隣人としてのイスラーム 収奪から共生へ

2014-03-11 mardi

2014年2月24日集英社新書『一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教』
刊行記念トークイベント@スタンダードブックストア心斎橋
中田考&内田樹
隣人としてのイスラーム 収奪から共生へ

――今日はたくさんの方にお運びいただきありがとうございます。今日は「隣人としてのイスラーム 収奪から共生へ」というようなテーマ設定でお話いただければと思います。
最近、イスラームに関しては、ハラール認証ビジネスというものがたいへん盛り上がっているという報道が目立つようになってきましたね。イスラームといえば「いろいろなタブーがある」というイメージが一般にはあると思うんですけれども。このトークの皮切りの話題として、ハラールというものに我々日本人はどう理解し、接したらいいのかということをイスラーム学者である中田先生からまず、お話いただきたいのですけれども。

ハラール認証ビジネスの問題点

中田 「ハラール」の反意語の「ハラーム」という言葉はですね、この『一神教と国家』を読んでいただいた方は一応ご存じだと思うんですけれども、「禁じられたもの」ということですね。皆さんご存知のとおりイスラームは戒律といいますか法の宗教ですので、「禁じられたもの」とか「許されたもの(ハラール)」という概念があるわけです。

けれども、「禁じられたものが何であるか」ということ以前にもっと重要なことは、そもそも許されたもの、ハラールというものをどのように認証するかという、こちらのほうがずっと問題なのですね。

我々みんな世界史などで習ったと思いますけれども、なぜキリスト教で宗教改革運動が起こったのか。カトリック教会が「我々が罪を許す」という「免罪符」を売るということが問題となり、これが宗教改革の原因になったわけです。

イスラームというのは、そもそもカトリック教会やローマ教皇のようなそういった宗教的権威を有する機関のようなものがないんですね。皆さんご存知のとおりイスラームは聖俗一致が基本ですので、そういう聖職者階級がいない、すべての人間は平等であるというのがイスラームなわけです。

ですので、もちろん戒律として「禁じられたもの」「許されたもの」はあるのですけれども、それはすべてのイスラーム教徒が個人として神の啓示であるところの『クルアーン(コーラン)』、神から与えられた聖典、あるいは預言者の言葉を記した『ハディース』、それを見てムスリム(イスラーム教徒のこと)個人が判断すべきというものであって、本来、どこかの機関が神の権威をかりて認証するということは歴史的には存在しなかったのです。これはたいへん重要な問題なのですけれども、そうした検証がまったく抜けたままに、ハラール認証ビジネスなどといういかがわしい議論がひとり歩きしている、これが一番の問題だというふうに思っております。

内田 宗教にビジネスが絡んでくるのってすごく胡散(うさん)臭い気がするのですよね。そのハラール認証ビジネスの問題も、今はイスラーム圏だけの問題ですけれども、多分これから日本でも絶対、目ざといビジネスマンは「これからイスラームが金になります」ということを言ってですね、そういう性質(たち)の悪いコンサルティングをあちこちでもうやっていると思うのですよ。「これからはイスラーム金融ですよ」とかね。ロンドンなどでもやりますでしょう、「ドバイと並んで世界の金融、イスラーム金融のセンターになるんだ」って。だから、今アベノミクスとか言っている人たちは「これから東京を世界のイスラーム金融のセンターにしよう」なんていずれ絶対言い出しますよ。その状況を思うと今から腹立ってくるのですよね。

彼らは中田先生がおっしゃったイスラームの考え方自体には何の興味もない。これまでずっと「イスラームは聖戦原理主義テロリスト」などと言っておいて、急に「人口は16億人」「平均年齢20代」「経済成長している」と聴いて、「おい、じゃあ、お得意様じゃないか」って。イスラームに関するイメージって今激変しているのですよね。

この本はですから、かなり広く受け入れられると思うんです。「なんかもしかしたらイスラームの風が吹いているかもしれないから、ここで一発イスラーム専門家になっちゃおうか」、「イスラームで金儲けしようか」という人がね(苦笑)。そういうあざとい人間がこれからわらわらと出てくるような気がするのですけど、どうでしょう。

中田 そうですね、今はとくにオリンピックですね。内田先生も私もオリンピック反対派なわけです(参照『街場の五輪論』朝日新聞出版)。そのオリンピックで特にイスラーム系、ムスリムの多い国が世界中に150カ国ほどあるわけですね(本を読んでいただいた方は分かると思いますが「イスラーム国家」という言い方私はしません)。

