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北海道新聞のインタビュー

「歴史と語る」内田樹さん(64歳) 思想家、武道家

私たちは今、戦争と戦争のはざまの時代、「戦争間期」にいる。
思想家、内田樹さんが最近、あちこちで訴えている。国会で審議中の、戦後平和主義を転換させる安全保障関連法案に反対しているだけではない。現代日本の根底にある問題を見据えた上での警告だ。それは何か。神戸を訪ねて話を聞いた。

ー70年を迎えた戦後。どう捉えていますか。

「戦後の日本は『対米従属を通じての対米自立』を国家戦略としてきました。敗戦国としてはそれ以外に選択肢がなかったのです。主権国家として自立するために占領国に従属するという『面従腹背』が国家戦略の基本でした。でも、『直近の敵国に従属している』という屈託につねにとらえられていた。田中角栄や中曽根康弘世代までの政治家には、一日も早く対米独立を果したいという焦燥感と意志が感じられました」

ー対米追従の結果、何を得たのでしょう。

「連合国軍総司令部(GHQ)に徹底的に従った結果、敗戦からわずか6年後にはサンフランシスコ講和条約で国際法上の主権を回復できました。60年代には国際社会で批判の高かったベトナム戦争で米国を全面的に支持して、それが72年の沖縄の施政権返還に結実した。この時期までは、少しずつではあるけれど、国土と国家主権は着実に回復されていました。この頃までは『対米従属を通じての対米自立』は合理性のある国家戦略だったのです」

ー現在に至るまで政府は同じ戦略に見えます。

「ある時点から変質したのです。手段としての『対米従属』が自己目的化し、『対米自立』という長期的目的が忘れられてしまった。すでに沖縄返還から43年が経ちましたが、国土も主権も何一つ奪還していません。沖縄、横田などの基地について日本政府には返還を求める様子さえない。戦後70年にわたって、外交、防衛からエネルギー、食糧、医療、教育に至るまで、重要政策について日本は絶えず米国の顔色を伺いながら、その許諾を求めて、政策決定をしてきました。その結果、米国の意図を忖度して、手際よく実現できる人たちばかりが日本の政官財界、メディアから学界まで牛耳るようになってしまったのです」

ーどうしてそんなことに。

「田中角栄のケースが響いていると思います。田中は米国の了解を得ずに中国との国交正常化を図ったため米政権の怒りを買い、米国上院から始まったロッキード事件(注1)で逮捕されました。以後、米国の逆鱗に触れた政治家は政権を維持できないということは日本の常識です。佐藤栄作、中曽根康弘、小泉純一郎・・・、親米派の政権以外は長期政権を保つことができない」

ー米国が日本の内政に露骨な干渉をしているとは思えません。

「米国が直接口出ししなくても、日本国内に従属システムができあがっています。最近では鳩山由紀夫首相が沖縄の米軍普天間基地の移設先を『最低でも県外』と言ったら、いきなり首相の座から引きずり下ろされた。別に米国が内政干渉したわけではありません。日本の政治家、官僚、メディアが一致して『米国の国益を損なうような政治家に政権は任せられない』と大合唱して辞めさせたのです。彼らのロジックは『米国の国益を最優先に配慮することが日本の国益を最大化する唯一の道である』というものです。そういう発想をする人間が日本では『リアリスト』と呼ばれているのです」

ー同じ敗戦国のドイツやイタリアは日本と違うのですか。

「ドイツやイタリアでは戦時中でも政権への激しい抵抗が繰り返されました。ドイツではヒトラーの暗殺が何回も計画されましたし、イタリアのムソリーニはパルチザンに処刑されましたし、イタリア軍は最後は連合国側に立ってドイツ軍と戦いました。しかし、日本には戦争指導部に対する理性的な批判も、組織的な抵抗もありませんでした。だから、戦争が終わったときに敗戦の総括をしうるだけの倫理的・知性的な基盤をもった国民主体が存在しなかったのです」

ーなぜ日本では抵抗が弱かったのでしょう。

「日本にも自由民権運動に代表されるオルタナティブが存在したのですが、1910年の大逆事件(注2)などで徹底的に弾圧され、反権力的な知の血脈が途絶えてしまった。
それ以前に、幕末の戊辰戦争(注3)、西南戦争での敗戦処理がうまくゆかなかった。そのせいで明治の日本では、ほんとうの意味での国民的統合は果されなかった。日本の制度としての強みは300の藩に統治単位が分かれていたリスクヘッジの確かさにあったと私は思いますが、明治政府が導入した欧米的な中央集権的な統治システムによって、日本の社会的多様性が失われ、社会が均質化・定型化した。それが戦争への抵抗の弱さ、そして敗戦そのものに帰結したと私は思います」

