い動きをするようになる。腰の回転も使うし、重心の移動も使う。
「なんかゼリーの中で動いているみたいな、かすかな粘り気を感じるんです」と申し上げたら、安田さんは「うちの流儀では『寒天』と申します」とおっしゃいました。それを聞いて、僕の感覚は間違っていなかったんだと安心しました。その10年目の「ゼリー・寒天問答」のときに、僕の中でいろいろなものがかちっとつながって、この方向で稽古していいんだなということが得心できました。

その頃、鈴木大拙の『日本的霊性』という本を読んで、平安仏教から鎌倉仏教に、日本仏教が大きく変容して行く時に何が起きたのかということを知りました。大拙によれば、平安時代までの仏教というのは外来のもので、また都市固有のものであった。鎌倉仏教になって初めて、仏教は日本化し、土着化する。
鎌倉期というのは、時代の主人公が都市に暮らす貴族から田園に暮らす武士たちに変わった時代です。坂東武者たちというのは、地面に近い暮らしをしている。野山を歩き、田畑を耕し、馬や牛を飼う。その地面に近い生活者の身体感覚に基づいた新しい宗教が鎌倉仏教である、と。大拙はそう言うわけです。その時代に禅宗や浄土真宗や日蓮宗などが一斉に登場してきます。
鎌倉仏教の基本的な態度は「大地を踏みしめて立つ」ことだと大拙は言います。これは平安時代の殿上人がついに経験したことのないことです。田畑の泥濘を踏みしめる。その足裏から大地の霊が立ち上ってくるのが感じられる。その大地の霊で全身を満たす。そのときに初めて日本的霊性が発動する。大拙は、日本的霊性とは鎌倉武士が泥濘に足を膝まで浸からせて、足裏からこの「大地の霊」を吸い上げた時に生まれたという非常に感動的なフレーズを書き残しています。その実感は能楽の稽古を通じて僕が感じたことに非常に近い。
能のすり足の稽古をしていると、たしかに足裏と舞台の檜の板目の間に、ある種の親密さが生まれます。足と床板の間で、やり取りがある。実際に、きちんと着物を着付けて、足袋を履いて、能舞台をすり足で一巡すれば分かりますが、すごく気持ちがいい。足裏の感度を上げて、板の木目を味わうように進んで行く。板目から送られるメッセージに耳を傾ける。
すり足という動作も発生的には宗教的なものだと思います。足拍子を踏むという動作は中国にもありますけれども、これは天神地祇に対する「挨拶」です。強く足を踏むことで地祇に挨拶を送る。呼び起こした神に対して祈りを捧げ、お酒を注ぎ、大地の恵みに感謝し、豊穣を祈り、災厄を祓う。あるいは再び足を踏んで、目覚めた神を鎮める。
足を強く踏むと神気が発動する。だとすると、すり足というのは「地面の下にいる神様を起こさないようにする」という気遣いの現われだということになる。神気をむやみに発動させてはならないから、人間たちはそっと動く。そして、地面から人間が受け止めることができる程度の制御可能なエネルギーをありがたく受け取る。
すり足というのは、大地に対する感謝と畏怖の念を表現したものではないかと僕は思います。足裏で大地と交感するという所作は、巨大な力を持つものが大地の下に潜んでいるという信憑があってはじめて生まれるものです。すり足という能の基本動作が鎌倉仏教における「大地の霊」の発見と同根のものです。