そういう国からたくさん人が来る。これをビジネスチャンスと考える人がたくさんいて、今本当にそのホテルとかショッピングセンターとかみんなでイスラーム教を取り込もうとイスラーム展などを始めているわけです。それ自体は構わないのですが、それをビジネスチャンスと便乗してハラール認証の売り込みに来るコンサルタントがいっぱいいるわけですね。

これが先ほども言ったとおり、本来イスラームとは真逆の考え方で、イスラームには本来ハラール認証機関というものはない。個人ひとりひとりが認証機関によってではなく、『クルアーン』や『ハディース』に照らして判断するのがイスラームなわけで、それをそういう機関が代行するというのは、これもやはりある意味での西洋化ですね。内田先生がよくご存じですけど、コシェルという、ユダヤ教の食事既定はイスラームよりもっと食物規制きついですのでそれの認証というのは昔からあったのですね。ハラール認証機関というのもそれを真似したものとして始めたものになりますし、こういうそもそも認証機関を作るというのもヨーロッパ的な発想ですので、キリスト教的な発想なのです。そういったものに今度イスラームが侵されていくのが私も非常に不愉快に思っているわけですけれども。なかなかこういうこと言えるところがないので、今日は非常にありがたいです。

内田 日本にはまだないのですか、そのハラール認証機関というのは。

中田 それが実はあるのです。

内田 それは日本人がやっているのですか。

中田 日本人がやっているのもありますし、それが日本人だけだと権威がないというふうに考えるので、マレーシアとかその辺の政府の認証機関は、そっちのほうから来ているのです。現在はインドネシアとマレーシアが競合しておりまして。

内田 それぞれ政府認証なのに「俺たちのほうが本家だ」とか。なるほど、国家的なビジネスとしてやっているわけですね。でも、日本には進出しても現在のところ日本のムスリムの数というのは数万人規模ですよね? もっといます?

中田 在日のイスラーム教徒全体を合わせると多分10万人くらいいると思いますけど、そんなものですね。むしろどちらかといえば焦点は輸出ですね。

内田 日本で作ったものを輸出する場合。なるほど。本でも触れておりますがインドネシアはこれから急成長する市場ですからね。

中田 インドネシアとマレーシア。この二国はかなり国のあり方が違うのですが、どちらも国家が強いというのは同じです。しかもそれが何て言うのですかね、物欲の問題のもとになっているということなのです。認証ビジネスはある意味日本でもそうですけれども、「国家がこれを認証しなければ禁止」という形にすればいくらでももうかるのですよね。ですからハラール認証は、「うちの国にはそれがなければ入れない」と言ってしまえば輸出貿易する側は認証を受けざるをえなくなりますから。一番おいしいビジネスなのですね。

内田 なるほどね。それでそのインドネシア向けにそのハラール認証をした即席メンとかそういうものを作っているわけですね。ところで、先生は結構ジャンクフードお好きですよね。

中田 大好きです。

内田 先生、すごくまめに自分の食べられたものを写真で撮って、夜中によくツイッターにあげてらっしゃいますけれども。見ているとかなり悪食といいますか、体に悪そうなものが結構好きですよね。でも、あれは全部戒律的には正しいものなわけですよね、先生の基準では。

中田 そうですね。基本的に奇特な方々がいろいろと差し入れしてくださる。差し入れされたものは基本的にすべていただくというのは、お布施をいただく仏教のお坊さん的な精神にも通じているかもしれませんね。

内田 先生は今、基本的に人々の差し入れ、喜捨によって生活の基盤を作ってらっしゃるんですか。

中田 最近、喜捨をいただくことが多いですね。明らかに豚肉とかとんかつとかそういう戒律に明白に反するもの以外は基本的には私は大丈夫だと考えております。ありがとうございます。

収奪される側の若者にメッセージを発信する理由

内田 そうですか。そういえば昨年の五月にカリフメディアミクスという会社を作られたそうですが、「カリフメディアミクス」というのが一体どういう意味なのか、名前を聞いても全然わからない。ライトノベルとアニメーションとそれから最終的にゲームを作ろうということだそうですが。どんな戦略なのでしょう?

