五輪招致について

2013-09-04 mercredi

AERAの今週号にこんなことを書きました。

2020年の五輪開催都市を決めるIOCの総会が始まる。
最終候補に残ったのは東京、マドリード、イスタンブール。88年の名古屋以来、08年の大阪、16年東京と三度連続招致失敗の後の四度目の挑戦である。
安倍首相、猪瀬都知事は国内での招致機運を盛り上げようと懸命だが、私のまわりでは東京五輪が話題になることはほとんどない。
気分が盛り上がらない第一の理由は、福島原発の事故処理の見通しが立たない現状で、国際的な集客イベントを仕掛けることについて「ことの順序が違う」と感じているからである。
第二の理由は、招致派の人たちが五輪開催の経済波及効果の話しかしないからである。
東京に招致できたら「どれくらい儲かるか」という皮算用の話しかメディアからは聞こえてこない。
「国境を越えた相互理解と連帯」とか「日本の伝統文化や自然の美しさを海外からのお客さんたちにどう味わってもらうか」というようなのどかな話題は誰の口の端にも上らない。
個人的には、五輪の本質は「歓待」にあると私は思っている。
64年の東京五輪を前にしたときの高揚感を私は今でも記憶している。
当時の国民の気持ちは「敗戦の傷手からようやく立ち直り、世界中からの来客を諸手で歓待できるまでに豊かで平和な国になった日本を見て欲しい」というある意味「可憐」なものだった。
「五輪が来ればいくら儲かる」というようなことは(内心で思っていた人間はいただろうが)人前で公言することではなかった。
理想論かもしれないが、五輪は開催国の豊かさや政治力を誇示するためのものではなく、開催国民の文化的成熟度を示す機会であると私は思っている。
五輪招致国であることの資格は、何よりも「国籍も人種も宗教も超えて、世界中のアスリートとゲストが不安なく心穏やかに滞在のときを過ごせるような気づかいを示せること」である。だとしたら、日本の急務はばかでかいハコモノ作りより、原発事故処理への真剣な取り組みと東アジアの隣国との友好的な外交関係の確立だろう。
原発事故のことを忘れたがり、隣国を口汚く罵倒する人たちが政治の要路に立ち、ひたすら金儲けの算段に夢中になっている国に五輪招致の資格があるかどうか、それをまず胸に手を当てて考えてみた方がいい。