府教育長の通達について

2013-09-19 jeudi

大阪でまた教育現場に「どんより」と暗雲が漂っている。
知らないうちにいつのまにか府教育長になっていた府立和泉高校の「口元校長」が「口元通達」を今度は府立学校全てに発令したのである。
まずは新聞記事から。

「大阪府教委が、入学式や卒業式で教職員が実際に君が代を起立斉唱しているか、管理職が目視で確認し、結果を報告するよう求める通知文を府立学校に出していたことが18日分かった。中原徹府教育長は府立高の校長時代、君が代斉唱時に教職員の口元の動きをチェックし、論議を呼んだ。今回も同様に口元を確認し、徹底を図る方針で、再び議論が起きる可能性がある。
通知は9月4日付。全ての府立高校138校に出され、支援学校全31校にも出す方針。秋入学・秋卒業を取り入れている一部学校で、9月に開かれる卒業式に間に合わせた。
通知文では、「公務に対する府民の信頼を維持する」ことを目的とし、入学式や卒業式での君が代斉唱の際の校長・准校長の職務として、「教職員の起立と斉唱をそれぞれ現認する。目視で教頭や事務長が行う」と明記。結果を文書で報告するよう求めた。
起立斉唱しているかの判断基準は「総合的に現認し、公務の信頼性を維持するため、十分な誠意ある態度をとっているかどうかで判断すべきだ」とした。判断が困難な場合は、詳細を報告し、府教委に相談するよう指示している。
大阪府は橋下徹知事時代の2011年6月、教職員に君が代の起立斉唱を義務付けた条例を制定。違反した場合は処分の対象とし、12年1月、府教委は各校長に起立斉唱を徹底させる通達を出した。同年3月、当時、府立和泉高(岸和田市)校長だった中原教育長が卒業式で、実際に教員が歌っているかどうか口の動きを教頭にチェックさせた。
中原教育長は今年4月、教育長に就任。起立斉唱については「公務員として公の秩序を維持し、誠意ある行動を取れるかどうかという観点で見ていきたい」と話していた。
今回の府教委の通知について、ある府立高校教頭は「そこまでしないといけないのかと、違和感を覚える」と話した。【深尾昭寛】(9月19日毎日新聞)