ー多様性を消し去ったことが戦争の背景にあると。

「陸軍の長州閥が消滅したあと、1930年代に『旧賊軍』藩士の子弟が大量に入り込みました。太平洋戦争開戦時の首相だった東条英機の家はもともと岩手、満州事変首謀者の石原莞爾は山形、板垣征四郎も岩手。『旧賊軍のルサンチマン(遺恨)』を抱えた彼らが暴走したのは勝者である薩長がつくった『明治レジームからの脱却』を目指したためです」

ー何だか現在に重なって聞こえます。

「今は先の戦争と次の戦争の間の『戦争間期』にあると私は思っています。安倍首相の言う『戦後レジームからの脱却』は憲法を基につくり上げた国のかたちを破壊することです。具体的にどのような統治システムを作りたいのか自民党改憲草案を読めばはっきりはわかりますが、国のかたちについて彼が語る言葉はほとんど抽象的な空語です。とりあえず戦後日本の統治システムを破壊したいということしかわからない。彼が最優先しているのは、とにかく『戦争ができる国』になることです。彼の脳裏では『戦争ができる国』が主権国家と等置されている。それが米国の従属下であっても、戦争ができるようになりさえすれば「国家主権は回復された」と彼は思い込んでいる。
「戦後レジームからの脱却」は端的には民主制・立憲主義を捨てることを意味しています。安倍政権を支える財界人たちが理想とする国家モデルはおそらくシンガポールです。経済成長が国是で、一党独裁、反政府メディアも反政府的な労働運動も学生運動も存在しない。治安維持法で政府にとって不都合な人物は予防拘禁される。経済活動だけに専念したい人にとっては統治コストがきわめて安い、理想の国家モデルに見えていることでしょう。しかし、国家は企業ではありません。株式会社なら経営に失敗しても倒産して株券が紙くずになるだけです。それで終わりです。でも、国家の失政によって何百万人も死ぬ。戦争犯罪や植民地支配のツケは何世代にもわたって支払い続けなければなりません。国家経営の失敗には倒産という手は使えないのです」

ーどうすれば破滅を食い止められるのですか。

「世界は今、歴史的な転換点にあり、国際社会の枠組みは急速に変わっています。超覇権国家だった米国の衰退が始まり、中国やロシアが台頭し、欧州ではドイツが一人勝ちの状態です。16億人を抱えるイスラム圏がこの先どうなるのかも見通しが立ちません。にもかかわらず、日本政府は相変わらず対米追従以外に何の国際戦略も持っていません。思考が停止している。海外メディアが日本は危機的な状況にあると繰り返し警告しているのに、耳を貸す様子もない。このような状態で日本が歴史的激動期を生き抜けるのかどうか、たいへんに心配です。」


<内田さんのこの一冊>
ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書

石光真人編著
1971年、中公新書
660円(税別)
明治維新で朝敵の汚名を着せられ、降伏後は下北半島に移封され寒さと飢えの生活を強いられた会津藩。柴五郎は「賊軍」会津の出身でありながら陸軍大将になった硬骨の軍人であり、その少年時代を回想した自伝が本書である。
薩長中心に書かれた明治維新史の裏面であり、日本が本当は統一された国家になっていなかったことが読み取れる。そのことが戦争に至る政策決定にも大きく影響している。

<略歴>
うちだ・たつる 1950年、東京都生まれ。東京大仏文科卒業、都立大大学院博士課程中退。年から神戸女学院大助教授。年に同教授。2011年3月に退官。専門はフランス現代思想、武道論、教育論など。合気道6段。著書は「街場のアメリカ論」「日本辺境論」「街場の戦争論」「日本戦後史論」(白井聡氏との共著)など多数。現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。

<取材して>
インタビューの後、自宅1階にある武道場で杖を使った武道の稽古を見学させてもらった。師範の内田先生は初心者の子どもにも真剣に向き合う。身体の動かし方について手本を見せるだけでなく、さまざまな表現を用いて説明を尽くしながら指導していた。
言論の府であるはずの国会では、聞かれた質問に答えなくても委員会の時間数を重ねれば十分とばかりに強行採決が行われた。内田先生は「安全保障関連法案に反対する学者の会」の呼びかけ人になって、集会や記者会見で今日も語り続けている。言葉を尽くすこと。それしかない。
(東京報道センター次長 志子田徹)


<注釈>
 注1 ロッキード事件 1976年、米上院でロッキード社が大型旅客機「トライスター」を全日空に売り込むため、日本の政界にわいろを送っていたことが発覚。東京地検特捜部は同年7月27日、5億円を受領したとして外為法違反容疑で田中角栄元首相を逮捕、翌8月に同法違反と受託収賄の罪で起訴した。
 注2 大逆事件 1910年、明治天皇の暗殺を計画したとして幸徳秋水らの社会主義者、無政府主義者など全国で数百人が摘発された思想弾圧事件。起訴された26人のうち翌11年に24人が死刑判決を受け、幸徳ら12人が処刑された。
 注3 戊辰戦争 1868年から69年にかけて、明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。最後の拠点だった箱館五稜郭が陥落して終結し、明治国家確立への道が本格化した。

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2015年08月21日 15:55 に投稿されたエントリーのページです。

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