グローバリズムと英語教育

2014-09-03 mercredi

「グローバリズムと英語教育」というタイトルの文章をある媒体に書いた。英語教育専門の媒体なので、たぶんふつうの方は読む機会がないだろうと思うのでここに採録する。


少し前にある雑誌から「子供を中等教育から海外留学させることがブームになっている」という特集を組むので意見を聴きたいと言ってきた。そういう人がいるとは聞き知っていたが、特集を組むほどの拡がりとは知らなかった。
聞けば、富裕層は欧米の寄宿学校へ子供を送り、それほど富裕でもない層ではアジア諸国に移住して子弟をインターナショナル・スクールに通わせ、父は単身日本に残って働いて送金するというかたちが選好されているそうである。
半信半疑だったが、その後バリ島に行ったとき、現地の日本人の方からバリ島のインターナショナルスクールに日本人の母子を誘導する計画があるという話を聴いて得心した。なるほど、そういう時代になったのだ。
これが意味するのは、親たちが「英語が話せる」能力の開発を教育の最優先課題に掲げるようになったということである。英語が話せないとグローバル化した世界では高いポジションを得ることはできない。そうこの親たちは信じている。
一面の真理ではあるが、中等教育から英語習得だけのために海外留学させるのは長期的に見れば得るものより失うものの方が多いと私は思う。
どうしてもうちの子供はその国で育って欲しいという強い願いがあっての留学なら話は違う。例えば、シンガポールという国が大好きで、その社会システムや独特の文化に強い親近感を覚えるという人がシンガポールに子供を送るというのなら話はわかる。その場合はそこで過ごす時間はおそらく有意義なものになるだろう。けれども、ほんとうはスイスの寄宿学校に入れたかったのだが、予算が足りず諸式リーズナブルな国を選んだということになると話は違う。そこに暮らす必然性が本人にも家族にも「英語が話せるようになって、グローバル人材としていずれ重用される」という期待しかないからである。
だが、頭を冷やして考えて欲しい。英語運用能力が大きなアドバンテージになるのは「グローバル化が進行しているのに、英語を話せる人間があまりいない社会」においてだけである。この子供たちはいずれ日本に帰ってこなければ留学した意味がない。
当然ながら、そのような理由で留学させた親たちは、子供が留学先の土地や文化に親和して、そこに居着くことを全く望んでいない。現地人と結婚して、タガログ語やインドネシア語を話す孫たちが生まれるというようなことは祖父母にとっては悪夢以外の何ものでもない。彼らが大きな財政的負荷や単身赴任の不便さや異国での生活に耐えることの代価として求めているのは、「英語が話せる子供たち」が帰国後にそのアドバンテージを最大限活用することだけだからである。
しかし、残念ながら、子供たちが親の願い通りのキャリア形成をするという見通しに私は与することができない。この子供たちは「日本の学校なんかに行くとグローバル社会では生き残れない」という言葉を幾度となく耳に育ってきたわけであるが、それは毒性の強い呪詛としてやがて機能することになるからである。
「日本で学校教育を受けたらダメになる」と聞かされてきたからこそ、子供たちは母語が通じず、生活習慣もものの考え方も感じ方も違う異邦での生活に耐えてきた。だから、彼らが帰国して、まわりの「日本育ちの若者」を見たときに、そこに「自分ほどの努力をしてこなかったもの」への軽蔑の感情がまじることは避けられない。英語が話せない日本の若者たちは「自分のような苦労」をしなかったことの罰を「英語が話せる若者」に侮られ、それより低い地位と低い年収に甘んじることで支払う義務がある。
論理的にはそうなる。どれほど性格のよい若者であっても、自分のがしてきた苦労を正当化するためには、英語が話せない若者たちより自分の方が高く格付けされるべきだと思うことを止めることができない。
だが、果たしてそのような考えをする若者が日本社会において順調なプロモーションを遂げることができるであろうか。私は懐疑的である。彼らはたぶん二言目には「だから日本はダメなんだ」というコメントを口にする「厭なやつ」になってしまうが、それは彼らの属人的な資質とは関係がない。親たちがグローバル化する世界で競争上のアドバンテージを取るためには「日本で教育を受けたら負ける」と判断したことのコロラリーなのである。そういう若者が上司に評価され、同僚に信頼され、部下に慕われるということはあまり起こらない。結局、彼らが「厭なやつ」にならずに済むのは、「全員がふつうに英語を話している環境」だけである。だから、遠からず彼らは日本を離れて、彼の英語運用能力が何のアドバンテージももたらさない労働環境を探すようになるだろう。
そういうコスモポリタン的な生き方をはじめからめざしているなら「三界に家なし」という生活を楽しめばよい。だが、ドメスティックな格付けを上げるために「日本を捨てる、日本を侮る」という態度を選ぶことの長期的なリスクについてはもう少し冷静に評価した方がよいと私は思う。

