特定秘密保護法について

2013-11-08 vendredi

衆院で特定秘密保護法案の審議が始まった。
すでに多くの法律家が指摘しているように、この法案は国民主権と基本的人権を侵害する恐れがある。
行政が特定秘密の指定を専管すれば、憲法上国権の最高機関であるはずの国会議員の国政調査権も空洞化する。
国民にしても「秘密保護法違反」の罪で訴追された場合、自分が何をしたのかを明かされぬままに逮捕され、量刑の適否について議論の材料が示されないまま判決を下され、殺人罪に近い刑期投獄されるリスクを負うことになる。
前にも繰り返し書いてきたとおり、自民党の改憲ロードマップは今年の春、ホワイトハウスからの「東アジアに緊張関係をつくってはならない」というきびしい指示によって事実上放棄された。
でも、安倍政権は改憲の実質をなんとかして救いたいと考えた。
そして、思いついた窮余の一策が解釈改憲による集団的自衛件の行使と、この特定秘密保護法案なのである。
解釈改憲は文言をいじらないで、事実上改憲して、アメリカの海外での軍事行動に参加する道を開くことである。
憲法をいじらないで、内閣法制局の憲法解釈に任せるなら、実際に海外派兵要請がアメリカから来て、その適否の判断が喫緊の外交課題になったときに「ぐずぐず議論している余裕なんかない、待ったなしだ」というお得意のフレーズを連打して、無理押しすることができると踏んだのであろう。
とりあえず、それまでは「アメリカと一緒に海外で軍事行動をするぞ」というのは政権担当者の心の中の「私念」に過ぎない。
成文化されない「心の中で思っていること」である限り、中国や韓国もこれをエビデンスベーストでは批判することができない。
特定秘密保護法案は放棄された自民党改憲案21条の「甦り」であることがわかる。
改憲草案21条はこうであった。
「出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。」
特定秘密保護法は「公益及び公の秩序」をより具体的に「防衛、外交、テロ防止、スパイ防止」と政府が指定した情報のことに限定した。
現実にはこれで十分だと判断したのであろう。
例えば、私の今書いているこの文章でも、それが防衛政策や外交政策の決定過程についての政権内部での秘密に言及したものであり、「重大な国防上の秘密を漏洩し、外敵を利することで結果的にテロに加担している」という判断はできないことはない(私のような官僚的作文の名手に任せてもらえれば、そのようなフレームアップはお安いご用である)。
私とて大人であるから、政府が国益上公開できない秘密情報があることは喜んで認める。だが、秘密漏洩についての法的措置は多くの法律家が指摘するとおり現行法で十分に対応できている。
現に、重大な国防外交上の秘密漏洩事案は過去にいくつかあったが、いずれも現行法によって刑事罰を受けている。この法律がなかったせいで防げなかった秘密漏洩事例があるというのであればそれをまず列挙するのが立法の筋目だろう。
だが、そのような事例はひとつも示されていない。
これまで存在したが罰されずに見逃されてきた事例について、それを処罰する法律を立法するのは筋目が通っている。
けれども、これまで存在しなかった犯罪について、それを処罰する法律の制定が国家的急務であるという話はふつうは通らない。
秘密保護について言うなら、これまで官僚たちが大量の秘密文書を廃棄して、国民の知る権利を妨害してきたことを処罰する法律を制定することがことの順番だろう。
この事例はまさに1945年の敗戦時の膨大な文書廃棄から始まって、開示請求に対して「みつかりません」とか「なくしました」とか「燃やしたようです」というような木で鼻を括ったような対応をしてきた官庁まで無数の事例がある。
これを許さない法律の制定であるなら、私も大歓迎である。
だが、今回の法律のねらいはそこにはない。
逆である。
「行政の失態や誤謬」にかかわる情報開示が特定秘密に指定されれば、行政への批判は事実上不可能になる。
これがきわめて強権的で独裁的な政体に向かう道を開くことであるという判断に異を唱える人はいないだろう。
政府はTPPの交渉や原発事故対応は特定秘密の対象にならないと答弁したが、原発の警備実施状況は特定秘密に該当すると述べた。
開示請求された情報の中に特定秘密に該当するものが断片的にでも含まれていれば、行政はその全部を秘匿するであろう。法律を弾力的に運用すれば、自己利益が高まるなら、政治家も官僚も必ずそうする。これは断言できる。
特定秘密保護法は賢明で有徳な政治家が統治すれば実効的に機能するが、愚鈍で邪悪な政治家が統治すれば悪用される法律である。
そういう法律は制定すべきではない。
それは現在の政治家や官僚が例外なく愚鈍で邪悪であるということを意味するのではない。
そのような人々が政治の実権を握ったときに被害を最少のものにするべく備えをしておくのが民主制の基本ルールだからである。
別に私がそう言っているのではない。
アメリカの民主制を観察したトクヴィルがそう言っている。
だが、その「民主制の基本ルール」を現在の安倍自民党政府はご存じないようである。
「民主国家」の統治者が民主制の基本ルールを知らないという場合、彼らが「賢明で有徳である」のか、それとも「愚鈍で邪悪である」のか、その蓋然性の計算は中学生にもできる。
安倍政権の狡猾さは、この特定秘密保護法が「果されなかった改憲事業」の事実上の「敗者復活戦」でありながら、アメリカのつけた「中国韓国を刺激するな」という注文については、これをクリアーしていることにある。
強権によって国内の情報統制を行うという点について、この両国は日本に「そのような非民主的な法律を作るのはよろしくない」と批判できる立場にない。
言ってもいいが、国際社会からも国内からも冷笑を以て迎えられるだけだろう。
だから、表現の自由の抑圧はいくらやっても、東アジア諸国(シンガポール、ベトナムはじめそのほぼすべての国が現在の日本よりも表現の自由において民主化が遅れている)から「非民主的なことはやめろ」という抗議が来る気づかいはない。
それどころか、日本のような豊かで安全な国でさえ、治安のために強権的な言論統制が必要なのであるから、治安の悪いわが国においておや、という自国の強権的統治を正当化する根拠として活用することができる。
つまり、まことに気鬱なことであるが、日本の民主化度を「東アジアの他の国レベルまで下げる」ことは世界的に歓迎されこそすれ、外交的緊張を高める可能性はないのである。
というわけで、安倍政権は改憲プランを放棄した代償に「東アジアに緊張関係を作り出さずに改憲の実を取る」という宿題に「集団的自衛権」と「特定秘密保護法案」を以て回答したのである。
かなりの知恵者が政権中枢にはいるということである。