司馬遼太郎への手紙

2016-09-24 samedi

産経新聞に「司馬遼太郎」についてのエッセイを季刊ペースで寄稿している。
今回が3回目。「司馬さんへの手紙」というタイトルが指示されたので、そういうつもりで書いた。

司馬遼太郎さま

はじめまして、内田樹です。ご著書はずいぶんたくさん拝読しましたが、ご生前には拝顔するご縁に恵まれませんでした。でも、こうして泉下の司馬さんあてに手紙を書く機会が与えられましたので、お会いする機会があったら申し上げたかったことをここに書いてみようと思います。
ご自身としてはあるいは不本意かも知れませんが、「司馬史観」という言葉があります。明治維新から日露戦争までの40年、敗戦までの40年、戦後の40年を三つに分割して、第二期、昭和一桁から敗戦までの十数年を「のけて」、前後をつなぐという歴史観です。
「その二〇年をのけて、たとえば、兼好法師や宗祇が生きた時代とこんにちとは、十分に日本史的な連続がある。また芭蕉や荻生徂徠が生きた江戸中期をこんにちとは文化意識の点でつなぐことができる」と司馬さんは書かれています(『この国のかたち』)。
司馬さんの本を読み出した頃は、「異胎の時代」を切除することによって日本歴史の連続性を回復するという司馬さんの戦略は戦後の日本人にとっては耳に心地よい物語として広く受け容れられるかも知れないと思っていました。
しかし、よく考えればわかることですが、この「異胎」「鬼胎」を生み出したのは他ならぬ日本人自身です。異胎を生み出すDNAは過去の日本人にあった以上、今もある。だから、きっかけさえあれば、また甦る。僕はそう思っています。
でも、司馬さんの書き物からは「異胎の時代」がいずれ再生して、統帥権と参謀本部の「あの二〇年」と「日本史的な連続」を遂げるのではないかという恐怖は十分には感じることができませんでした。あの時代のことは静かに封印してしまおう。醜悪で血なまぐさい記憶も時間が経てばいずれ大地に帰るだろう。そういう歴史の浄化力に対する信頼が司馬さんの世代には共通していたようなに思えます。
私の父は司馬さんより一回りほど年長です。満州事変の年に満州に渡り、敗戦のときは北京にいました。戦後に東京で家庭を持ちましたが、大陸で何をしてきたのか、何を見聞したのか、ついに家族に語ることはありませんでした。
僕が小さい頃のことで鮮明に覚えているのは、家で友人と飲んでいる席で父が「でも、負けたよかったじゃないか」とつぶやいたときに座がしんとなったこと。満鉄の財産を旧社員に分配するという話をかつての同僚が知らせたときに「満鉄からは何も受けとりたくない」と断ったこと。72年に日中が国交回復したあと、日中友好協会の会員となって、たくさんの留学生の世話をしたのですが、その理由として「中国人には返し切れないほどの借りがあるから」と言ったこと。そういう断片的、迂回的なしかたでしか父は「あの二〇年」については語りませんでした。それは「戦中派の親を持った子どもたち」に共通の経験ではなかったかと思います。父たちは誰にも言えないし、言いたくないことを見聞きし、自分でも行った。それは誰かの共感を求められるような質のものではなかった。だから、彼らはその記憶を墓の中まで黙って持ち去り、自分と一緒に土に帰すつもりでいたのだと思います。でも、戦中派の父たちのこの集団的な沈黙のせいで、「異胎の時代」にほんとうは何があったのかについて、僕たちはついに当事者の口からは聴く機会を逸してしまいました。
そして、戦中派の人々が鬼籍に入ると同時に、「あの二〇年」は素晴らしい時代だった、日本人は誇るべき事業をアジア各地で成し遂げたのだというようなことを言い出す人が出て来ました。これは司馬さんの予想していなかった事態だと思います。
司馬さんはノモンハンやレイテ島やインパールについて、「異胎の時代」の日本人が何を考え、どうふるまったのかについて、もし物語として書き残しておいてくださったら、あるいは日本の思想状況は今とは違ったものになっていたかもしれない。そんな詮方ないことをふと考えてしまいます。