能楽と鎌倉仏教と武道はほぼ同時期に、同一のパラダイムの中で発祥したというのが僕の仮説です。これは、たぶん日本では僕しか言っていないことだと思います。何の学術的根拠もない、誇大妄想的な思弁ですけれど、僕自身は、これはかなりいけるんじゃないかと思っています。
武道の発生はどこまで遡れるか。僕の仮説では、武道の起源は、日本においては「海部(あまべ)」と「飼部(うまかいべ)」という職能集団に求めらると僕は考えています。海部は操船技術という特殊な職能を以て、飼部は野生獣を制御するという職能によって、それぞれ天皇に仕えました。風と水のエネルギーと野生獣のエネルギーという二種類の野生のエネルギーを人間にとって有用な力に変換する高度な技術をもった集団です。
この二つの職能集団はどちらも天皇に直接仕えていたせいで、宮廷政治とは距離を置いていましたが、それぞれに列島をつなぐ広大なネットワークを形成していた。やがて、平安貴族政治が終わる頃になると、この二つの職能民たちが侮れない巨大な政治勢力として表舞台に登場してくる。
もう分かりますね。海部の末裔が平家、飼部の末裔が源氏です。平家というのはもともと海民なんです。平家は伊勢の出ですが、伊勢は海民の中心地の一つです。清盛が福原遷都をしたのは大輪田泊を拠点に日宋貿易を展開し、東シナ海、南シナ海に広がる一大海上王国を建設するというスケールの大きな構想があったからですが、これは典型的な海民の発想です。
その後、源平合戦で、平家は京都を逐われ、瀬戸内海を船で西へ向かいます。別に、行くとこがなく、難民化して船に乗ったわけではありません。船に乗るのが平家の本来の姿なんです。都に入ってからは「平家の公達」とか言われてすっかり都会化されてしまいましたが、もともとは荒々しい海民の一族ですから、水と風のエネルギーを操作する操船技術こそが彼らの本領なのです。
だから源平合戦のストーリーというのは、「沖には平家の船、陸には源氏の騎馬武者」という非常に分かりやすい図像的な構造になっています。源氏は船を仕立てて追尾するということをしない。つねに船を馬で追います。鵯(ひよどり)越(ごえ)では崖を駆け下り、屋島の戦いでは浅瀬を渡り、騎馬での戦闘能力を限界まで試みる。これには職能民としての維持があるわけですね。それぞれが自分たちの得意分野で戦う。だから、源氏が船を操り、平家が騎馬で戦うということについては微妙に抑制がかかっている。
「逆櫓(さかろ)」というエピソードがあります。義経が、梶原景時の進言した船を巧妙に操って平家を倒すという作戦を退ける話です。それがきっかけとなって義経は頼朝の不興を買って逐われる身となる重大なエピソードですけれども、よく考えると意味がわからない。戦術的には梶原の提案が正しいわけです。でも、義経はあくまで「騎馬で勝つ」という形式にこだわって、操船の利を拒む。これは義経が「飼部」の職能に忠実であることを局地戦での勝利より重く見たということだと僕は思います。職能民には職能民にしかわからない不可視の境界線があり、それを侵すことは許されない。これは単なるヘゲモニー闘争ではなく、技術と技術の戦いであるわけだから、相手の技術を借りて勝つのでは、意味がない。義経はそう考えたのだと思います。ですから、「那須与一の扇の的」も「弓流し」も「八艘(はっそう)飛び」も、義経の戦いの「見せ場」はどれも海上であるにもかかわらず、あえて騎射技術に固執する職能者のこだわりを描いたものです。
そういう象徴的な戦闘であるというふうに考えると、「野生獣のエネルギーを制御する技術に長けた職能民」が「海民」に勝利して、それから幕末まで武家政治体制を維持し続けたという文明史的な流れが見えてくる。そして、武道はこの「海部」から「飼部」へのヘゲモニーの移動と同時期に体系化されています。

野生のエネルギーを、調(ととの)えられた身体と精妙な技術をもって制御する技法ということであれば、操船技術も本来武術に算入してよいはずなんです。でも、源平合戦で源氏が勝ったことによって、日本の武道史では、操船技術は武術のカテゴリーから排除されました。だから武道のことを「弓馬の道」と言う。現代武道では、もう弓も馬も主流ではありませんけれども、それでも「刀槍の道」とは言いません。武道はあくまで「騎射」の技術を祖とするものだからです。
騎射というのは、野生獣と一体化し、そのエネルギーを人間の身体に取り込み、それによって人間単体では引くことができない強弓を引き、人間単体では果たせないほどの命中精度を達成する。そういう技術です。僕たちが現在稽古している武道はもう野生獣のエネルギーの制御技術からは遠く離れてしまっていますけれど、「野生のエネルギーを調えられた身体を通じて解放し、人間単体では達成できないような巨大な力を発動する」という基本的なアイディアにおいては、今も弓馬の道の伝統に従っています。

