大衆の変遷

2015-07-16 jeudi

だいぶ前に吉本隆明の著作の解説に付した文章だが、「岸信介と60年安保」について言及した箇所があり、それが7月15日のできごとに関連しているような気がしたので、


「大衆」の変遷 
私自身は高校生のときから大学院生の頃まで吉本隆明の忠実な読者だったが、その後、しだいに疎遠になり、埴谷雄高との「コム・デ・ギャルソン論争」を機に読まなくなった。その消息については別のところに書いたのでもう繰り返さない。たぶんその頃、吉本がそれまで政治評論において切り札として使っていた「大衆」という言葉に不意にリアリティを感じられなくなってしまったからだろうと思う。それは吉本のせいではない。彼がその代弁者を任じていた、貧しくはあるが生活者としての知恵と自己規律を備えていた「大衆」なるものが、バブル経済の予兆の中でしだいに変容し、ついには物欲と自己肥大で膨れあがった奇怪なマッスに変貌してしまったことに私自身がうんざりしたからである。マッスに思想はないし、むろん代弁者も要さない。そんな仕事は電通とマガジンハウスに任せておけばいい。私はそんな尖った気分で吉本の「大衆論」に背を向けてしまった。

60年代に吉本隆明は「大衆の原像」というつよい喚起力を持つ言葉を携えて登場した。そして、戦前からの左翼運動が一度として疑ったことのない「革命的前衛が同伴知識人を従えて大衆を領導する」という古典的な政治革命の図式を転倒させてみせた。それはたしかに足が震えるような衝撃だった。
「庶民や大衆は、複雑な抵抗多い日常体験をもとにして、知識人、文化イデオローグ、思想イデオローグの優位に立つ可能性をもっているのが、日本の社会における特質であるということができる。」(「知識人とは何か」、『吉本隆明全集6』、晶文社、2014年、160頁)
政治的な言葉というのは、それまでは政治的知識人の専管物と思われていた。大衆がその固有の生活実感に基づいて語る言葉が政治的たりうること、そればかりか知識人よりも優位に立つ可能性を持っていると言い切った左翼知識人は吉本以前にはいなかった。
もちろん大衆の日常の身体実感のうちに潜む政治的エネルギーを功利的に活用しようとした思想家はいくたりもあった。というより、大衆の「複雑な抵抗多い日常体験」が分泌する情念をこそ日本のファシズムはその滋養としたのである。だから、誰が大衆の思想的代弁者なのかということはきわめて本質的な問いであった。戦前の左翼と右翼の間で争われたのは「大衆の思想的代弁者」を名乗る権利であり、その帰趨は周知のごとくである。
吉本の「転向論」は、なぜ戦前の左翼知識人たちがついに大衆の思想的代弁者たりえなかったのかを問うたものである。本来なら彼よりずっと年長の知識人たちが「自分の問題」として引き受けるべき問いを、吉本は転向経験を知らない世代でありながら、自らの問いとして引き受けた。
吉本隆明は敗戦の年に二十歳だった。彼よりもう少し年長の知識人たちは、戦前は「プロレタリア」の旗を振り、戦中は「八紘一宇」や「皇運扶翼」の旗を振り、戦後は「民主主義」の旗を振った。彼らはそのつどの支配的な言説になびいて生き延びた。草莽の臣として「大君の辺にこそ死」ぬことを本望としていたかつての軍国少年は敗戦をまたぐ彼らの「変節」につよい嫌悪を感じたのである。
吉本世代の経験は、喩えてみれば、生まれてからずっと閉鎖病棟の中で過ごしてきた子供が、ある日「この病棟で行われてきたことはすべて間違っていた。ここはもう閉院するから今すぐ出て行け」と言われたのに似ている。子供たちはその病棟で、少ない年数ながら、四季の移ろいを味わい、師友に出会い、恋人を思い、書を読んできた。それぞれの経験がもたらした感動は、誰が何と言おうと、本人にとっては唯一無二かけがえのないものだった。それらの経験すべてを「間違った治療行為がもたらしたものだったので、なかったことにしてほしい」と言われていきなり「なかったこと」にできるものではない。
戦後日本が「なかったこと」にしようとしている戦前の日本に吉本隆明は文字通り「自分の半身」を遺していた。それを切り捨ててしまったら、自分の半分は死んでしまう。戦前の日本に遺したわが半身をなんとか奪還し、戦後の半身に縫合しなければ、(戦場であるいは空襲で死んだかもしれない)二十歳までの自分が浮かばれない。だから、「草莽の臣」として首尾一貫していたおのれの少年時代と、プロレタリア知識人として首尾一貫していたおのれの青年期を思想的にも身体的にも架橋しなければならない。それが吉本隆明にとって個人的な喫緊の課題であり、転向論はそのための理論的基礎づけであった。

