僕のビートルズ

2016-07-08 vendredi

ビートルズ来日50周年を記念して『サンデー毎日』が小特集を組み、それに寄稿を求められた。昔のことを思い出しながら、いささか感傷的な文を草した。


「自分たちの世代のための音楽」とそうでない音楽は直感的に識別することができる。小説や美術や映画や演劇についてもそうだ。これは「自分たちの世代のためだけのものであって、他の誰のためのものでもない」ということは言われなくてもわかる。
もちろん、子どもたちのためには、そのつど「子ども向けの作物」というものが商業的には与えられている。でも、それを制作しているのは大人たちであり、彼らは、今どきの子どもが何を切望しているのかをほんとうは知らない。

村上春樹は「初めてビーチ・ボーイズの音楽に出会った」日のことをこう回想している。
「僕は14歳で、曲は『サーフィンUSA』だった。机の上にあった小さなソニーのトランジスタ・ラジオから流れてくるそのポップソングを初めて耳にしたとき、僕は文字通り言葉を失ってしまった。僕がずっと聴きたいと思っていたけれど、それがどんなかたちをしたものなのか、どんな感触を持ったものなのか、具体的に思い描くことができなかったとくべつなサウンドを、その曲はこともなくそこに出現させていたからだ。」(『意味がなければスイングはない』)
これに類した経験を、さまざまな時代に、多くの子どもたちが味わったはずである。僕もそうだ。僕は14歳で、曲はラジオから流れてきた『プリーズ・プリーズ・ミー』だった。残念ながら、僕には村上春樹のように「僕がずっと聴きたいと思っていた音楽」に出会ったというというほどの確信はなかった。でも、これが「これまで一度もラジオから流れてきたことのない音楽」だということは確信できた。だとしたら、これが僕たちの音楽でなければならない。そう思った。
それ以外の音楽については、ラジオのDJや音楽評論家たちの方が明らかに詳しい。圧倒的な情報量を誇る大人たちと、昨日今日音楽を聴き出した中学生ではまるで勝負にならない。でも、これまで一度もラジオから流れてきたことのない音楽、これまでのどんなポップスとも似ていない音楽、その起源や系譜が不分明な音楽についてなら、中学生にもわずかながら勝ち目がある。楽曲や演奏者について「誰だ、これ」という情報の欠如においては大人たちと対等であり、「ここにしか勝機がない」という切迫においては中学生の方に分がある。

いつの世でも子どもたちは最新流行に敏感で、(良し悪しにかかわらず)それに飛びつく。それは「新しすぎて、それが何だか誰にとってもよくわからないもの」を享受する競争でしか大人に勝つチャンスがないからである。
たぶん大人たちは、ビートルズの新しい音楽性について適切に語るためには「他のトラディショナルなポップスやジャズやブルーズを聴き込み、それと比較しないといけない」と思っている。でも、中学生にはそんな必要がない。中学生はレコード盤がすり切れるほどひたすらビートルズを聴いていればいいのである。
僕は級友たちと場末の映画館に繰り出して、『ア・ハード・デイズ・ナイト』 (『ビートルズがやって来るヤア!ヤア!ヤア!』という非常に発語しにくい邦題だった)を午後一杯観たことがある(その頃は「入れ替え」制度がなかったので、僕たちは段ボール箱にパンと牛乳を詰めたものをシートの下に置いて、休憩時間に食事をしながら繰り返し映画を見続けた)。
そういう愚行はまともな大人にはできない。とんまな子どもだけができる。
レコード盤をすり切れるまで聴き、酸欠で頭痛がしてくるまで映画館の暗闇に坐り込んでいることができるのが子どもたちの例外的な特権である。
中学三年までに僕はそれまでリリースされていたビートルズのヒット曲すべての歌詞を暗記した。それほど暇な大人はこの世にはたぶんいない。「勝った」とそのとき僕は思った。
でも、だいたい音楽について「勝った」とか「負けた」とか言うのはおかしな話だ。
正直に認めるけれど、僕のビートルズ経験は純粋に音楽的なものではなかった。あれは「新奇なもの」への理解度を競う、世代間でのヘゲモニー闘争の一種だったと今では思う。

1966年にビートルズが来日したとき、僕は彼らが投宿したヒルトンホテルの向いにある高校の1年生だった。直線距離にして数百メートルのところにビートルズがいた。だが、高校生の僕にとってその距離は絶望的に遠かった。それまで一度も足を踏み入れたことのない高層ホテルを銀杏の枝の隙間から見上げて、ビートルズはもう僕たちのアイドルであるより以上に、大人たちが仕切る巨大なエンターテインメント・ビジネスのプレイヤーなのだということを僕は思い知った。ビートルズが何であるかを大人たちはすでに僕たちとは別の仕方でよく理解し、彼らを潤沢に享受していたのである。
あの年、ビートルズの東京公演を生で聴くことのできた高校1年生がいったい何人いただろう。政治家や財界人や芸能人の関係者で、コネを使ってチケットを手に入れることのできた者はいただろうけれど、彼らはそういうことができるという点ですでに「小さな大人」であり、映画館の暗闇で頭痛と尻の痛みに耐えることが「熱狂すること」だと信じていた中学生とは無縁の衆生である。
皮肉なことだけれど、空間的にビートルズが僕にとって一番近くにいた1966年の6月に「僕のビートルズ」は無限に遠い存在になっていた。

だから、僕は1970年にビートルズが解散したときに、正直言って、少しほっとした。ビートルズはもういない。もう存在しないバンドの音楽をいつまでも哀惜するような暇はメディアにも音楽ビジネス業界にもない(でも、僕にはある)。事実、人々はすぐにビートルズのことを忘れた(四人の個人的な活動は続いたけれど、それはもう「ビートルズ」のものではない)。
僕が部屋の壁に四人の写真を貼ったのは73年に自由が丘の部屋に引っ越したときのことである。メディアは次のアイドルを探すことに忙しくて、もうビートルズについて言及することはまれになっていた。四人の写真は僕にとって「遺影」のようなものだった。そして、死者がしばしば生前より身近に感じられるように、ビートルズが存在するのを止めてから、人々がビートルズのことを忘れ始めてから、ようやく僕はジョンとポールとジョージとリンゴを再びとても身近に感じるようになった。