海民の伝統も源平合戦の敗戦で絶えたわけではありません。間歇的によみがえってくる。戦国時代の末期がそうでした。西国にキリシタン大名が出てきて南蛮貿易を行ったり、呂宋助左衛門、山田長政、高山右近といった人々が東アジアに雄飛した。豊臣秀頼の朝鮮出兵も構想的には海民的なものです。秀吉は明朝を攻め滅ぼして、後陽成帝を招いて新しい王朝を興すつもりでした。秀吉自身は寧波(ニンポー)に拠点を置いて、東シナ海、南シナ海を睥睨するという構想を持っていました。誇大妄想的ではありますけれども、これはあきらかに海民の流れを汲むものだと思います。でも、江戸時代になって、鎖国禁教という政策が採用されると、戦国末期以来の「海上王国」構想は萎んでしまいます。
幕末になると、その海民的な構想がもう一回蘇生してきます。清盛が開港したのと同じところに幕府の海軍操練所ができます。そこに赴任してくるのが勝海舟で、弟子で入ってくるのが坂本龍馬です。彼らが考えたのは海運貿易をさかんにすることによって日本を海上王国とするという千年前に清盛が考えたアイディアに近いものでした。明治維新以後の植民地主義的、膨張主義的な政策も、歪んだかたちではありますけれど、部分的にはこの流れを引き継いでいます。それが1945年の敗戦まで続きます。そして、とりあえず終わる。
海民的なアイディアはそのようにして間歇的に、そのつどかたちを変えて甦ってくる。「弓馬の道」によって日本列島を統御している政治勢力が衰弱してくると、オルタナティブとして海民たちが登場して新しい国のかたちを提案してゆく。海部・飼部の時代から現代に至るまで、この二つの力の拮抗と葛藤が日本の政治史に伏流していて、日本の政治過程を賦活しているというのが僕の仮説です。
 
武道的な考え方が西洋近代とうまく噛み合わないのは、武道では人間の身体は「力の通り道」だと考えるからです。巨大な自然のエネルギーが、調えられた身体を通って発動する。エネルギーは自分から出るわけではありません。源は外部にある。それが自分の中を通過する。水道管と同じです。巨大な水流を通そうとしたら、その水圧に耐えられるだけの、分厚い、抵抗の少ない水道管を用意しなければならない。薄手の管では、水圧に耐えられずに壊れてしまう。また管の表面が滑かでなければ、水流が滞留してしまう。ですから、野生の巨大なエネルギーを身体に通そうと思うなら、それを通しても傷つかないように身体を調えることが必要になります。武道修行の要諦はそこにあります。それは必ずしも自分の運動能力を高めるという表現では尽くせない。筋力を強めるとか、動体視力を高めるとか、反射速度を上げるとか、闘争心を持つとか、そういうことでは尽くせない。本来の武道修行とは、野生の巨大なエネルギーが通過しても傷つかないように心身を調えることにあります。人間の外部にある力を、人間の身体を通して発動し、それを制御する。その技術のことだと思います。
海部と飼部の戦いでは、結果としては、野生獣のエネルギー、陸のエネルギーを制御する技術を持った職能民が勝利しました。だから、武道として「弓馬の道」が残された。でも、本来は、心身を調えて野生のエネルギーを制御する技術は、すべて「武道」と呼ぶことができるだろうと僕は思っています。

鎌倉仏教は「大地の霊」を身体に受け入れ、それを発動するというアイディアによって日本固有の宗教となった。それが武道と発想において同一であることは今の話でご理解頂けると思います。
発生的に言うと室町時代の能楽が一番後に来るわけですけれども、能楽の場合は神霊を源とするエネルギーを、シテがその調えられた身体を通じて、美的なものとして能舞台上に発現する。ですから、シテにおいて「我」というのはあるだけ邪魔だということになります。シテはエネルギーの通り道です。大きな力を通せるだけの厚みがあり、滑らかさがあること、それがシテには求められます。世阿弥はシテの個性とかわざとらしさということを非常に批判したという話をさきほど松岡先生がされましたけれども、それは当然のことだと思います。そんなものがあればあるほど、シテを通じて舞台上に顕現するものは衰え、汚れるからです。
昔は、もう少し能役者の構えが自由だったのが、だんだん型が制約的になってきたというご指摘もその通りだろうと僕も思います。能におけるさまざまな約束事は、シテに自由なことをさせないための仕掛けだからです。かつてはシテが自由に動いても、日常動作自体そのものが規矩にかなっていたので、自然に型になった。でも、時代が下ると、能が要求する「調えられた身体」と、日常的に能楽師が自然に動くときの身体運用の間の「ずれ」が生じてきた。ですから、シテに自然な動きを禁じなければならないようになった。