「転向論」は日本共産党の指導者であった佐野学、鍋島貞親の獄中転向の分析から始まる。吉本はこれを権力による脅迫によるものではなく、自発的なものと解した。
「むしろ、大衆からの孤立(感)が最大の条件であったとするのが、私の転向論のアクシスである。」(「転向論」、『吉本隆明全著作集13』、1969年、勁草書房、9-10頁)
佐野たちは「わが後進インテリゲンチャ(例えば外国文学者)とおなじ水準で、西欧の政治思想や知識にとびつくにつれて、日本的小情況を侮り、モデルニスムスぶっている、田舎インテリにすぎなかった」。そして、転向とは「この田舎インテリが、ギリギリのところまで封建制から追いつめられ、孤立したとき、侮りつくし、離脱したとしんじた日本的な小情況から、ふたたび足をすくわれたということに外ならなかったのではないか。」(同10頁)
この時期の転向者たちは、獄中で仏教書や日本の国体思想についての書物を読んで、その深遠さに一驚して、一夜にして天皇主義者になるという定型を歩んだ。これを吉本は「日本的小情況への侮り」の必然的帰結と見なしたのである。
「この種の上昇型のインテリゲンチャが、見くびった日本的情況を(例えば天皇制を、家族制度を)、絶対に回避できない形で眼のまえにつきつけられたとき、何がおこるか。かつて離脱したと信じたその理に合わぬ現実が、いわば、本格的な思考の対象として一度も対決されなかったことに気付くのである。」(同、17頁)
「転向」は戦前の左翼に限られない。戦後日本においても、「転向」はその意匠を変えて繰り返されるだろう。戦後知識人たちも今はマルクスやフロイトやサルトルといった名前をちらつかせて、「日本的小情況」を軽々と乗り越えた気になっているけれども、その思想が「日本の社会構造の総体によって対応づけられない」ものにとどまる限り、いずれ「理に合わぬ現実」を突きつけられたときに、一気に転向するだろう。吉本はそう暗鬱に予言した。この毒のある予言にはっきり「否」と答えることのできる知識人はその当時の日本にほとんどいなかった。左翼知識人の多くはおのれの戦前の政治的経験を思想的瓦礫のうちに捨ててきたからである。「あれはなかったことにする」というのが彼らの暗黙の了解だった。その中にあって吉本隆明だけがその「擬制」であることを痛撃したのである。
それゆえ、吉本の転向論はリアルタイムにおける「知識人と大衆の対立」の二元論としてではなく、むしろ「戦勝国の知的・言説的支配下にある日本国民」と「忘れ去られ、誰も弔う人のいない大日本帝国臣民」の対立のうちに読むべきではないかというのが私の仮説である。

戦争が終わったとき、「大日本帝国臣民」の名において戦争の責任を引き受けると宣言したものはいなかった。戦争指導部の人々でさえ、開戦は自分の本意ではなかったという見苦しい言い訳を口にした。あの戦争には主体がなかった。戦争の主体がいないのだから、敗戦の責任者がいるはずもない。当然にも「私が帝国の統治システムの瑕疵や政策決定プロセスの欠陥について自己検証し、戦後の日本のあるべき政体を設計する」と名乗りうる戦後日本の再建主体もいるはずがない。「一億総懺悔」とはそのことである。
戦前の日本をあたかも汚物のように、悪夢のように組織的に切り捨て、忘却して、戦後の言説空間に滑り込んだ知識人たちに対して、吉本隆明はあくまで「大日本帝国臣民としての戦争責任の取り方」にこだわった。むろん、このようなスタンスでの異議申し立てをなしたのは吉本ひとりではない。大岡昇平も鶴見俊輔も江藤淳も、それぞれのしかたで「戦前に遺した半身」を戦後の我が身に縫合するという困難な仕事に取り組んだと私は思っている。
吉本の思想的オリジナリティは「日本国民」対「大日本帝国臣民」という時間軸上の(出会うことのなかったものたちの)対立を、現代における「知識人」対「大衆」の(いま出会いつつあるものたちの)対立に「ずらして」みせたことにある。
「誰が真の大衆の代弁者なのか?」という問いが切迫した政治的問いとなるのは、そのような文脈においてである。それは言い換えると(吉本自身はついに口にしなかったが)、「誰が大日本帝国臣民の日常的経験と日本国民の日常的経験を架橋し、二つの声域で同時に語ることができるか?」という問いだったからである。60年安保闘争の思想的賭け金はまさにそこにあったと私は思う。
岸信介首相は国会を取り巻くデモについてのコメントを求められて、「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである。私には『声なき声』が聞こえる」と言ってのけた。永田町で展開している激烈な政治闘争をよそに、銀座で買い物をし、後楽園で野球を楽しんでいる大衆はまさにその政治的無関心によって自民党政府に無言の信認を与えている。岸はそう述べて、「政治的にふるまわない人々の政治性」を政権の側に奪い取ろうとした。吉本の「大衆の原像」論は、この岸の「『声なき声』はステイタス・クオを支持する声だ」という命題をまっこうから切り立てた。
政治闘争に背を向けて、銀座で買い物し、後楽園球場で歓声を上げる人々は、果たしてその政治的無言を通じて何を言わんとしているのか。それは岸が言うように「パンとサーカス」が提供されるなら独裁も対米従属も受け入れるという退廃のシグナルなのか、それともかつて満州国経営で辣腕を揮い、戦犯として収監されながらアメリカの「エージェント」として奇跡的な復活を遂げた政治家の策謀に対する棘のある無関心なのか。果たして大衆は無言であることを通じて何を言おうとしているのか。その「無言の翻訳者」の任に誰が就くべきなのか。権力者か庶民派の詩人か、いずれがこの「非政治的大衆の無言」の代弁者の資格を占有できるのか。そのしのぎを削るような戦いこそが戦後政治思想の最前線なのだと見通した点に吉本隆明の天才性は存する。

