終戦記念日に

2014-08-15 vendredi

敗戦から69回目の夏、日本人は安全保障について戦後最大の転換点を迎えた。
7月1日の閣議決定によって、集団的自衛権行使が容認され、この69年間わが国の平和を守ってきた憲法九条が事実上廃棄されたのである。
エール大学のブルース・アッカーマンはこれを日米関係の重大な変質を意味するものだと解した。そして、ヘーゲル国防長官が安倍の「大胆にして、歴史的、画期的な決定」に「強い支援」を約束し、「アメリカが二世代にわたって支持していた日本の憲法秩序を否定した」ことに疑念を呈している。
「安倍の決定がアジアの自由民主主義の未来に与える破壊的衝撃(devastating impact)」を勘案すれば、これはホワイトハウスが扱うべき事案でなければならない。にもかかわらず、オバマとケリーが中東問題に忙殺されて、この重大な閣議決定についての評価を国防総省に丸投げしてしまったことをアッカーマンはきびしく批判している。(The World Post, 15 July)
私はこの記事を興味深く読んだ。アッカーマンが言うように、たしかにこの件をアメリカ政府はかなり軽く見ていると思ったからだ。
この閣議決定は戦後日本の政体を基礎づけてきた憲法秩序を否定するものであり、それは日米関係の「画期的な」転換をも意味したはずなのだが、大統領は副補佐官を通じて「強く支持する」というコメントを出しただけで、それ以上の関心を示さなかった。
この関心の低さに私はむしろ興味を持った。
安倍政権のいう「集団的自衛権」なるものは別に日本政府の軍事的フリーハンドを意味するものではない。これから先、日本軍はアメリカ軍との共同行動にいわば「下働き」として帯同するだけのことである。日本軍がアメリカの事前許諾なしに「密接な関係にある国」(そんなものアメリカ以外にどこにあるのか)のために軍事行動を起こす可能性はない。
日本がアメリカの属国であるという事実は国際社会においてはすでに周知されているが、閣議決定はこれからは軍事的にも属国として働くつもりであると宣言した。アメリカ大統領がこれに対して「はい、どうも」以上の感動的なコメントをするはずもない。
国内の世論の熱の低さもそう考えると腑に落ちる。
「アメリカと一緒」ということは、戦時作戦統制権は米軍司令官に属するということである。いつ、どこで、誰と、どのような戦争をするかについての決定権は日本政府にはない。権限がないなら責任もない。戦地でどのような非道なことが行われようと、それは「日本の与り知らぬことである。文句があったらアメリカに言ってくれ」で言い抜けられる、日本人の多くはたぶんそう考えている。
どうせ「戦争の主体」にはなりたくてもなれないのだ。
これは先の戦争指導部の人々のありように酷似している。彼らは戦争の主体であることを否認した。
丸山眞男はこう書いている。
「わが国の場合はこれだけの大戦争をしながら、我こそ戦争を起したという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか。」(『現代政治の思想と行動』)
戦犯たちは口々に「自分自身は開戦に反対であった」と証言した。キーナン検察官の最終論告にいわく。
「二十五名の被告の全ての者から我々はひとつの共通した答弁を聴きました。それは即ち彼等の中の唯一人としてこの戦争を惹起することを欲しなかったというのであります。(…) 彼等は他に択ぶべき途は開かれていなかったと、平然と主張致します。」(同書)
こんなSF的想像をしてみる。
安倍政権の集団的自衛権容認がきっかけになり日本が「次の戦争」に巻き込まれた。戦後、その戦争犯罪が裁かれたとき、出廷した日本政府の要人たちは口を揃えて「我々は戦争を惹起することを欲しなかった」と証言した。
「だが、アメリカに追随する他に択ぶべき途は開かれていなかった」。
日本人が69年間抑圧し続けてものが姿を現わしたとき、それはもう「二度目は笑劇」で済ますことはできないだろう。