大阪ダブル選では、政策的には候補者間に大きな違いはなかった。いずれの候補者も大阪の全方位的な長期低落傾向を嘆き、再活性化の喫緊であることを訴えていた。そして、結局「大阪都構想」が再び争点になった。
ふつう半年前に否決された政策が(特段の条件の変化があったわけでもないのに)再び争点化するということはない。ということは、この選挙のほんとうの「賭け金」が政策ではなかったということを意味している。
大阪の有権者が選択を求められたのは政策の「中身(コンテンツ)」ではなく、候補者の人間性あるいは手法という「容れ物(コンテナー)」だったと私は理解している。
維新・非維新候補の際立った違いは何よりも「一枚岩の政党」の候補者か「寄り合い所帯」の候補者かという点にあった。有権者たちはその違いに最も敏感に反応した。「街の声」でも、SNSに流れた感想でも、大阪維新のアドバンテージとして「話がわかりやすい」「言うことに一貫性がある」を挙げたものが多かったし、逆に、自民党・民主党・共産党が推した候補者たちはまさに国政において対立している政党の支援を基盤にしたゆえに、いったいどのような立場を代表しているのか「わからない」という批判に終始さらされた。
有権者は「一枚岩組織」のもたらす「わかりやすさ」を選好し、「寄り合い所帯」の「わかりにくさ」を退けたのである。
この「組織のかたち」についての選好のうちに私はこの選挙結果の歴史的な意味を見る。
現代人は「一枚岩」の、上意下達でトップの指示が末端にまで瞬時に伝達され、成員が誰も命令に違背しない、そのような組織を好む。そのような組織こそが「あるべき姿」であり、それ以外のかたち(例えば、複数の組織が混在し、複数の命令系統が交錯し、複数の利害が絡み合うようなかたち)は「あってはならない」ものだと信じている人がたぶん現代人の過半を占めるであろう。
以前から繰り返しているように、この趨勢を私は「株式会社化」と呼んでいる。
CEOが経営方針を決定するというのはビジネスマンにとっては「常識」である。従業員の過半の同意がなければ経営方針が決まらないような「民主的」な企業は生き馬の目を抜くビジネスの世界を生き抜くことはできない(そもそも存在しない)。ワンマン経営者は取締役会の合意さえしばしば無視するし、株主総会は事後的に経営の成否について評価を下すが、事前に経営方針の適否について判断する機関ではない。
株式会社はトップが独断専決することを許容するばかりか、しばしばそれを理想とさえする。
トップによる独断が許されるのは、なぜか。理由は簡単である。それは経営者のさらに上に「マーケット」という上位審級が存在するからである。
経営戦略の適否を判断するのは従業員でもないし、取締役会でもないし、株主総会でもない。それは「マーケット」である。
「マーケットは間違えない」というのはビジネスマンの揺らぐことのない信仰箇条である。
そして、ビジネスマンが「マーケットの下す判断」を愛するのは、何より「マーケット」では判断が下るまでに長い時間を要さないからである。経営政策の適否は、ただちに翌月の売り上げや株価として誰にもわかる数値として開示される。
ビジネスマンにとって(もっと広く「営利企業で働く人々」と言い換えてもいい)にとってはそれが「社会というもの」である。それ以外の組織のかたちを「生まれてから見たことがない」という人さえいるだろう。例えば、子供の頃はよい成績を上げて、よい学校に進学することが「家庭という企業」の製造する製品の質を示すことになると教え込まれ、学校を卒業するときには、有名企業に入り、高い年収を得ることが「大学という企業」のアウトプットの市場での評価を高めると教え込まれた子供がサラリーマンになった場合、彼は生まれてから「そういう組織」しか見たことがない大人になる。
当然、その人は「あらゆる社会組織は株式会社のように制度化されねばならない」と心から信じる市民となるだろう。
そのような人が政治を見ると、「マーケット」は選挙だということになる。
同業他社とのシェア争いが他党との得票率争いに相当する。たしかに「マーケット」における売り上げやシェア争いと同じように開票結果は一夜でわかる。政策の良否は選挙の勝敗によって示される。それで終わりである。「その後」はない。
ビジネスマンならそう言うだろう。
けれども、この「株式会社原理主義者」たちはたいせつなことを忘れている。
それは「政策は商品ではない」ということである。
さらに言えば、「国民国家や自治体は株式会社ではない」ということである。
どこが違うのかと言えば、責任の範囲がまったく違うのである。
株式会社にとって考え得る最悪の事態は倒産である。けれども、それで終わりである。株主は出資金を失う。それ以上の責任は問われない。株式会社は世にも稀な(というか唯一の)「有限責任体」なのである。
だが、国や自治体はそうではない。それは「無限責任体」である。
国や自治体に失政・失策があれば、そのツケを後続世代の人々は半永久的に払い続けなければならない。現に、福島原発はわが国の原子力政策の失敗だが、国土の汚染と住民たちの生業喪失と健康被害は東電が派手に倒産してみせたからと言ってまったく回復されることがない。そもそも私たちは70年前に私たちが選任したわけでもない政治家や官僚や軍人たちが犯した戦争の責任を今も問われ続けているではないか。この責任追求が私たちの世代で終わるという楽観的見通しに与する日本人はごく少数であろう。
だからこそ、先人は共和政という使い勝手の悪い政体を選んだのだと私は思う。
共和政という、複数の価値観や複数の利害が絡み合うことを常態とする政体ではなかなかものごとが決まらない。けれども、なかなかものごとが決まらずにいるうちに、歴史の淘汰圧に耐え得ない空疎な政策や組織が消え失せ、生き残るべきものが生き残る。適否の判断を「歴史という審判者」に委ねることを人々は選んだ。それほどには歴史の判定力を人々が信じていたのである。
「歴史の審判力を信じる」共和主義者は形式的には「マーケットは間違えない」と信じているビジネスマンと違わない。
違うのはどれくらいのタイムスパンでことの良否を判定するか、その時間の長さである。政治については、一夜ではことの良否はわからない。吟味のためには時間がかかる。まして、選挙で相対的に多数を制した政党の政策が、選挙結果だけを以て「正しい」ものであることが確定したなどということはありえない。
共和制的な合意形成には時間がかかる。けれども、その代価として、国や自治体にどのような致命的失政があっても、それについて「私には責任がない」「ほら見たことか」と言うような市民ができるだけ出てこないように抑制することはできる。
共和制は全員が多かれ少なかれ現状に責任があるということを認め合う仕組みだからである。
「全員が政策決定がもたらす成功の恩恵も失敗の責任も等しく分かち合う仕組み」というのは、言い方を変えれば、「全員が(ろくでもない)現状に同程度に不満であるような仕組み」のことである。
私はこれを先賢が知恵が振り絞って構想した政治の仕組みだと思う。けれども、残念ながら私たちの時代にはそのような仕組みに価値を見出す人は次第に少数派になりつつある。
(2015-11-27 16:02)