中田 もともとは本当に「瓢箪(ひょうたん)から駒」というか神様のお導きというか、たまたま私の中学高校時代の同級生が京大のアニメ研究会の創設者でして、何年かぶりにメールが来たのです。「脱サラしていて、アニメ脚本家になるんだ」と。

そのころ、カリフ制を再興するためには若者が動かないといけない。若者が動かすにはやはり若い人が見るメディアを使わないといけない、ということを考えていたので、カリフ再興についてのアニメを作ろうというアイデアがあったのですね。それを話したら、彼のほうから「一緒にやろう」ということになりまして。そのためには会社を作らないといけないというふうに言われてですね。「じゃあ、まあ作ろうか」ということで作った会社なのですね。

なかなか設立するのは大変だったんですが、一応それを立ち上げまして。しかし、基本的にはアニメを作るには億単位の金がかかるのですね。でも、千里の道も一歩からなので、とりあえずはやろうと。

内田 とりあえずはラノベから。先生、ラノベはもう完成したのでしょう?

中田 実は書いたのです。『俺の妹がカリフなわけがない』という作品ですね。

内田 それは舞台は日本なのですか。

中田 舞台は日本です。あらすじはですね、お兄さんが主人公なのですね。妹がいきなりカリフになってしまう。

内田 そこがちょっと無理がある(笑)。

中田 ツイッターで発信して原稿用紙に換算して500枚くらい書きました。まだ刊行の予定はありませんが。

【中略】

中田 アニメやコミックに関しては、日本のアニメとかゲームは日本で通用するクオリティがあれば自然に海外に流れていきますので、我々がそういう外国にわざわざ翻訳して発信する必要がないのですよね。ですから日本で通用すればそれでいいのですよ。日本の中でやるわけですけど、日本で通用する物は外国でも視聴されるわけですから。

内田 結局、先生のお話うかがっていて改めて思ったんですけど、先生は本当に若い人に注目していますね。自分たちより年齢上の方たちはある種、投げているというか、この辺はもう駄目だろう、ということで今は10代20代、もっと若い世代の人たちがこれから先、世界の運命を変えていく。だから彼らに向けて語りかけようという、そのポジションの取り方が今の日本の知識人にはないですよね。見たことないです、そんな10代の若者をターゲットにして自分の思想を語ろうとする人なんて先生くらいですよ。

中田 単純に、私の暮らしていたイスラーム世界は人口構成が若いんですよね。

内田 すごく若いのですね。

中田 以前、私は京都に住んでいたのですけど、その家を学生に譲って今、放浪生活をしているんです。その家を譲った彼が今年、インドネシア人と結婚したのですよ。それでその奥さんが先週日本に来て京都の町を見て、「なんで日本はこんなに若い人がいないの。老人ばかりなの?」と言ったのですね。本当にそうなんですね。これは単純にこのままだと滅びますので…。

それがイスラーム世界へ行きますと見ただけで若い人が圧倒的に多いので、それがすごく印象的で、何も考えなくても若者の存在、大切さを実感できるんですね。やはり若い人たちが変えていかないと、というのは、向こうにいると普通の感覚なのですけど、日本にいると若者の存在自体が希薄といいますか。

内田 今の日本の逼迫(ひっぱく)感というのは単純に言ってしまうと、若い人の数が少ないということですよね。数が少ないので、孤立し、分断されている。年長者が若い人に対して支援するっていう感じがまったくなくて、むしろ「どうやってこの人たちを利用したり収奪したりしようか」っていうことばっかり考えている。

だから世の中が、なんとなくどんよりした感じなのは、若い人たちの顔にあまり希望がないからですね。ここ(会場)は若いほうかもしれませんけれども、イスラーム圏の16億人の平均年齢が20代ってすごいですよね。日本って今どのくらいでしたっけ、平均年齢って。うっかりしたら40才を越してるのですよね。

中田 日本だと「子供を作れない」ってよく言うわけですね、我々の生活が苦しくて。それで思い出す話があります。私の生徒のひとりに、ヨルダンで社会活動をしている人がいるのです。そうすると、例えばイラクから難民がヨルダンに流れてくるわけです。流れてくるのですけど、領域国民国家はそれを切るのです、それを入れないと。するとイラクとヨルダンの国境の間に緩衝(かんしょう)地帯があるんですね。

これ「ノーマングラウンド」というんですけれども、そこに住み着いている人間が結婚してしまうんですね。結婚して子供をつくってしまうのです。ノーマングラウンドですからどちらの統治権もありませんので、生活のためにですね、そこを通る車がたまたま置いてってくれる物資以外なんの収入もないわけですね。でも、そうした人も平気で結婚してしまって子供を作っていくわけです。