最後に、能の呪術性ということを知るために、具体的な例を挙げたいと思います。
僕が能楽を稽古し始めてから聞いた話で一番驚いたのは、能の本番中にシテが失神したり、絶命したりした場合は、シテを切戸口から外に連れ出した後は、後見がその続きを舞わなければいけないということでした。重い装束をつけて、面もかけていますから、身体的には負荷が大きい。ですから、ぐっと力んだときに脳内出血とか起こすことがあるんだそうです。ふつうの演劇や舞踊でしたら、主演の役者やダンサーが倒れたら、すぐカーテンを降ろして、「すみません、主演者が倒れてしまったので、本日の公演はこれでおしまいです」となるはずなんです。けれども、能ではそうならない。神霊が舞台上に降りてきているわけですから、曲が終わったら、神霊を再び上げなければならない。だから、シテが倒れても、後見が最後まで舞い切って、最後まで舞台を勤める。
僕が実際に経験したことにこんなことがありました。能を舞い終えると、シテは橋掛かりを歩いて、幕の中に入ります。あの時、シテは自分で足を止めてはいけないんです。後見が先回りして、幕の中でシテの入りを待っている。そのときにシテに向かってお辞儀をします。僕がシテを勤めている時、後見は下川先生です。その先生が舞い終えた僕に「おつかれさん」と言ってお辞儀をしているわけではありません。先生は「僕が背負っているもの」に対してお辞儀をしているのです。そして、両手を差し出して、僕の腰のあたりを押さえて、歩みを止める。後見がそうやって止めるまで、僕の方から足を止めてはいけない。シテは止められるまで歩き続けなければならない。そうすると、どういう感じがするか想像できますね。シテが「背負っているもの」は後見が身体を止めたことによって、そのまま惰性でシテの身体を通り抜けて、外で飛び出す。それがおそらく「上げる」ということの儀礼なんだろうと思います。
自分で足を止めるなという点について、先生は非常に厳しかった。ふだんの稽古の時も、橋掛かりを通って、幕の中に入るところを稽古している時に、僕がついうっかり自分で止まってしまうと、きつく怒られました。これは楽屋内の決まりごとというよりはむしろ宗教的禁忌なんだなと感じました。神霊をそのまま生身の人間の身体の中にとどめ置いてはならない。「それ」は能が終わったら外に出さなければならない。それが実感としてわかったのだと思います。
それから、能楽では装束を着けて、面をかけてのリハーサルということをあまりやりません。玄人の場合、大抵は申し合わせと本番の二回だけです。あれだけ難しいことをやるのですから、同じメンバーで何回も繰り返し稽古して、間違えないように息を合わせるかと思いきや、基本的に二回しかしない。たぶん「慣れ」ということを嫌うのではないかと思います。あれはやはり「人の世ならざるもの」が降りてきて、シテに憑依して、最後に舞い納めて、天に上げるという呪術性の強い芸能ですから、あまり何度も練習するものではない。
実際に生涯に演じることの能の曲数は二千が上限だという話も聞いたことがあります。二千を超えると能楽師の命に関わるという話を玄人の先生から聞いたことがあります。
そういう点でも、能楽は今なお太古的な呪術性を残している芸能です。ですから、修行するものは、能楽のその霊的な意味をきちんと理解する必要があると思います。

最初にお話しされたアニシモフ先生は、自然のエネルギーと人間の関わりを制御する技術が存在する、その自然のエネルギーと人間の関わりの中に芸術的創造があるというお話をされました。それを伺って、基本的な原理は能と同じだなと思いました。スタニスラフスキー・システムについては、『俳優修業』をぱらぱらと読んだだけで、武道や能楽とは何の関係もないと思っていましたが、今日のお話を聞いて、実は非常に深いところではつながっていると実感しました。

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2017年01月12日 09:17 に投稿されたエントリーのページです。

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