あるインタビューから

2015-12-06 dimanche

ある市民団体の機関紙のインタビューを受けた。
一般の方の眼にはあまり触れる機会のないものなので、ここに転載しておく。

安倍政治の暴走をゆるさない  国民の力に確信を 内田樹神戸女学院大学名誉教授に聞きました

ー安保法制改悪案の強行採決から二ヶ月になりますがいまの状況をどのように判断されていますか

その後に大阪の知事・市長のダブル選挙での維新の勝利もあり、安倍政権の支持率が四七〜四八%という結果も出ています。正直言って、日本国民が今の政治をどう評価しているのか理解に苦しむところです。
どう考えてみても国民生活にとってははっきり不利益になる方向に政治は進んでいます。政権運営は安保法制の強行採決、辺野古基地の工事の強行に見られるように際立って強権的・抑圧的ですし、アベノミクスはあらゆる経済指標が失敗を告げており、メディアや大学に対する干渉もどんどん現場を萎縮させている。市民生活が直接攻撃されているにもかかわらず、当の国民が自分たちの生活をおしつぶそうとしている政権に支持を与えている。論理的に考えるとありえないことです。なぜこんなことがまかり通っているのか。
思想的には「戦前回帰」ですが、戦前の日本には軍部と治安維持法という実効的な暴力装置がありました。今の日本にはそういうものはありません。ですから、市民が政府に怯えて政府の暴走を看過しているということではい。市民自身がその暴走を「よいこと」だと思っているということです。

国民の半数が政権の暴走にある種の期待や好感を寄せているという事実を私たちはまず冷静に見つめる必要があります。
当否の判断はさておき、多くの国民は「今のシステムを根本から変えたい」という強烈な「リセット願望」を持っている。安倍政権は「戦後レジームからの脱却」を掲げて登場してきた過激な改革派政権です。現在の自民党は保守ではなく革新なのです。その点を見落とすと高い支持率の意味が理解できなくなる。

政権は憲法という国の骨格の背骨の部分を否定し、それに基づく立憲デモクラシー、教育、メディアなどのありかたをほとんど否定しようとしています。彼らがめざすのは「革新」であり、ほとんど「革命」に近い。
そして、それに対する国民の側からの反対運動も看板では「革新」を掲げている。現状の日本のシステムはダメだ、改革しなければならないと言っている。つまり、政権も政権に反対する側も「劇的な変化」を望むという言葉のレベルでは同じことを言っているのです。

ですから、従来のような右翼/左翼、保守/革新、独裁/民主という二項対立では現状は説明できません。安倍政権の暴走を止める理論的根拠を示すためには、それとは違う新しい構図を持ってこなければならない。

国民の意識が反転されたような形で出てくる原因はどこにあるのでしょうか

戦後70年の最も大きな変化の一つはかつては人口の50%を占めていた農村人口が人口比1.5%にまで激減したということです。それは農村共同体的な合意形成の仕組みが放棄され、「会社」の仕組みがマジョリティを形成するに至ったということです。
統治のスタイルもそれに応じて変化しました。それが社会のすべての制度の「株式会社化」をもたらした。

株式会社は民主主義によっては運営されていません。
CEOに権限情報も集中させ、すべてが上意下達のトップダウン組織です。従業員の合意を取り付けてから経営方針を決めるというような鈍くさい企業は生き残ることができません。経営政策の適否について従業員は判断することが許されない。それはCEOの専管事項です。

でも、そのようなワンマン経営が是とされるのは、その「独裁的経営者」のさらに市場が存在するからです。経営判断の適否は市場がただちに売り上げや株価として評価する。商品がどれほどジャンクなものであっても、雇用環境が非人間的であっても、市場が評価して売り上げが伸び、株価が上がる限り、CEOは「成功者」とみなされる。
そういう仕組みに現代日本人は慣れ切っている。生まれてから、そういう組織しか見たことがないという人がもう人口の過半です。彼らにしてみると「民主主義的合意形成って何?」というのが実感でしょう。家庭でも学校でもクラブ活動でもバイト先でも、これまでの人生でそんなもの一度も経験したことがないのですから。知っているのは株式会社的トップダウン組織だけであり、その経営の適否は組織成員たちの判断によってではなく、上位にある市場が決定する。
自分の生き方が正しかったかどうかを決めるのは、試験の成績であり、入学した学校の偏差値であり、就職した会社のグレードや年収であるという「成果主義」「結果主義」にサラリーマンは慣れ切っています。
その心性が安倍政権を批判することができない知的な無能を生み出す土壌だと私は考えています。

安倍晋三も橋下徹も「文句があったら選挙で落とせばいい」という言葉をよく使います。これは彼らが選挙を市場と同じものだと考えていることをはしなくも露呈しています。
選挙とは市場における競合他社とのシェア争いと同じものである。それに勝てば政策は正しかったことになる。どんなジャンクな商品でも、パッケージデザインや広告がうまければシェア争いで勝つことができ、勝てばそれは「よい商品」だったということになる。
「大阪都」構想をめぐる住民投票で負けた後、橋下市長は「負けたということは政策が間違っていたということでしょう」と言い放ちました。しかし、選挙の勝ち負けと政策の良否は次元の違う話です。政策の良否はそれが実施された後の何年、何十年のちの、本当の意味での「成果」を見なければ判定できない。でも、彼らはそんなことには関心がない。次の選挙の勝敗だけが重要であるというのは株式会社の「当期利益至上主義」と同質のものです。