そういう事例を知っておりますので、日本のように、生活が苦しいから、定職がないから結婚できないというのは、事実ではなく、思い込み、洗脳でしかありえないと。事実として知っていますので、日本の若者はやはりそういうマインドを変えていかないといけない、と私なんかは考えるわけですけど、日本にいるとなかなか難しいのですね。

漂泊するホームレス博士の共生と贈与の精神

内田 今、ネットで調べていただいたのですが、日本人の現人口の平均年齢は44.9歳でございまして、イスラーム圏より20歳くらい年上なのですね。日本は恐らく世界でもっとも高齢化が進行している国なのですけれども、この後、韓国も中国もヨーロッパもアメリカも、日本に続いて高齢社会に突入していく。大体20年から30年日本がアドバンテージというか、先を切って高齢化しているわけです。この高齢化とか人口減少とかいうことを経験する先進国は日本が近代で最初なわけです。人類史上こういう形でピークアウトしていきだんだんと人口が減っていき社会の活力がなくなっていく国っていうのは非常に珍しいケースなんです。けれども、先生はこのような力がなくなっていく日本の中で何かまったく新しいオルタナティブという形でカリフ制という、それは誰も思いつかなかったというようなオルタナティブを提示されている。

そして主に若い方たちに「こっち来ないか」という形で呼びかけている。その一番根本にあるメッセージが贈与することなんです。なにしろ、ご自分のおうちをあげちゃったんですもんね、学生さんに(笑)。それで、住む所なくなっちゃって、施しで生きているホームレス博士になっているという…。すばらしい生き方だと思うんですけれども、そういう形を日本人ムスリム方は実践されているものなのですか。

中田 そういうことはないですね、私の場合、個人的な事情があって、何も縛られるものがないので。大学にいる必要もありませんし、実際に日本は物価が高いとはいえですね、そういうもの(しがらみ)がなければあまりお金っていらないのですよね。必要なのは食べるものだけですので。ですから、住む所もいろんなところを居候(いそうろう)して歩いておりますし、奇特な人が食べ物を恵んでくれたりしますのでね。

内田 あの、差し入れというのは複数の方たちが絶えずお餅とかそういうものを持ってきてくださるんですか。

中田 そうですね。わざわざアマゾン(インターネット通販)で送ってくれる人もいるもので。

内田 アマゾンで送ってくるのですか。じゃあ、あとで僕、先生の住所を聞いて、僕もアマゾンで何か定期的に送りますよ(笑)。

中田 ありがとうございます。

食物、金…。身体ベースというコモンセンス

内田 我々、非常に宗派の違いといいますか、大分違うのですけれども、衣食住ベースというのが一番近い身体ベースではないでしょうか。「何を食べるのか、何を着るのか、どこで寝るのか」。結局この身体って6尺くらいの体で体重が70キロとかそういうような身体があって、この身体を維持できるというのが一番基本でして、これをベースにして考えようと。

「どうやって食っていこうか?」 文字通り我々が「食っていく」とき、ついメタフォリカル(隠喩的)に考えて年収何百万とかあればいいのかと考えますよね。でも、「食っていく」というのはそういう数値的なことじゃなくて、文字通りご飯を食べて、生命を維持するためにどれくらいのものがいるかということですよね。生物学的なベースをまず設定して、そこから発想していかないといけないと思っているので、そこは先生と深く共感するところがあります。特にあの本の中で、先生が金貨の伝道師ということに触れられていますが、貨幣はゴールド(金)でなければならないということを先生から伺って、その話僕は非常に感動したのですけれども、できたらその話をもう一度お願いできますでしょうか。

中田 基本的にイスラームは自由なので何を商売に使ってもいいわけで、そういう意味では物々交換でも何でもいいんですけど、いけないのは自由を奪うことなのです。今の日本というのは、これはもちろん歴史的には意味があるわけですけれども、現物で本屋さんで従業員に本を支給して、「これ給料」というのはいけないわけですよね。それ自体は意味があるわけですが、じゃあどうするかといったら国の作った貨幣というもので払わないといけないことになっているんです。ですから国が強制力を持って、実は紙切れなのですけれども(紙幣は1枚刷っても40円くらいの紙切れなのですけれども)、そういったものを強制的に通用させていくと。これは間違いであると考えるわけです。