今さら言うまでもなく、英語が国際共通語であるのは、イギリスとアメリカが200年にわたって世界の覇権国家であったという、それだけの理由による。
母語が国際共通語である人間はあらゆる領域で圧倒的なアドバンテージを享受できる。世界中どこでも母語で通せるし、国際会議も国際学会も母語でできる。母語しか話せないのに「国際的な人間」という資格を僭称できる。非英語圏話者たちが英語習得のために費やすすべての労力を英語話者は免ぜられる。そしてあらゆるコミュニケーション局面で英語話者は非英語話者に対して圧倒的な優位を保持する(ネイティブスピーカーはどんな文脈でも、相手の話の腰を折って、発音や言い回しを「矯正」することができるが、逆は絶対に許されない)。英語話者はこの政治的優位を決して手放さないだろう。
何よりあらゆるイノベーションは母語の領域で行われるということが決定的である。私たち誰でも母語においては新しい言い回し、ネオロジスム、それまでにない音韻、文法的破格を行う自由を有する。それによって母語は不断に富裕化している。ある語をその辞書的意味とは違う文脈で用いることが「できる」という権能は母語話者だけに許されている。
今の日本の若者たちは「やばい」という形容詞を「すばらしく快適である」という意味で用いるが、それを誤用だから止めろということは私たちにはできない。けれども、例えば私が「与えた」というのをgaveではなくgivedと言いたい、その方がなんか「かっこいい」からと主張しても、それは永遠に誤用のままであり、それが英語の語彙に登録されることは絶対にない。
知的イノベーションというのは、こう言ってよければ、そこにあるものをそれまでと違う文脈に置き直して、それまで誰も気づかなかった相に照明を当てることである。だが、そのような自由が許されるのは母語運用領域においてだけなのである。
フィリピンのある大学の先生がこう言っていた。「英語で講義ができるのはpracticalである。母語で講義ができないのはtragicである。」
彼女の母語は情緒豊かな生活言語ではあるが、それで国際政治やグローバル経済や先端的な学術について語ることは困難である。これが植民地の言語政治の実相である。
知的イノベーションは母語によってしか担われない。成長したのちに学んだ英語によっては「すでに英語話者が知っている概念」を表現することはできるが、「まだ英語話者が知らない概念」を語ることはできない。語ってもいいが、誰も理解してくれない。母語ならそれができる。母語話者の誰もがそれまで知らなかった概念や思念や感覚であっても、母語なら口にした瞬間に「それ、わかる」と目を輝かせる人が出てくる。記号が湧出してくる「土壌」を母語話者たちは共有しているからである。その非分節的な「土壌」から生起するものは潜在的には母語話者全員に共有されている。だから、「わかる」。それがイノベーションを励起するのである。
だから、フィリピンのような二層言語構造では、エリートたちは英語に習熟するにつれて「母語的土壌が生み出すイノベーション」のチャンスから遠ざけられる。それが植民地の知的自立を遠のかせている。
英語の国際共通語化というのは、英語を母語とする者があらゆる分野でのイノベーションを排他的に担う仕組みを作ることである。政治でも通商でも学術でもあらゆる領域で英語を母語とする人間の優位性を半永久的に保持するようにするための政治的構築物である。
これは否定しがたい現実である。だが、英語を効率よく学習しようとする非英語圏の人々は、まさにそのふるまいを通じて、英語話者の圧倒的優位というアンフェアな仕組みをさらに補強することになるということはつねに自分に言い聞かせるべきだろう。
繰り返し言うが、言語はすぐれて政治的なものである。覇権国家の言語が国際共通語になる。軍事的・経済的弱小国の人々は強国の言語を学ぶという「苦役」を強いられる。
ただ、この「苦役」は同時に「贈り物」でもある。というのは、母語が国際共通語である人たちにとって、「国際的であるために国際的であることを要さない」というのはメリットであると同時にたやすくリスクにも転化するからである。
国際共通語話者は「言葉が通じる相手」があまりに多いせいで、「言葉が通じない相手」の「何が言いたいのかよくわからないこと」に耳を傾ける手間を惜しむ傾向がある。だが、歴史が教えるのは、「帝国」の没落は「何が言いたいのかよくわからない人々」によってもたらされてきたということである。