共同通信のインタビュー

2014-12-05 vendredi

共同通信のインタビューがあり、配信が始まった。地方紙が主なので、お読みになれない方もいると思うので、こちらに再録。選挙を前にして政治状況を俯瞰する「いつもの話」であるが、今回は「脱市場」という点にすこし軸足を置いて話している。
どぞ。


―景気の足踏みを理由に消費税引き上げが先送りされた。

個人消費が冷え込んでいるが、その背後には「生活に必要なすべての財を、市場で商品として購入する」という私たちが知っている以外の経済活動、「非市場的交易」が広まりつつあるという事実がある。
メディアはほとんど報じないが、原発事故以降「帰農」が大きなムーブメントになっている。それと並行して生産者と消費者が市場を介さないで、「顔と顔」のネットワークの中で財やサービスを交易するという動きが広まっている。
貨幣を介さない経済活動が広まることを政府は嫌う。それは政府のコントロールを離れた経済活動であり、経済指標にも捕捉されないし、課税することもできないからだ。政府がここに来て慌てて「地方創生」を言い始めたのは、地方の経済的てこ入れという目的以外に、政府・自治体・企業主導で地方の経済活動を抑え、個人や中間共同体主導の「顔と顔の」交易活動の広がりを許さないという狙いもあると私は見ている。
けれども、生きるために必要なすべての財は賃労働で得た貨幣をもって市場で購入しなければならないという仕組みの不合理性に都市部の若い労働者は気づき始めた。都市部で労働力を売ることではもう食えない、家族も持てないというところまで雇用条件が劣化したのである。帰農する人たちは、より人間的な生活を求めて都市部から地方へ「押し出され」ているのである。

―アベノミクス効果は届かないか。

安倍政権はグローバル企業の収益増大のことしか考えていない。そのためには「国家は株式会社のように運営されるべきだ」と信じている。特定秘密保護法の制定も解釈改憲もその文脈で理解されると思う。経済活動にとって、民主制は意思決定を遅らせる足かせでしかない。だから、株式会社のCEOがトップダウンで決定を下すような、トップが専決する仕組みをめざしている。表現の自由を制約する特定秘密保護法も、行政府による解釈改憲で「戦争ができる」道を開いたことも、「行政府への権限集中」という大きな流れの中で起きている。
国家の株式会社化に国民が反対しないのは、人口の過半が株式会社の従業員となり、彼ら自身、組織モデルとして株式会社しか知らないからである。株式会社には民主主義も合意形成もない。トップがすべてを決めて、経営判断の適否は従業員ではなく市場が決める。株式会社従業員マインドが日本国民の「常識」となった時点で、国民は国家もまた株式会社のように管理運営されるのが「当然」だと思うようになった。彼らが安倍政権を支持している。
農村人口が50%を超えていた時代なら「国家の株式会社化」などという構想に共感する人はほとんどいなかっただろう。なぜなら村落共同体では集団の目的は「成長する」ことではなく「存続する」ことだったからである。政策判断の適否は「この共同体が100年後も存続していること」という事実によって事後的に判断された。単年度の成長率やGDPの前年比などでは、自分たちの下した決断の正否は判定できなかったのである。
政策の適否を決定する「マーケット」は株式会社にはあるが、国家にはない。国家は50年100年なり後になって「健全に機能している」ときに、「今から50年前、100年前に選択された政策は適切だった」と事後的に確認しうるのみである。国家には入力した瞬間に、タイムラグなしにその適否判断を下すような便利な「マーケット」は存在しない。

―集団的自衛権の行使は防衛、つまり国家の存続のためではないのか。

そうではない。日本はアメリカの許可なしに独自の軍事行動を行うことができない以上、関連立法の狙いはむしろ「非常事態を宣言し、行政府が立法府の権限を停止して、超憲法的にふるまうことができる」仕組みを整備することにある。
安倍首相の憲法改正への動きに、米国は2013年春の段階ではっきりと「NO」という意思表示をした。やむなく安倍政権は正面突破による改憲をあきらめ、代案として「アメリカの軍機漏洩を防ぐため」と称して特定秘密保護法を採択し、「アメリカの海外派兵を支援する」ために集団的自衛権の行使を容認した。明文改憲という「名」を捨てて憲法9条、憲法13条、憲法21条を実質空洞化するという「実」を取ったのである。
だが、この二つの対米「譲歩」によって日本が得る国益はなにもない。ただ民主制の土台が崩され、70年の平和主義の蓄積が失われだけである。それと引き替えに、政治家たちは権力と財貨を、官僚たちは行政府への権限集中を、財界人たちは企業の収益増大を手に入れた。彼らはそれぞれ日本の国益をアメリカに安値で売り払った代償に、個人の利益を手に入れようとしたのである。それはかつて植民地において宗主国におもねって、自国の国益を犠牲に供して、自己利益をはかった「買弁」のふるまいに酷似してきている。

「対米従属を通じて対米自立を目指す」という戦後日本の外交戦略は、戦後しばらくは合理的な選択であった。だが、72年の沖縄返還以降、「主権の回復」、「国土の回復」という点では何一つ見るべき成果を上げていない。42年間二世代にわたって「対米従属はしたが、何一つ国益は増大していない」という状態が続いているうちに、対米従属というポーズそのものが自己目的化してしまった。
現代日本社会では「対米従属的である人間の方がそうでない人間よりも政官財メディアどの世界でも出世できる仕組み」が完成してしまった。だから、おのれ一身の立身出世をめざす人間は、ほとんど自動的に対米従属のしかたを身につけ、「買弁」的メンタリティを内面化してゆく。

米国の映画監督オリバー・ストーンが昨年、広島で行った講演で「日本はアメリカの衛星国であり、従属国である。日本の政治家はいかなる立場も代表していない」と語った。これがおそらくは米国のリベラル派知識人の常識である。だが、日本のメディアはその発言を報道しなかったし、反論もしなかった。従属国的マインドは完成してしまったのだと思う。

―戦後の日本のいびつさを、日本人も気づき始めているのではないか。

今の日本で、わが国が米国の従属国だということをリアルに認識しているのは沖縄だけだと思う。その沖縄知事選で、基地反対を掲げて勝った事実は大きい。今回の選挙の真の争点は「対米従属を通じての対米自立」という国家戦略をこれからもまだ続けてゆくのか、それともそれとは別の道を探るのか、という外交戦略の選択であり、「国家の株式会社化」という独裁制の進行をこのまま手をつかねて許すのかという政体の選択である。「アベノミクス選挙」などというのは問題の本質を隠蔽するための偽りの争点設定でしかない。