金と銀とかはもともとなぜだかわかりませんが、実は1400年前から同じ価値なのでした。例えばですね羊一頭に対して(の金の対価)だと実は全然変わってないのですね。昔も1ディナール150ドルくらい、今でもそうなのです。まったく変わらないのです。それで見ると金の値段というのはそういうものなのですね。金というのはもともと価値を持っていますので希少性もありますし、キラキラしていたら嬉しいというのもあります。みんなそれなりに欲しいわけです。本来の値段を持っていると。

ところが貨幣というのは完全に記号なわけですね。本でも触れましたが、それが銀行のお金だともっと記号になっていく、そうすると逆に金というのは、確かに金を持っていると喜んでいるとこれを捨てるのかと思うわけですけど、あまりたくさん持っていても仕方ないわけです。むしろ邪魔なのです。しかも盗まれますから。邪魔ですから使ってしまおうと思う、ところがデジタルのお金っていうのはいくら持っていても邪魔にならないわけですね。しかも楽しいわけです。何兆円とかそういうふうになってしまうわけです。そういうのは恐ろしいところでして、そういうところが金というのはもともとの金貨という意味でまず持っていると邪魔になるということだと思います。

内田 すばらしいですね。貨幣を金貨で持っていると重くてたくさんは持てないと。紙幣というものが発明されたのは、自力で持ち運びできる財産の量を増大させるためでしたから、もう一度生身の身体で運べる重量を自分の所有しうる財産の上限にしてしまう、と。それ以上持ち歩けないわけですし、どこかに隠しておいても、誰かに取られるんじゃないかという心配でしょうがない。それだったら、いっそ誰かにあげるか、ぱあっと使っちゃったほうがいいと。

僕は金本位主義ではないですけど、金貨はある程度以上は「重くて邪魔になる」というお話を聴いて、目からうろこが落ちました。個人が持ちうる財産には上限があって、それを超えてまで所有してもしかたがないといういうのは、極めて優れたアイディアですよ。兌換(だかん)紙幣というときまでは、「金だと持って歩くのが邪魔だ」という身体感覚がまだリアルに残っていたから、紙幣に代えたんでしょうけど、経済活動がヒューマンスケールを超えて活動するようになると、貨幣が数字と記号で表象されるようになった。電磁パルスとしての財産はいくらあっても邪魔にならないわけですよね。結局、お金がいくらあっても邪魔にならないという仕組みが完成したことで貧富格差が拡大することになった。金本位制度に戻そうと言うと何を馬鹿なことをと思う人が多いのでしょうけど、僕はこっちの方が直感的に正しいような気がします。

それで、イスラーム圏というのは金本位制度にいくのですか。

中田 そこが難しいところですね。実際そういう動きはありますけど、これは金本位制に限らずハラール認証もそうですし、そもそも「国」自体がイスラームに反しているのでそれに反する動きはあるんですけれども、やはり心ある人はそういう動きはしているのですね。

内田 どういう形で動くんですか。

中田 まずは今言ったとおり、もともと金は固有価値を持っていますので必ずしも国が賛同しなくても自分たちで作れるわけですね。自分たちで金貨を作っている、そういう運動があります。

内田 個人が、プライベートにつくっちゃった金貨。

中田 ですからこれは信用に支えられているんですね。結局、金(きん)は持っていてもしょうがないとなると最後はお金を持っていてもしょうがないということで貸すわけですね。それが国家の支えになっている、個人の信用でお金を貸していると。それがイスラームのシステムなのですね。持っている全部貸してしまう。利子ありませんもんで。利子がないだけでなくてですね、イスラームの教えだとお金を貸して、なければ返さなくていいのですね。もちろんあったら返さないといけないですが、なかったら無限に待たないといけないのですね。無限に待っていても仕方ないです。最後のほうあげちゃうのですね。

内田 いいよって。


中田 そういうシステムなのですね。この意味でイスラームは個人の信用に支えられていますので、そういう個人のレベルで金貨をつくっているところはいくつかあります。
これはですね、もともと始めたのがスペインのバスクの人。それが広がっているのはインドネシアとマレーシアです。