SEALDsの活動はそういう状態に風穴をあけた感じがありますね
 
SEALDsの活動の際立った特性はそれが現代日本の政治状況における例外的な「保守」の運動だということです。彼らの主張は「憲法を護れ」「戦争反対」「議会制民主主義を守れ」ということです。国民主権、立憲デモクラシー、三権分立の「現状」を護ることを若者たちが叫んでいる。
老人たちのつくる政権はあとさき考えずに暴走し、若者たちが「少し落ち着け」と彼らに冷水を浴びせている。まるで反対です。こんな不思議な構図を私たちはかつて見たことがない。だから、今起きていることをよく理解できないのです。

この夏に国会内外で起きたのは、国会内では年寄りの過激派たちが殴り合い、国会外では保守的な若者たちが「冷静に」と呼びかけたという私たちがかつて見たことのない光景でした。あれを60年安保になぞらえるのは不適切だと私は思います。日本人は「あんな光景」をかつて見たことないのですから。
それに気がつかないと今何が起きているのかがわからなくなる。今の日本の政治状況の対立図式はひとことで言えば「暴走/停止」なのです。

この保守的な護憲運動の特徴は、支持者のウィングを拡げるために「安保法制反対」という「ワン・イシュー」に限定したことです。通常の市民運動はそこから原理的に同一の政策をどんどん綱領に取り込みます。原発問題、沖縄基地問題、人権問題、移民問題、LGBT問題へとどんどん横に拡げて、網羅的な政策リストを作ろうとする。けれども、そうやって政策の幅を拡げることで、市民運動への参加者のハードルはむしろ上がってしまう。

「学者の会」に対しでも、安保法案反対という以外の政策についても会としての統一見解を語るべきだという人がいました。他の政策について意見の違う会員を「除名しろ」という意見を述べた会員もいました。彼らはそうやって政策の整合性や精密性を追求すればするほど仲間が減って行くということはあまり気にならないらしい。
SEALDsはその点ではむしろ「大人」だったという気がします。彼らは政治目標を法案反対一点に絞って政策集団としての綱領的な純粋性や整合性をめざさなかった。だから、あれだけ多くの賛同者を惹きつけることができたのだと思います。
彼らは法案に反対しているだけで「よく戦わないもの」を罵倒したり、冷笑したりすることがなかった。できる範囲のことだけでいいから自分たちの運動を支援して欲しいとていねいに、実に礼儀正しく市民たちに訴えた。世間の耳目を集める政治運動がこれほど謙虚であった例を私は過去に知りません。それだけ彼らの危機感が強かったということだと私は思います。文字通り「猫の手も借りたい」くらいに彼らはせっぱ詰まっていた。だから、「これこれの条件を満たさないような人からの支援は要らない」というような欲張ったことを言わなかった。その例外的な礼儀正しさに、彼らがほんとうに肌に粟を生じるほどに安倍政権の暴走を恐怖していることが私には伝わってきました。

年があけて二〇一六年は夏に参院選があり、ここでまた国民の次の判断が求められます。改悪戦争法の破棄、集団的自衛権容認の閣議取り消しをもとめる一点集中の政府実現のために野党共闘が呼びかけられています。また、戦争法廃止、憲法九条守れの二〇〇〇万人署名が総がかり運動としてすすめられています。いま大事なことはどういうことでしょうか

「保守と革新」という対立軸がいつのまにか逆転していることに気づかなければ、何をすべきかは見えてこないと思います。市民生活を守るために、私たちがまず言わなければならないのは「落ち着け」ということです。「止まれ」と言うことです。議論なんかしている暇はない、全権を官邸に委ねてお前たちは黙ってついてくればいいんだという前のめりの政治家たちに対して「少し落ち着きなさい。ゆっくり時間をかけて議論して、ていねいに合意形成をはかりましょう」と告げることだと思います。暴走する政治家たちの決まり文句はいつでも「一刻の遅れも許されない」「バスに乗り遅れるな」ですけれど、これまでの経緯を振り返れば、それが「嘘」だということははっきりしています。決定に要した時間と政策の適切性の間には何の関係もありません。

逆説的ですが、今の市民運動に求められるのは「急激には変化しないこと」です。国のかたちの根本部分は浮き足立って変えてはならない。そのための惰性的な力として市民運動は存在します。それは市民運動のベースが生身の身体であり、生身の身体は急激な変化を望まないからです。
痛み、傷つき、飢え、渇き、病む、脆い生身の身体をベースにしている運動は独特の時間を刻んで進みます。その「人間的な時間」の上に展開される市民運動がいま一番必要とされているものだと私は思います。
まずは来夏の参院選で政権の暴走を止めるために、「立ち止まって、ゆっくり考える」というただ一つの政治目標の下にできるだけ多くの国民を結集させることが最優先だと思います。