平川君がひとこと「病んでいる」とコメントしていたが、たしかにその通りだと思う。
大阪の教育行政は深く病んでいる。
いったい、この教育長は何を実現したくてこのような通知を発令しているのか。
私にはそれがわからない。
理由は「公務に対する府民の信頼性を維持する」ことだという。
式典における「君が代斉唱」がいったいどういう理路において「公務に対する府民の信頼性」を担保することになるのか、それがわからない。
教員に求められているのは何よりもまず「教育者としての信頼」である。
教育者としての資質の適否についてはさまざまな指標があるが、最終的には「子供たちの市民的成熟に資するところがあったかどうか」という結果によって判定するしかない。
これは30数年教壇にあったものの経験的実感である。
そして、経験から学んだのは、「こうすれば必ず子供たちは市民的に成熟する」という必勝の教育法は存在しないということであった。
あらゆる子供のうちにそれぞれ固有の豊かな資源が潜在している。それが、いつ、どういうきっかけで開花することになるのかはひとりひとり全員違い、かつ予測不能である。
だから、もっとも効率のよい教育方法は「さまざまな教育理念に基づいて、さまざまな教育プログラムを、さまざまな教育技術をもつさまざまな教員が実施すること」になるのである。
子供ができるだけ多様な「トリガー」に触れること。
迂遠だが、この「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」方式以上に効率の良い教育方法を私は知らない。
逆に、もっとも効率の悪い教育方法は「単一の教育理念に基づいて、標準化された教育プログラムを、定式化された教育技術をもつ、均質的な教員が実施すること」である。
この制度は、子供たちの数値的な序列化・格付けにはたいへん効率的であるが、それだけのことである。
子供たちを教育機関が恣意的に序列化してみせることと、子供たち自身のポテンシャルの開花の間には相関がない。
閉鎖集団の中での相対的な優劣を競わせ、勝者に報奨を敗者に処罰を与えるというのは、「キャロット&スティック(人参と鞭)」と呼ばれる教育戦略である。
この戦略の有効性をいまでも信じている人もいる。
私は信じない。
信じないというか、それが機能しないことを現場で思い知らされている。
閉じられた同学齢集団内部での相対的な優劣を競わせれば、子供たちはすぐに学力競争では、自分の学力が高いことと他人の学力が低いことは同義であることに気づく。
そして、ただちに自分の学力を上げることは困難だが、他人の学力を下げることは容易であることにも気づく。
その結果、子供たち全員が互いに互いの学習努力を妨害し、学習意欲を殺ぐことを教室における最優先の責務として行動するようになる。
現にそうなっている。
だが、いまだに数値的な序列化・格付けとそれによる報奨と処罰「だけ」が唯一有効な教育手段だと信じている人がたくさんいる(この府教育長もおそらくその一員であろう)。
そういう人間が教育行政を仕切っているところでは、子供たちの学力は劣化してゆく他ない。
教員たちも子供たちと同じやりかたで序列化される。
イエスマンが報奨され、反抗的な教員は処罰される。
大阪の教育現場はそういうことになっている。
その結果、ほとんど瓦解している教育現場に追い打ちをかけるように、この教育長は「鞭」を振り回してみせた。
彼はその「鞭」がどのようなプラスの教育効果をもたらすと思っているのか。
鞭を振り回すことでどのようにして瓦解しつつある教育現場を再生させ得ると信じているのか。
私はそれが知りたい。
教委と管理職と保護者からの査定のまなざしに怯えて、自尊感情を失い、創意工夫の機会を奪われている教員たちが、この「鞭」のおかげでどう活気を取り戻すことになるのか。
その理路が私にはわからない。
でも、教育長がこう問われてどう返事するかは、私にはわかる。
「そんな話をしているんじゃない」である。
問題は「公務に対する府民の信頼性を維持する」ことであり、ただ就業規則を遵守することを公務員に求めているだけで、教育効果の話なんかしているわけじゃない。
ここに問題の混乱がある。
公教育が存在するのは、子供たちの市民的成熟を支援するためである。
である以上、教育に関するあらゆる行動の適否は「それが子供たちの市民的成熟を支援することに利するかどうか」を最高基準に判定されなければならない。
私はそう考える。
具体的に考えて欲しい。
例えば、医療の目的は「病気や怪我の人間を適切に癒やすこと」である。
医療に関するあらゆる行動(医療政策から治療方法の選択に至るまで)はその基準に基づいて適否を判定されなければならない。
もし「医師に対する患者の信頼性を維持する」ために「出勤時に医療者全員が『ヒポクラテスの誓い』を唱和することを義務づけ、病院長は唱和しているかどうか口元の動きを現認し、唱和していない医療者を処罰する」ことを全医療機関に通達する当局者がいたら、みなさんはどう思うか。
バカだと思うだろう。
そして、その通達が患者たちの健康回復にどう結びつくのか、その理路を説明して欲しいと言うはずである。
そのとき、そう問われた当局者が「そんな話をしているんじゃない」と言ったら、あなたはどう思うか。
問題は「医師に対する患者の信頼性を維持する」ことであって、患者の健康の話をしているんじゃない、と言ったら、あなたはどう思うか。
たぶん、そういう人間にはできるだけ医療現場には近づいて欲しくないと思うだろう。
教育長がしているのは、それと同じことである。
それをすることが現実の教育目的の達成のためにどういう有効性があるのかを吟味しないままに、恣意的に選んだ基準に基づいて、教員の適性を格付けしようとしている。
繰り返し聞くが、「そうすることによって、あなたは子供たちの市民的成熟にどのようなプラス効果が期待されると思っているのか?」
たしかに「鞭」を振り回せば、教員たちの自尊感情を損なうことはできるだろう。
イエスマンだけが出世し、多少とでも教育行政に批判的な教員は浮かばれないというシステムは作れるだろう。
処罰を怖れて式典で口元をはずかしげにぱくぱくさせている教員を見て、子供たちが「なんて根性のない、つまらない教師だろう」と軽蔑と不信の感情を抱くように仕向けることはできるだろう。
だが、それによって何をしたいのか、それがわからないのだ。
大阪府の学力はご存じのとおり全国最低層に居着いている。
橋下府知事の時代からすでに5年余におよぶ教育改革の果てに、大阪の教育現場は深い混乱のうちにある。
なぜ自分たちが進めてきた政治主導の教育改革がうまくゆかないのか、それについてそろそろ「反省」ということをしてもよいのではないか。
だが、さきに全国学力テストの結果、大阪が最低層であったことを受けて橋下市長は「教育委員会の責任だ」と言い切った。
首長は「学力を上げるように」という「正しい」指示を出したのに、教育委員会はそれを物質化できなかったのだから、すべては教委の責任であり、市長には何の瑕疵もない、と。
この論法が通るなら、一連の教育改革の「失敗」もいずれ教委の無能や現場教員の「公務員としての信頼性の欠如」に帰されることになるだろう。
どうなっても何の責任も取る気がない人たちが大阪の教育行政の要路にあって、教育現場を混乱させ、教育活動を阻害する施策を次々と発令している。
無残な光景である。
言葉も出ないが、最後にひとつだけ。
教育長は「公務員の信頼性を維持するため」に条例の遵守を求めている。
ところで、彼は彼を任用した大阪市長も大阪府知事も改憲運動の先導者であることは熟知しているはずである。
維新の会は党綱領において、現行憲法を第2次大戦後に連合国から押しつけられた「占領憲法」と位置づけ、「日本を孤立と軽蔑の対象におとしめ、絶対平和という非現実的な共同幻想を押し付けた元凶」と明記した。
これを一つの政治的意見として主張することに私は異議はないが、党代表の市長も幹事長の府知事も公務員である。
彼らは公然と憲法を批判しているわけだが、これは「公務員の信頼性」を毀損することにはならないのだろうか。
憲法99条には「公務員の憲法尊重擁護義務」が明記されている。
「天皇または摂政および国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」
改憲運動をしている人々には国務大臣も国会議員も知事や市長も含まれているが、彼らにはそれが「憲法尊重擁護義務」違反であるという自覚はあるのだろうか。
たぶんないのだろう。
最高法規である憲法を軽んじることは「公務員の信頼性」を毀損することにならない根拠として、彼らはきっと「憲法21条で表現の自由は認められている」と憲法に書いてあるから、憲法をどれほど罵倒してもそれは公務員の「憲法尊重擁護義務」には悖らないのだと言い抜けるつもりなのだろう。