内田 やっぱりそうなのですか。

中田 もともと特にインドネシアは経済が悪いので紙幣を信用してない。いまは多少よくなってきていますが。

内田 ゼロが多すぎるんですよね。インドネシアルピアって。100万ルピアと言われてもちょっと待ってね、ゼロ2個とって・・・「あ、1万円」ね(笑)。

中田 もともと今のシリアとかイラクもそうなんですけど、国のお金は信用していませんので金(きん)でもって。今はその中で金貨をつくって復興しようという動きは個人だけがやっていますね。

内田 それは何かグローバル資本主義の暴走を抑制するために我々が金を買って重たいから人にあげちゃうっていう。だって金の延べ棒1個ってこれいくらくらいですかね。

中田 1キロで今450万円くらいですね。

内田 2個で900万くらい。じゃあ人間が持って運べる量は上限、これ4本で1800万円くらいですね。それが人間が持ち歩ける金額の金の上限である、と。それだって長く背中に背負って歩くと腰痛になりますよ。人間、貯めるのはそれくらいにしといて、余った分はあげちゃう。

【中略】

その、資産運用とか投資とか「持っているお金を失いたくない」というそういう動機で貨幣について論じるのって、僕は大嫌いなのです。でも、先生のおっしゃる「持っていると邪魔になる」というのがいいですよね、悪い人が人を買収するときに「まあ、いくらあっても邪魔になるものじゃありませんから」っていいながら懐にねじこむじゃないですか。あれがいけないんですよね。「いや、そんなにもらっても持ち歩けませんから」ということになればいいんだ。

僕は貯金を金貨に換える気はないのですけど、なんとなく実感として自分が持っていられるお金、自分がコントロールできるお金の上限ってわかるんですよ。2000万円くらいが上限かな。2000万円超えたお金は、もうどう使っていいかわからない。それ以上だと不動産買うとか、株買うとか、国債買うとか思いつかないけれど、それって要するに「カネでカネを買っている」わけで「使っている」わけじゃない。僕が使い道を思いつくのは2000万円までですね。それを超えた金額で「欲しいもの」を思いつかない。
自分自身の身体実感から言って、買える最大のものが家ですよね。ちょっと小さくて車。家はもう建てちゃったし、車にはあまり興味ない。今の車をあとあと10年くらい乗ってると、もう買い換える機会もなくなる。そうすると本当に買うものがないんですよ。普段から買い物しないし。半年に一度、元町の大丸に行って、パンツと靴下を買うくらいですね。このセーターもこの間クリーニングに出したら、「お客さん襟(えり)のところほつれてますけど」って言われて。「うんいいんだよ」って(笑)。ほつれたところを糸でつくろって着てます。全然買わないですね、服も買わないし。食べ物も先生のように健啖(けんたん)家ではないし。今日だって晩ご飯あれですよ、梅田の立ち食いそばで月見そば330円です。けっこう美味しいですよ。
じゃあ、どうやって余ったお金を回していくか。先生は若い人たちのために使う。こうやてカリフメディアミクスをだんだん大きくしていって、やがて利益をあげたところで、どーんとこれをカリフ制再興のために使われるわけですね。

カリフ制再興までのロードマップ

内田 今日はあらためてカリフ制再興の先生のロードマップについてお話を伺いたいのですけれども。大体どのようなカリフ制再興の展望があるのでしょうか。

中田 アラブの春といいますか、状況はもう春でなくて冬になっちゃいましたけれども、あれも実は誰も予想できないときに起きたことなのです。これはもちろん我々イスラーム学者にも中東研究者もそうですし、イスラーム運動家も民主主義の運動家も誰ひとり予想できませんでした。それは多分ベルリンの壁の崩壊とかソ連の崩壊も同種のそういう問題もそうですよね。あれも直前まで、基本的にはまったく予想外だったんですね。そういう意味では具体的にどこで、いつ起こるかはわかりません。はっきり言ってわからないのですけれども、その時は多分同時発生的に起こるだろうと思っています。

その前にこれは今もグローバリゼーションに対する反抗として、地域ブロック化が進んでいますのでそういう意味でやはりイスラーム圏をブロック化しないといけない、と。この動きはあります。特には今シーア派のイランの台頭がすごく強いのですね。それに対してスンナ派のアラブがまとまらないと、そもそもアメリカなどに対抗する以前に、イランの脅威に対抗できないということもありまして、かなり地域ブロック化が進んでいます。これ自体はカリフ制ではないのですけれども、数ある動きの中で注目されるべき動きです。特にアラブ圏では3億人くらい同じアラビア語を使っていますし。我々イスラーム教徒もアラビア語を勉強していますので、アラビア語は共通語ですから、文化的国境がなくなりつつあります。