吉本が洞察したのは「知識人」というポジションにとどまる限り、「大衆の代弁者」の地位を要求することはできないということであった。それができるのは、生活者として大衆でありながら、その日常体験を掘り下げ、汎通性のある思想の言葉に変換できるだけの知力をもった人間だけである。吉本隆明にはその責に堪えるのは自分の他にいないという自負があった。それは彼が現時的にプロレタリアであったからではない。彼は比較的富裕な下町のブルジョワの子弟であり、高等教育を受けた知識人だった。でも、彼は「戦前に半身を遺している」という点において、他の知識人に対して大きなアドバンテージがあった。彼がみずからを「ただの生活人だが胸三寸に鉄火を呑んでいる大衆」(「大衆的芸術運動について」、『吉本隆明全集6』、209頁)として任じ得たのは、「十五歳から二十歳までのあいだ太平洋戦争中、わたしはひとかどの文学青年だったが、この戦争で死んでもいいと思っていたし、またそれは平気であった」(「退廃への誘い」、同書、405頁)からである。かつて草莽の臣であったという一点において、そして、自分がそのようなものであったことを受け入れ、その意味どこまでも掘り下げようとしているという点において、吉本隆明は「大衆」と「知識人」を止揚し、「大日本帝国臣民である自分」と「日本国民である自分」を縫合するという知的冒険の先頭走者であることができたのである。
吉本隆明が政治的ヒーローであった時期に、今私がしているような言葉づかいで吉本のアドバンテージを説明した人はいなかったように思う。けれども、吉本自身は政治的前衛の崩壊という戦前の出来事とのかかわりの中でしか現在の政治状況を語ることはできないと繰り返し語っていた。
「きみはきみたち自身と歴史的にたたかったことはない。これはいいかえれば、現実をかえるために、現実的にたたかったことはないということを意味している。」(「頽廃への誘い」、『吉本隆明全集6』、403頁)
吉本が革共同の学生を対話相手に想定して語ったこの言葉にある「自身と歴史的にたたかう」という言葉にこめられた深い含意に、このテクストを読んでいた当時の私は気づかなかった。
今ここに現象している空間的な対立は、歴史的な推移の中で「新たに登場してきたもの」と「姿を消しつつあるもの」の時間的な対立と置き換え可能だ、吉本はそう考えていた。彼自身がそう語っている。
「歴史というもの、歴史の過去というものは、同時に地域の相違に移し変えることです。そして、逆にまた、地域の差異は、同時に時代の差異に移し変えられるということが、歴史を見ていく場合にひじょうに重要なことです。」(『南方的要素』)
大衆とは、政体の変遷にも、知識やイデオロギーの盛衰にもかかわりなく、その生活者としての揺るがぬ身体実感と経験知に基づいて「その日常的な精神体験の世界に、意味をあたえられるまで掘り下げる」(「日本ファシストの原像」、『吉本隆明全集6』、199頁)ことのできるもののことである。そのような大衆しか「戦争体験と責任の問題に対処できる」主体たりえない。「この方法だけが、庶民を、イデオローグや、イデオローグの部分社会にたいして優位にたたしめ、自立させる唯一の道である」(同書、199頁)。吉本はそう書いた。
たしかに、そう書かれると「大衆」というのは歴史的条件の変化にかかわらず相貌を変えることのない超歴史的「常数」のようなものだと私たちは思ってしまう。けれども、それはやはり違う。吉本のいう「大衆」もまた歴史的形成物であることに変わりはないのである。「戦争体験と責任の問題に対処できる」主体たりうるような「大衆」はある種の歴史的条件が整ったことによって登場し、その歴史的条件が失われたときに消失してゆく。
吉本は大日本帝国臣民という仮想的な立ち位置から戦後思想を撃つというトリッキーな戦術によって一時期圧倒的な思想的アドバンテージを確保した。しかし、吉本のアドバンテージもまた歴史的条件によって規定されたものである以上、時間の経過とともに消失してゆくのはやむを得ないことであった。日本人のほとんどが「大日本帝国臣民である生活者」たちの相貌についての記憶を失った1980年代に、日本人は吉本隆明の「大衆」という言葉が何を指示しているのかしだいにわからなくなった。そのとき吉本隆明の政治思想の批評性がその例外的な「切っ先」の鋭さを失ってしまったとしても、それは歴史の自然過程という他ない。