ですから、そういう動きと政治的なグローバリゼーションに対抗する地域ブロック化が進む中で、アラブの資本と人間の力と物ですね。それがうまく回ってかないと再興できませんので、そういう動きを進めていく。それをいずれひとつにまとめないといけない。ひいてはブロック内の国境をつぶしてしまう、という動きになるとは思っています。それは今がまさにそうですね、若い人が動かないといけないわけで。そういう意識を高めるのがカリフメディアミクスの仕事なわけです。それを特にそういう意味では日本は先進国ですので、アニメでそれを広げていくと。そういうことを考えていると。

【中略】

もともとイスラームは組織というものをつくらない、これは本の中にも書いてあるんですけど基本的には個人と個人がつながっていく。それは共通するイスラーム法というそういうコードがあるので、別に組織がなくても人間がつながっていけるというのが基本でありますので。国境も超えて非常に個人と個人のネットワークがつくりやすいのですね。
ですからそれで逆に組織の重要性ありませんし、指導者もあまり必要ないんですね。基本的には法がある、法に従うのがイスラームですので。ある日突然その動きが始まってしまえば、一気にカリフ制ができてしまっても不思議はありません。そこで無名な人間がカリフになるという可能性もなくはありません。

内田 先生のラノベ『僕の妹がカリフなわけない』も、ある意味そういうことなのですね。

中田 そうですね。

内田 意外な人が出てくる。僕、この言葉は、亡くなられた大瀧詠一さんからうかがったのです。「新しいものっていうのは、必ずこんなところから出てくるとは思ってもいなかったところから出てくるものだ」と。時代を書き換えるような新しいものって、「まさかこんなところから」というところから出てくる。その言葉が印象に残っています。

イスラーム圏について「人口16億のイスラーム圏」という言葉が新聞紙面にぱらぱらと出てきたのって、ほんのこの1年くらいです。北アフリカのモロッコから東南アジアのインドネシアまでイスラーム圏共同体が存在していて、同一の祈りの言語をもち、独自の倫理観を持っている。僕はそのことをまったく考えたこともなかったです。イスラーム圏といっても、仏教圏とかキリスト教圏と同じように、そういう宗教を信じている国民を含む国民国家ばらばらにあって、それぞれ勝手に国益を追求しているのだと思っていた。でも、どうもそうではないらしい。
アメリカ主導のグローバリズムが進行していった結果、イスラーム圏がグローバリズムに抵抗するかたちで残った。イスラーム圏が「残った」ということで、グローバル資本主義とは違う仕方でグローバルに結ばれた共同体が存在するということに気がつかされた。
これまで中東専門家の話がまったく理解できなかったのは、彼らがイスラーム圏というグローバルな共同体のレベルで起きている出来事を国民国家の国益対立という古い枠組みで説明しようとしていたからだ、と。国民国家同士が競合的に国益を奪い合っている。そういうゼロサム的な国家対立の図式をあてはめると、イスラーム圏で起きていることはぜんぜん意味がわからない。みんなクロスボーダーで移動していますしね。誰が国民で、誰が外国人なのか、誰が市民で、誰がテロリストなのか、識別できないという状況が各国であるのですね。

結局、中東専門家の政治学者たちの現状分析というのが僕にはまったく意味がわからなかった。意味がわからないというより、ロジックがわからなかった。僕は決してそれほど歴史や宗教について無知ではないし、理解力だってふつうにあります。それがわからないというのは、彼らが使っている標準的な学問的な道具そのものがここには適用できないものじゃないのかという気持ちが出てきたのですよ。そのときに先生と出会って、カリフ制再興という運動を知ったわけなのです。そのとき、近現代の中東の出来事を、カリフ制と領域国民国家の間の熾烈(しれつ)な戦いとして見ると、イスラームの問題が急にクリアカットに見えてきた。考えてみたら、イスラーム圏の人たちにしてみたら、日常的に「イスラーム圏の政治問題」を生きているわけで、専門家以外には理解不能というくらいに複雑怪奇なものであったら、そんな世界では誰も生きていけない。でも、16億の人たちはその世界を毎日ふつうに生きている。ということは、そこに展開している物語はそれほど複雑でも怪奇でもなく、実際はかなりシンプルなものだということになります。
なにしろ1924年までカリフがいたなんてことは、中田先生言われるまで知りませんでしたので。カリフの空位期間はわずか90年なのですよね。これを「カリフ制が終わってから90年」と数えるか、「カリフが空位になって90年」と数えるかでは、イスラーム世界の風景はまったく違ったものとして見えてくるんじゃないか。
だったら、「じゃあ、またカリフが戻ってくるかもしれない」と考えておいた方がいい。そういう可能性はどれほど少なくても勘定に入れておきたい。僕は武道家なので、予想外のことに遭遇して、驚かされるということが嫌なんです。武道家は驚かされてはいけない。腰を抜かしちゃいけない。慌てちゃいけない。そのためにどうするかというと、「起こりそうにないこと」も列挙できるだけ列挙して備えておく。そして、こまめに驚く。人が驚かないようなときにもまめに驚いておく。これ、とても大事なんです。人が「たいしたことないよ」と無視するような変化でも、「なんか想定外のことが起きるのかなあ・・・」とびくびくしながら見守っている。すると、「ここ一番」という変化に遭遇したときにもあまり驚かされない。これは僕の経験則なのです。幸い、僕は中田先生と出会って「びっくりした」ので、この「びっくり」のおかげで、これから後、イスラームの問題で「そんなことが起きるとは思わなかった」と不意打ちを食らって腰を抜かすリスクが劇的に軽減したと思うのです。
どう考えても、イスラーム問題で、西側世界の人間が一番びっくりするのは「カリフ制再興」ですからね。これ以上に過激な話というのは僕は思いつかない。
カリフ制が再興して16億のイスラーム共同体がそこに成立して、これまでイスラーム諸国として区切られていた国民国家が段階的にではあれ、消滅してしまう。
このシナリオは決して「ありえない」ものではない。極端ではありますけれど、政治的な選択としては想定可能です。少なくとも、今起きている中東の政治的混乱を「カリフ制」と「領域国家」の間の根本的矛盾というスキームでとらえると、見通しはきわめてすっきりしたものになります。
ですから、局所的なカリフ制、不十分なカリフ制というような過渡的形態が出現する可能性は十分にあると思うのです。そのようなものが最終的に16億のムスリムがグローバルな共同体を形成するカリフ制に移行する過渡的なものとして局所的、部分的に実現されていると見立てるというのは、イスラーム世界で起きている出来事を理解する上でたいへん有効な仮説だと思います。

ヨルダンのクリスチャンもカリフを求めてる」(アフタートークから)

中田 実はあの今日のトークでお話できなかったのですけども、ヨルダンから帰ってきた留学生の話があるのです。ヨルダンにはクリスチャンが結構いるのですが、ヨルダンのクリスチャンのアラブ人が、「我々はカリフ制を求めているんだ。カリフ制が復活してくれれば、我々クリスチャンも安心して暮らせる」と言っているのだそうです。

――それは、とても重要なメッセージではないですか。

中田 カトリックなのですね。本来はカトリックも共同体を持っていますので、その辺はやっぱり、アラブという地域的な視点でも領域国民国家は間違っていると思っていますから、やはり論理的に話すとみんな納得してくれるという。クリスチャンでもそう思っているのか、と思ってすごく面白かったですけどね。本来はユダヤ教もカトリックも一神教はそういう領域国民国家という偶像や国家崇拝の偶像化と戦ってきたわけで、それが今はイスラームに変わっているわけですよ。というようなところから考えていけば西洋の方でもカリフ制の理路は理解できると思うのですけど。

――やっぱり偶像化と戦ってきたわけですよね。

中田 そうなのですよね。でもやっぱり今は勝利者史観なので、全ての教科書は国民国家の立場なんて言いはじめていますから。

――その根底から疑うというのはすごいですね。まさにパラダイムシフト。

内田 国民国家というのは一つのオプションに過ぎないわけです。アメリカにしても中国にしても、少し前のソ連にしても、そういう国家形態は一定の歴史的条件が整ったせいで成立した。それがたまたま世界の覇権国家になったために、これが唯一の正しい政治単位のかたちだとみんな信じ込まれたのですね。

中田 日本の場合は、それを信じ込ませやすい、いろいろな条件があるので、なかなかそこから自由になるのも難しいですよね。そう言っていると本当に、先生がふだんおっしゃっている通り、戦争が起きかねないという状況になっていますから。そんな悠長なことを言っていられないですよ。【了】